【愛と平和】ひとりぼっちのシルキ
「どこに行った」
「探せ、まだ近くにいるだろ」
人の声に怯え、ぎゅっと頭巾を被り直す。追い回されることには慣れていたが、それでも怖いものは怖い。
西方の山脈、ナヴァレスカの嶺の麓の森。それがシルキの生きる場所だった。思い出せる一番古い記憶は、小さな山小屋の中で、母親が頭を撫でてくれたことだ。彼女の手は自分のものとは違ってつるつるしてすべすべで、柔らかくシルキの頭や耳を撫でてくれた。そんな日々は長く続かなかったように思う。母が言っていたことが本当なら、シルキはことして十二歳だ。
母が死んで、もう三年経つ。幼いシルキはそれまでに見聞きした知恵でなんとか生きてきた。シルキの手は母のものと違って、黒くて強い毛で覆われ、少し短い指をしたものだ。シルキの足は、なんだか変な形をしていて、やっぱり毛に包まれていた。それに、母とは違って耳は大きいし、口も大きいし、目も大きかった。
母と、少し遠い村に行く時、シルキはいつだって目深に頭巾を被って、大きな外套を着ていないといけなかった。そこには他にも子供がいたけれど、一緒に遊ぶことはできなかったし、大きなおじさんに声をかけられて怖いと思ったこともあった。
母が死んだ時、どこからか真っ黒な外套の人がやってきた。帽子を深くかぶっていて、顔は見えなかった。シルキをじろりと睨んできたのだけを覚えてる。それから、母のぐったりした体を抱き上げて、こう言ったのだ。
「お前の迎えはまだだ。忌々しいことに、この女との契約があるから教えてやる。十二歳になる年、お前を迎えにくる奴がいる。だから森を離れてはいけない。わかったな」
それが何を意味するかわからないまま、十二歳になったはずだ。
青葉の茂る森の中に、声が響く。
ずっとひもじい冬を超えて、春の暖かい季節になった。美味しく食べられる新芽があちこちから飛び出して、嬉しくなってたくさん摘んでしまった。頭巾が落ちてしまっているのにも気付かず。それを、近くを通ったどこかの村の人に見られたのだ。
「化け物だ」
と誰かが言った。石がぶつかって、シルキの頭から血が流れた。シルキは走った。母の言いつけを守って、誰かに追われたら家に帰ってはいけない、誰もいなくなって夜になったら戻りなさい、という言葉を守って、走って、走って、疲れて座り込んでしまった。
まだ、人の声がする。どうしよう、見つかったらどうなってしまうのだろう。縮こまっていることしかできず、心細くなってくる。
「シルキ!」
と唐突に名前を呼ばれた。知らない声だった。慌てて木の後ろに隠れる。
「シルキ、大丈夫だ。ほら、怖くないよ、出ておいで」
低い声だった。ちら、と覗いてみると、そこには真っ白な毛皮を持った人が立っていた。大きな耳、大きな口、大きな目。シルキにそっくりな手足をした人だ。
「ああ、怪我をしてしまったのか……遅くなってごめんな、母さんには間に合わなかったが、君を迎えにきたよ」
手を差し伸べられる。自分のものよりも、母のものよりも大きなそれに、シルキはぱっと飛びついた。その手に引き寄せられて、抱き上げられる。
「うん、随分大きくなった。別れた時は赤ん坊だったものな。シルキ、初めまして、私は君の父さんだよ」
シルキはその顔を見上げる。鼻と鼻が触れ合うととても安心した。大きな口はシルキなどひと飲みできそうだが、それでもなんだか、とても嬉しかったのだ。
「もうずっと、父さんの国と母さんの国は戦争をしていたんだ。やっと全部終わったよ、これからは何の心配もなく暮らせるからね」
言っていることの意味はまだよくわからなかったが、シルキは「うん!」と頷いて、抱きしめてくれる腕に顔を埋める。真っ白な毛が顔をくすぐって気持ちが良かった。
白い獣人が逞しい馬に跨ると、その馬は山道をものともせずに駆け抜ける。どこどこと土を踏み鳴らしていく音を聞きながら、緊張が解けたシルキはうとうととまどろむのだった。
3/11/2026, 1:53:10 AM