【もっと知りたい】地下の閉架書庫
バーニー・ガルヴィンは再来週の授業の提出物のため、普段の生活圏からいささか離れた図書館を訪れていた。漁村における風俗史がテーマになってしまい、自分の所感を述べるにもテキストが足りない。よりにもよって学内の図書館の資料は貸出中、市内の図書館が改装中だった。同じクラスのメンバーは「今回ばっかりはネットに頼る」と言い出すし、同じ講義にいる日本人は「日本の資料なら当たりやすいから」とそっちに切り替えている。どうしようもなくなったが、前回のエッセイの出来が「可」だったバーニーとしては、ここは挽回しなければならなかった。
尋ねた図書館は、隣の市のさらに端の方、それこそ元々漁村があったあたりの図書館だった。今は工業化、商業化に飲まれて、海岸はコンクリートで固められている。大きな船舶が貿易や資材の運搬をするのに使われている、いわゆる港町ではあった。潮風が妙に生臭いと思いながら、図書館へ自転車を走らせる。
エントランスの司書に、「本を予約しているガルヴィンです」と話しかけると、ポニーテールの彼女は「はい、お待ちしてました」と笑顔を見せてくれた。
「……あら?」
しかし手渡そうとした本を確認して首を傾げる。
「おかしいわね、予約の本が足りないみたい」
背表紙を見ると、周辺資料として予約したものは揃っているのだが、中心として扱う予定だった書籍が抜けているようだった。
「ごめんなさい、足りてない本は閉架にあるの。今私ここを離れられなくて……多分、フィッツジェラルドさんが書架整理に入っているから、言えば通してくれるはずよ。持ってきてくれたら貸し出しするわね」
彼女に地下への階段を案内され、地下二階の閉架と書かれた看板を頼りに、書庫の扉を開く。
「あの、どなたかいらっしゃいますか」
とバーニーが声をかけると
「ここは閉架ですよ」
と穏やかな声が奥から届いた。どこか否定的なニュアンスを含むそれに少し怯むが、バーニーは声のする方に近付く。書庫の中はゴウゴウと音を立てて換気扇が回っていて、蛍光灯が時々パチパチ瞬いた。
「えと、書籍を予約していたガルヴィンです。書籍が足りてなくて、司書さんに閉架まで取りに行ってくれって」
「……ああ、アナベルが手抜きをしたのですか。それは失礼を」
そう言いながら、中年の男が書棚の隙間から顔を出した。
「私はフィッツジェラルドといいます。どうぞアナベルの件は気を悪くなさらないでくださいね。先週からスタッフに欠員が出ていて」
「いえ」
なんとなく居心地の悪さを感じて、つい目を逸らす。周囲には古めかしい本がみっちりと並んでいた。コードごとに並べられているようなのだが、ところどころ段ボールに入った本が雑多に混ざっている。
「お探しの本なら、確かこの列の奥から二つめの棚です。お手数をおかけしていますし、ガルヴィンさんの調べ物が終わるまで、出入り自由にしておきますよ」
「はぁ……」
と、言われても難題のエッセイに関わる資料が見られればいいのだ。フィッツジェラルドに軽く挨拶をしてから、バーニーは言われた通り奥の方へ進んだ。
確かに、奥から二つめの棚にその本はあった。緑色の背表紙が、壊れかけて糸が見えている。慎重に取り出し……ふと、中身を読みたいと思った。ぱらり、と冒頭のページをまくる。そこにはこの市の起源と、伝説や伝統についてどのように調べたのかが述べられている。なぜか目が離せなかった。じっと読み進める。他の州から、海と反対側にある川沿いに北上してきた最初の住民たちが、この市の元となる集落を作ったこと。海岸沿いに立ち並んだ木造の古屋の写真、そこで働く人々の記録。ただそれだけのはずなのに、目が離せない。
市中にあったホールが老朽化して取り壊しが決まったのが、今から五十年ほど前、という下を読んでいるときに、肩を叩かれて思わず「わっ」と声が漏れた。
「すみません、そろそろ閉館時間なもので」
「あ、す、すみません……」
すぐ帰るつもりだったのに、何故、と自分を疑問に思いながら、本を抱える。フィツジェラルドに見送られ、アナベルが「閉架の迷路で迷子になっちゃった?」と笑うのに背中を押され、資料を手に寮に帰る。同室の友人はまだ外出しているらしく、部屋には一人だった。
駅前で安売りになっていたレトルトのディナーボックスの中身を口に押し込みながら、本を読む。ひたすらに読んだ。何がそんなに惹きつけられているのかわからない。ただ、隣の市にはずっと敷き続けられていた一つの文脈がある。それはおそらく、ひどくマイナーな宗教の観念に基づく思想だった。漁にも、農家にも、街の作りにも、家屋の配置にまで。市中にあったホール、その出入り口にあった石像は、我々を見守るもの、と名されていた。どうみても三流映画の半魚人のように見えるそれ。しかしそのポーズにも、表情にも、何かを感じてならない。
エッセイを書かなければと囁く冷静な己がいる一方で、「この不可解を、読み解きたい」と、バーニーの中で何かが首をもたげていた。
3/13/2026, 3:25:04 AM