【太陽のような】
花園霞は彼氏の誘いを断って、好きな人をデートに誘った。
霞はそのことについて何の罪悪感もなかったし、むしろそういう思考にすらならなかった。
昼下がりの学生実験中、白衣の下でメールの受信音が鳴る。
もしかして、直樹くんから?
初めての学生実験で困惑している学部生にテキパキと指示を出すと、霞は軽い足取りで実験室を後にした。
実験室ではスマホの使用が禁止されている。
学部生ですらルールを守っているのだから、大学院生の霞が破るわけにはいかない。
「なーんだ」
スマホの画面を見て、霞はげんなりとする。
そこには「了解」の二文字。
端的に言えば、「あなたとのデイトはお断りさせていただきます」という霞の返事に対する、彼氏の受理メールだった。
すっかり直樹からの返事だとばかり思っていた霞は、ぐったりと肩を落とす。
まったく酷いやつだと自分でも思う。
こんなやつによく彼氏は愛想を尽かさないものだと、霞は思った。
「今日の実験、大変だったねぇ」
「そうだね。私たちも、三年前はあんな感じだったなぁ」
実験が終わり、霞はカフェに来ていた。
隣で友達のさやかがコーヒーを啜っている。彼女の頬は、少しばかり赤い。
大変だったねぇ、と言う割に、さやかはそれほど疲労感を見せていなかった。
さやかの心の矛先が目の前の男に向いていることを霞は知っている。
さやかはコーヒーを飲むという大義名分を掲げて、実のところ目の前の男が目的なのだ。
男はここのカフェでアルバイトをしている、一つ上の先輩だ。
男は大変イケメンで、今日もさやかの熱い視線を軽やかに回避している。
これは多分、フラれるなと霞は思ったが、あえてさやかにその旨を告げるのはやめた。
霞も霞で、友達とのカフェなんぞどうでも良かった。
さやかと共にカフェインを摂取する必要性などどこにもないし、目の前の男に別に興味もない。
霞がさやかと一緒にここへやってきた理由は、また別のところにある。
じゃないとこんな薄っぺらい会話は成り立たないし、互いに気まずいだろう。
「いらっしゃいませ」
男が笑顔を浮かべる。
来た! と霞は思った。
なるべく相手に悟られないよう首を回し、視線を向ける。
直樹だった。
霞は爆発しそうになる心を押し込み、控えめに手を振る。
「おお。霞」
直樹は心底驚いた様子で、霞に手を振り返す。
彼は彼女の横に座り、紅茶を一杯注文。
霞は自分の直感と偶然に感激した。
今日はついてる。そう思った。
「そう言えば、誘いの件なんだけど」
「ええ」
「あの日はバイトあるから、別日ならいいよ」
「ほんと!? 直樹くんに合わせるわ」
本当に、自分はどうしようもない野郎だと思う。
全く彼氏持ちとは思えない言動だ。
霞はそれを自分で自覚していたし、分かっていてやっているのだ。
「次の日曜なら空いてる」
「私も行ける」
「じゃあ決まり。時間は連絡するよ」
霞の心臓はかつてないほどのスピードで、全身に血液を送り出している。
罪悪感なんて微塵もない。
心は晴れ晴れとしている。
そっと直樹の顔を見ると、彼は純粋な笑顔を浮かべていた。
まるで、例えるなら……そう。太陽のような笑顔だ。
まさか目の前の女が浮気者だと、直樹は微塵も思っていないだろう。
じゃなきゃ、そんな晴れ晴れとした笑顔を浮かべることなんて出来ない。
「すごく楽しみ」
霞もあえて彼と同じ笑顔を浮かべて、そう言った。
【0からの】
もうとっくに日が沈んだ夜の研究室に、学生が二人、残っていた。
坂本優と中島ちさとだ。
二人は黙々と自身のデスクに向き合い、パソコンを見ている。
優は確かにパソコンを眺め、文字を打ち、論文を滞りなく完成に近づけていたが、実のところ、頭は他のことを考えてやまなかった。
彼の頭の中はそんなことよりも、隣にいる彼女のことでいっぱいだったのだ。
最近、どうにも優はちさとと一緒にいる事が億劫になりつつあった。
隣に彼女がいると、言い表せない緊張感があるのだ。
「私たちさ」
最初に静寂を破ったのは、ちさとのほうだった。
「うん」
優はパソコンから目を離さず、答えた。
どこかで実験装置が動いているからか、機械的な音がする。
優がエンターキーを押すと、プリンターが起動した。
「そろそろ、節目だと思うの」
「節目?」
ちさとの言葉に、優は疑問を覚える。
節目とは何か。
何か、自分たちの間にそういう区切りというものが作られていたか。
優にはどうも思いつかなかった。
「付き合ってから、もう三年でしょ。節目だよ」
「もう三年か。節目なんだね」
三年がどのように節目なのか、いまいちわからなかったが、もう三年かと優は思った。
大学二年の時に付き合い始めて、三年。
今は大学院生だ。
「そろそろ、リスタートが必要だと思うの」
「リスタート? 0からやり直すってこと?」
「そう」
ちさとはせきを切ったように語り始めた。
人間には厄介な機能が備わっているということを、彼女は雄弁に語り始めた。
人間には適応能力があること。
つまり、慣れるのだ。
どんなに楽しいことも。逆に辛いことも。新鮮なことも。
三年の間に、二人はいろいろなことを経験してきた。
同時に、慣れてしまった。
デートは何回もした。
食事も何度も行った。
同じ話を幾度となくして、その度に笑った。
彼らはすでに、新鮮に慣れ始めている。
彼らはまだ、互いの顔を見ない。
パソコンを見つめている。
可愛らしいと思っていた彼女。しかし、慣れてしまった。
話すたびに顔を見たいと思っていた感情が、今では薄れつつある。
「やり直すとして、どうやったらできるのさ。頭でも殴って、記憶喪失にでもなるか? 脳細胞が死ぬのはごめんだ」
「違うよ。脳細胞は殺さないから安心して。そうね……強いて言うなら、思い込むのよ」
「思い込む?」
「そう、思い込む。私たちは今初めて互いの心を知り、付き合い始めた。互いに両思いで、好き合っていて、今日ようやく叶った恋」
「なるほど。要は三年前の感情を今ここに持ってくるわけだ」
「そう。互いに目を瞑って、私が手を叩いたら、同時に目を開ける。そうしたら私たちは0から始まってる」
「そう簡単にいかない」
「いかないことでも、無理やり突き通す事が重要になってくることもあるのよ」
ようやく、二人は顔を見合わせた。
ちさとは人差し指を口に当て、妖麗に笑っていた。
「とりあえず、やってみるか」
「ええ」
二人は目を瞑った。当然ながら優の視界は真っ暗だ。
目の前のちさとは今どのような状態なのか、優は気になった。
本当に目を瞑っているのか否か。
多分瞑っているだろう。
彼女が言い出したことだ。
しかし、なんだか不思議な感を彼は覚えた。
ちさとが気になるのだ。
目を開けたくてしょうがない。
さん、にー、いち。
彼女は唱えて、パチンと手を叩いた。
優は目を開けて、彼女を見た。
彼女はほぼ同時に瞼を開けるところだった。
「私、これからあなたと付き合うことになるのね」
モゾモゾと恥ずかしそうに、ちさとが言う。
優は不覚にもドキッと心臓を跳ね上がらせた。
脈が速くなる。
「ああ。実感が湧かないが……そうだな。これからよろしく頼む」
「好きよ、優」
「俺も好きだ。たぶん、ずっとこの気持ちは薄れないだろうな」
ちさとはポッと頬を赤らめて「私も」と言った。
プリンターが機能を停止し、印刷された紙が束になっている。
いつのまにかどこぞの装置は電源を落とし、ちさとと優は一緒になってパソコンを覗いていた。
【手を繋いで】
隣を歩くナナセは、相変わらず能天気だ。
黒く艶やかな長髪を風になびかせ、スカートをはためかせながらスキップしたり、たまにジャンプしてみたり。
日本から四季がなくなってしばらくが経った。
春夏秋冬という概念が消滅し、ある日には猛暑、次の日には豪雪。
そんなわけのわからない、異例の天気が続くようになって、僕たちの生活は一変した。
魚は取れず、野菜も取れず。
四季が無い他の国でも、徐々にそのような現象が広がり始めている。
次々に生物が絶滅していき、地球から生物が絶滅するのにそれほど長くはないと言われていた。
もう今までのように、僕たちは有り余る百年という寿命に安心感を覚えることはできない。
たぶん、もう、数年したら死ぬかもしれない。
科学技術が発展して、人工的に作れる農作物も増え始め、人の手で動物を保護している。
だから、もう少し、長く生きられるかもしれない。分からない。
そんな状況下でも、ナナセはやはり能天気だ。
「気楽だね。ナナセは」
僕は思わずそう口にした。
「気楽ー? 気楽だよー。悩み事ないしー、あ! 最近少し太った……とか? それくらいかなぁ。それをいうなら、シンヤ君こそ張り詰めた顔してる」
ナナセは僕の顔を覗き込むようにして、微笑んだ。
燦々と降り注ぐ太陽が隠れ始め、突然冷たい風が吹き込んでくる。
「だって。僕たちの人生は、これからどうなるかなんて分からない。どうしたら、いいんだろ」
僕にはただ一つ。このまま死ぬわけにはいかない、やり残したことがあった。
僕はナナセが好きだ。
とてもとても好きで、銀河がひっくり返っても、太陽が突然地球の周りを回り始めても、それでも彼女のことしか見えない。
それくらい彼女のことが好きなのである。
「私のことは好きですか」
僕の心を見透かしたように、唐突に、ナナセはいじわるな顔をした。
「好きですよ」
僕は正直に言ってやった。
「果たして、その恋は本当に私に向いてますか」
「ええ。向いてます。寸分の狂いなく、君に向いてます」
間違いない。
僕は君しか見えてない。
「私の恋も、シンヤ君に向いてます」
「果たして、君の心臓は、僕にときめいていますか」
「ええ。ときめいてます。それはもうイルミネーション並みにきらめいてます」
ナナセはそう言って、一歩。また一歩。
僕に近づいてくる。
「僕は君と手が繋ぎたいんです」
「果たして、君の手は、切実に私の手を求めていますか」
雪が降り始める。
強く風が吹いて、僕たちの間を白が巡る。
「ええ、求めてます。僕は君の手を、ギュと握りしめたいんです」
僕たちは手を繋いだ。
僕のポケットに、彼女の手を入れる。
それだけで、吹雪の冷たさが何倍もマシになった。
マフラーを取り出し、くるくると巻き、密接に体を近づけ合って。
僕たちは歩く。
【泣かないで】
「ねえハルヒロ。この先……まっすぐだっけ」
大学終わりのことだ。
隣を歩くメイが、ぽかーんとした表情で首を傾げた。
道順は何度も教えたはずなのに、どうにもメイは方向音痴である。
「違うよメイ。右に曲がって、左に曲がって、その後まっすぐだよ」
でも、右に曲がって、左に曲がるから、結局、方角的にはまっすぐと同じ……なのか?
メイは野生的な感を持っていたりするのだろうか。
ほら、太陽の方向で決める……みたいな。
いやいや、山の中じゃないんだし。
「そっか! さすがはハルヒロ!」
「心配になるよ。メイの方向音痴には」
「昔にもこういうのあったよね。ほら、高校入学前の時?」
高校入学前というと、メイが引っ越してきた時のことか。
そんなことあったっけ。あんまし、覚えてない。
ハルヒロとメイが出会ったのは確かにその時だけど、経緯はもう覚えてない。
いつのまにか仲良くなって、高校で話すようになって、同じ大学に行ってた……みたいな。
「そんなのあったっけ?」
「あったよ! 運命の出会いを果たした時のことを忘れるなんて。ハルヒロは非情だ!」
メイが頬を膨らませ、抗議してくる。
表情はご立腹だが、目は楽しそうだ。
* *
ハルヒロは夜道を歩いていた。
その時は特に理由はなく、ただ夜道を歩いていた。
したがって、特に行き先はない。
街並みは相変わらずで、田舎の雰囲気。
人っこ一人、道行く者はおらず、たまに車が通るだけ。
「明日から、高校生活……か。めんど」
もうすぐ春休みが終わる。
ただそれだけが、ハルヒロの中で渦を巻いていた。
特に充実してはいなかったが、休みが終わるのは憂鬱だ。
「疲れた」
気がつくと、ハルヒロ神社に来ていた。
真っ暗で、なんだか不気味。
幽霊、お化け? みたいな。そういうものはあまり信じていないけれど……。
少し、怖かった。
しかし、ずいぶんと歩いたので、すぐに引き返すほどの体力は残っていない。
ハルヒロはボロけたベンチに腰掛けた。
「……ッ!? ゆ、幽霊っ!?」
明らかに、泣き声……だよね?
座っていると、泣き声が聞こえてきた。鼻水をすする音? みたいな。
すごくリアルで、不気味すぎて怖すぎる。
心臓が止まるかと思った。
ハルヒロは音がする方へ歩いた。
いや、なんだか。怖いんだけれど、確かめずにはいられない……。
「だ、大丈夫……ですか? ど、ど、どうして泣いてる……の?」
女の人が、うずくまって泣いていた。
ほら、やっぱり幽霊なんていない。
どちらかというと、ハルヒロの方が幽霊みたいだ。
きょどりすぎ、自分。
春休み、ろくに人と会話してなかったから声がおかしい。
「迷子になった」
女の人はメイと言った。
メイは最近引っ越してきたらしく、散歩に出掛けて迷子になったらしい。
真っ暗だったけれど、ずいぶん彼女は可愛らしかった。
目の保養? みたいな。見ているだけで、見惚れてしまいそうになった。
こんな可愛い子いるんだと、感心した。
それにしても、引越してすぐ一人で外に出るなんて、肝が据わっている……のか。
「泣かないでよ。その、ほら、僕……道知ってるし? だから……その。安心というか。いや、不審者じゃないよ? 多分同い年だから安心……だと……思う……から」
自分でも何言ってるのかよくわからない。
とりあえず泣き止んで欲しくて、ハルヒロは頑張った。
「ふふっ」
そんなにおかしかったのだろうか。
でも、ようやく、メイの笑顔が見られた。
「ハルヒロ君」
「どうしたの?」
帰り道。
夜の道を歩くメイは、目元を少し赤らめながらハルヒロの袖を掴んだ。
同級生の女子と一緒に歩いたことなんてなかったハルヒロは、それだけで心臓を跳ねさせた。
「また私が迷子になったら、見つけてくれる?」
メイはどうやら方向音痴だったらしい。
彼女はこれからも迷子になる前提のようだ。
迷子になった人を見つけるのは酷く骨が折れるよ。流石に。困る。
今日はたまたま見つけただけだし。
「迷子になる前に、僕に言ってよ。道案内くらい? はしてあげる……から。また泣かれたらその……めんどいし」
そうだ。
泣かれるとすこぶる大変だ。
ハルヒロが泣かせたみたいな。もし人の目が合ったら、嫌だ。
「めんどいなんて、ひど〜。じゃあ、私が泣かないよう、ハルヒロ君にはこれからも頑張ってもらうしかないですね」
メイはとても、親しみやすかった。
初対面なのに、会話がしやすかった。
高校生、春。
ハルヒロとメイの出会いは、涙から始まった。
【終わらせないで】
メイはそれほど勉強嫌いというわけではなかった。
受験勉強は苦ではなかったし、宿題もすぐに終わらせるタイプだ。
それでもやはり、大学の長い講義は退屈である。
誰だってそう……だよね?
むしろ、多分だけれど、長時間の講義が楽しみで仕方ない人っているのかな。
そんなメイにも、楽しみと思える時間があった。
英語の授業で。
「やっほー。ハルヒロ!」
「ああ。今日も元気だね」
メイが手を挙げると、ハルヒロは少し周りの目を気にしながら、よそよそしく手を挙げた。
そんなに周りの目、気にしなくても良いのに。
誰も見てないよ。
ハルヒロはいつも通りだ。
高校生の時から変わってない。
ぼうっとしていて、優しくて、たまに本気出したらかっこいい。みたいな。よく分からない。
メイとハルヒロは高校の時からの友達だった。
ハルヒロは、そのままメイの隣に腰掛けた。
英語の授業では、座席指定がなされている。
たまたまだったけれど、ハルヒロと隣の席になることができた。
それがメイにとって嬉しかった。
いつも講義は基本的に一緒に受けるのだが、英語ではパートナー同士で会話したり、問題を解いたり。
とにかく接点が多いのだ。
「ハルヒロ。何読んでるの」
「うーん……。本読んでる」
「知ってるし」
メイは思わず、ハルヒロを見つめてしまっていた。
まつ毛長いな〜。羨ましい。
髪の毛さらさら。美男子っていうやつ?
寝不足かなぁ。眠たそうにしてる。
本を読む姿は、なかなか様になっている。
「どうしたの?」
「い、いや。なんでもない」
視線に気がついたのか、ハルヒロと目が合ってしまった。
不意に心臓が跳ねて、なんだか、ちょっと、気まずい雰囲気? みたいな。
微妙な空気になってしまった。
きもいとか、思われてない……よね。
ハルヒロは優しいから、絶対そんなこと思わないよ。
あー。
何か話したいけれど、そう思えば思うほど、話題が思い浮かばない。
いや、思い浮かばないわけではない。
いろいろなことを気にして、取捨選択していくと、いつのまにか話題がすっからかん。
10分後。講義が始まった。
20分。30分。50分。
やっぱり、この授業だけは、時間が経つのが早い。
退屈なはずなのに。
二人で問題解いて。話し合って。時間が余ったら雑談して。
こんなのいつでも話せるのに。
もう終わりの時間。
こんな時に限って、先生が早めに講義を終わらせてしまった。
終わらせないでよ。
もうちょっと、ハルヒロと間近で講義を受けていたい。
この後は同じ講義取ってないし。
明日まで会えない。
もうちょっと話したかった。
「メイ。講義終わったら飯食いに行こ。リュウも誘ってる」
ハルヒロは頬を掻きながら、恥ずかしげに、そう言った。
もしかして、心、読まれてる?
それだったら、嬉しいな。