孤月雪華

Open App

【0からの】

  
 もうとっくに日が沈んだ夜の研究室に、学生が二人、残っていた。

 坂本優と中島ちさとだ。

 二人は黙々と自身のデスクに向き合い、パソコンを見ている。
 
 優は確かにパソコンを眺め、文字を打ち、論文を滞りなく完成に近づけていたが、実のところ、頭は他のことを考えてやまなかった。

 彼の頭の中はそんなことよりも、隣にいる彼女のことでいっぱいだったのだ。
 最近、どうにも優はちさとと一緒にいる事が億劫になりつつあった。
 隣に彼女がいると、言い表せない緊張感があるのだ。

「私たちさ」

 最初に静寂を破ったのは、ちさとのほうだった。
 
「うん」

 優はパソコンから目を離さず、答えた。
 どこかで実験装置が動いているからか、機械的な音がする。
 優がエンターキーを押すと、プリンターが起動した。

「そろそろ、節目だと思うの」
「節目?」

 ちさとの言葉に、優は疑問を覚える。
 節目とは何か。
 何か、自分たちの間にそういう区切りというものが作られていたか。
 優にはどうも思いつかなかった。

「付き合ってから、もう三年でしょ。節目だよ」
「もう三年か。節目なんだね」

 三年がどのように節目なのか、いまいちわからなかったが、もう三年かと優は思った。
 大学二年の時に付き合い始めて、三年。
 今は大学院生だ。

「そろそろ、リスタートが必要だと思うの」
「リスタート? 0からやり直すってこと?」
「そう」

 ちさとはせきを切ったように語り始めた。
 人間には厄介な機能が備わっているということを、彼女は雄弁に語り始めた。
 人間には適応能力があること。
 つまり、慣れるのだ。
 どんなに楽しいことも。逆に辛いことも。新鮮なことも。
 
 三年の間に、二人はいろいろなことを経験してきた。
 同時に、慣れてしまった。

 デートは何回もした。
 食事も何度も行った。
 同じ話を幾度となくして、その度に笑った。

 彼らはすでに、新鮮に慣れ始めている。

 彼らはまだ、互いの顔を見ない。
 パソコンを見つめている。
 可愛らしいと思っていた彼女。しかし、慣れてしまった。
 話すたびに顔を見たいと思っていた感情が、今では薄れつつある。

「やり直すとして、どうやったらできるのさ。頭でも殴って、記憶喪失にでもなるか? 脳細胞が死ぬのはごめんだ」

「違うよ。脳細胞は殺さないから安心して。そうね……強いて言うなら、思い込むのよ」

「思い込む?」

「そう、思い込む。私たちは今初めて互いの心を知り、付き合い始めた。互いに両思いで、好き合っていて、今日ようやく叶った恋」

「なるほど。要は三年前の感情を今ここに持ってくるわけだ」

「そう。互いに目を瞑って、私が手を叩いたら、同時に目を開ける。そうしたら私たちは0から始まってる」

「そう簡単にいかない」

「いかないことでも、無理やり突き通す事が重要になってくることもあるのよ」

 ようやく、二人は顔を見合わせた。
 ちさとは人差し指を口に当て、妖麗に笑っていた。

「とりあえず、やってみるか」

「ええ」

 二人は目を瞑った。当然ながら優の視界は真っ暗だ。
 目の前のちさとは今どのような状態なのか、優は気になった。
 本当に目を瞑っているのか否か。
 多分瞑っているだろう。
 彼女が言い出したことだ。

 しかし、なんだか不思議な感を彼は覚えた。
 ちさとが気になるのだ。
 目を開けたくてしょうがない。

 さん、にー、いち。

 彼女は唱えて、パチンと手を叩いた。

 優は目を開けて、彼女を見た。
 彼女はほぼ同時に瞼を開けるところだった。

「私、これからあなたと付き合うことになるのね」

 モゾモゾと恥ずかしそうに、ちさとが言う。
 優は不覚にもドキッと心臓を跳ね上がらせた。
 脈が速くなる。
 

「ああ。実感が湧かないが……そうだな。これからよろしく頼む」

「好きよ、優」

「俺も好きだ。たぶん、ずっとこの気持ちは薄れないだろうな」

 ちさとはポッと頬を赤らめて「私も」と言った。
 プリンターが機能を停止し、印刷された紙が束になっている。
 いつのまにかどこぞの装置は電源を落とし、ちさとと優は一緒になってパソコンを覗いていた。

2/21/2024, 5:24:11 PM