星空の下で
書類作成を終えたのは、夜が更けてからだった。
癒月は手前の和窓を開ける。外からの涼やかな風が吹き込み、彼の体を冷やしていく。
ここのところ体の具合が良くなかった癒月は、普段は余裕を持って提出する書類を中々に手につけることが出来ていなかったのだ。
夜遅くなるのは良いことではないのを分かってはいるが、少しでも遅れた分を取り戻すために誰にも分からぬように作業をしている。
「あ、星だ」
癒月の紫水晶の瞳に映るのは、所々に輝きを放っている大小様々な光と弓張月。
夜に起きていられるのが稀なせいか、癒月はこの場所から見る星や月の綺麗さを知らなかった。
少し魅入っていたが、やがて癒月は視線を下へと移動していく。
「この星空を、……あの子と一緒に見てみたかったな」
癒月は目を閉じる。かつて居た場所を思い出す。四方が白い壁に覆われ、天井もまた白い。星空どころか青空も見ることが出来なかった。
「綺麗だって、教えれたらいいのに」
もう癒月はあそこに戻ることはない。まともに別れも言えずに此処へ来た。
既に不良品となった少年には、知識や体力を与えられる代わりに、青空や星空を得た。
――また、会いたいな。今度は星空の下で
癒月は和窓をそっと閉じる。
もう、星空は見えなかった。
それでいい
阿弥は幼い時分、出来ないことが悔しくて泣いてる時間が多かった。
周りは淡々と事を済ませていくのに彼だけはそこで止まってしまう時がある。周りの大人は普段圧倒的な実力を見せる反動だろうと判断し、放置していた。
要はストレスを発散する行為だと。
話を聞くという選択肢は最初から存在していなかった。
膝を抱え、静かに泣く阿弥を周りの子供達は無視をするか、彼に話しかけてもすぐに立ち去ってしまう。
阿弥にとっては日常で、当たり前のことだ。
他の人間は観察対象。馴れ合いなどする必要のない存在。
だが、一人に関しては違った。
「阿弥」
透き通るような声が阿弥の耳に入る。顔を上げると、玲瓏玉のような顔をした少年が立っている。
蒼の双瞳がぼんやりと阿弥を眺めているように見える。だが、実際は何処も何も捉えてはいなかった。無意識に阿弥へと声をかけたのだろう。癒月はここのところ意識を逃避させてしまう時間が増えていた。
「癒月」
阿弥が少年の名を呼ぶと、癒月は阿弥へとゆっくり意識を戻した。
阿弥からしてみれば、今ようやく癒月と視線を合わせたのだ。
「癒月」
もう一度呼んだとき、阿弥は癒月の腰辺りに抱きついていた。彼を離したくないといわんばかりに、激しく掻き抱く。
「……阿弥?」
癒月は、阿弥のされるがままに抱き締められたままだったが、自由な方の片手で阿弥の頭を撫で始めた。
暫く条件反射のように続けていたが、やがて癒月は何かを察知していったのか、涙を流し続ける阿弥を慰める。
「……大丈夫。阿弥なら出来ていくようになるよ、……僕よりも先に、ね?」
癒月の言葉を聞いて、阿弥は一瞬だけ体を固くした。
阿弥は知っている。癒月のほうが自分よりも優れた存在だと。頭脳でも体力でも彼に勝つことはない。
そう思っていた。最近までは。
癒月の声がやんだ。手も止めてしまい、だらりと下げていく。
阿弥が体を離すと、癒月は再び夢遊病者のように立っていた。
そのまま癒月は阿弥に背を向け、立ち去ろうとしたが、直前に阿弥が癒月の腕を引っ張り、何処かへと連れてゆく。
千鳥足のような歩き方をする癒月を引っ張っていた阿弥は医務室へと到着する。癒月専用のベットへと彼を連れて来た阿弥は、彼を座らせたと思えば押し倒した。
癒月はずっとされるがまま、人形のようにピクリとも動かない。投げ出された肢体は押し倒されたときの状態のままだ。
「ねえ、癒月」
癒月は返事をすることもなく、見つめ返すだけだった。自分を見る瞳にはかつての活力は見当たらない。
癒月のまばたきの回数が増えてきた。活動限界を迎え始めている。
阿弥は癒月が眠りに落ちるまで、眺めていた。
癒月の寝息が阿弥の耳に入る。
「前は、俺と同じように起きていたのにね。どうしてこうなったのかな?」
原因は知っている。
周りの大人達。癒月が阿弥よりも優秀だったからだ。自我が開花しつつあった癒月は天才の領域へと手を伸ばしつつあった。
だからこそ考えられたのだ。癒月が単独脱走をするのではないかと。
大人達は癒月に危険分子と勝手に位置付け、まだ幼気ない少年を薬漬けにしてしまった。
結果はどうなったか。
確かに危険分子というレッテルは剥がれた。だが、代償が重すぎた。
癒月の意識は大半の働きにバクを引き起こしてしまい、まず睡眠に大半の時間を割かれることになる。
反対に目が覚めていれば活字に目を囚われるか、放心に囚われるかの二択を迫られることとなる。
現在治療が行われ、起きている時間は徐々に増えつつある。
だがかつての癒月にはけっして元には戻らないことは確定している。
阿弥は、大人達からの会話を盗み聞いて知った。
だが、それでもいいと思った。
阿弥は癒月がいてくれれば生きていけるから。
此処にいてくれればいい。
そう思って阿弥は、医務室を出ていった。
一つだけ
とある学校の屋上。
二人の少年は、隅のほうで肩を寄せ合いながら、下の階から聞こえる喧騒に耳をすませていた。
本日は晴天なり文化祭。
そして、一人の少年が、今日でこの学校を去る。
さっきまで大勢いたが、空気を読んでか二人きりにさせていた。
二人の間に会話はない。一人が肩に頭を落とすと、もう一人は愛おしそうに眺める。
普段は能面を被っているとよく言われる彼だが愛おしい相手にはこんな顔をする。
二人に残された時間は後僅かだった。
「ねえ」
「なんだ」
「僕はこれから先どうなるか分からない。学校を去った後すぐに死ぬかもしれない。勿論明日以降も」
「……ああ、分かってる」
「だからね、一つだけ約束して」
"僕"は彼の手を握り直す。彼もまた同じことをする。
互いの体温を確かめ合うように、指を絡ませる。
"僕"は彼の目を見て言葉を紡いだ。
「どうか、僕を忘れないで」
大切なもの
小夜の中には十四歳で止まったままの少女がいる。
十四歳は彼女にとって辛い年だった。
小夜は卓球部だった。部員は多く、レギュラーなんて夢のまた夢。公式大会に出るにはリーグ戦で勝ち上がらればならない。しかも顧問の教師によってすんなり十位以内の部員が選ばれず、十二位から十位が団体戦、十位から九位が個人戦。
小夜はこの制度をひどく憎んだ。
――何故、何故! 下の奴らになぞ譲らねばならない!
いっそ、十位から下は切ってしまえばいい!
小夜は残念なことに下から数える方が早い順位だった。
一年、二年の途中まではレギュラーに入れず、悔しい思いをした。だから、努力した。休日には自主練をしたり、練習本を使って、サーブの研究もした。
そして、三年の春、小夜は十位。本来ならば団体戦に出場できる権利を得たはずだった。
だか、結果は初戦敗退。
初戦敗退! 小夜は出場することなく春を終えたのだ!
――嗚呼、口惜しい! 悔しい! 私以外の三年生は皆、出場するのだ、したのだ! 例え、初戦で負けようと出場したという事実は変わらないのだ。 私が成し得なかったことをあいつらはやすやすと越えていく! 今すぐ口汚く罵れたら、誰かに当たり散らせたら、どれほど溜飲が下がるだろう!
春の大会後の写真はいまだ、小夜の手元にある。周りの人間共は皆、笑顔。しかし小夜の顔には不服以外はなかった。
――あら、懐かしい。そうだわ、そうでした。私は出場出来ませんでしたわね。皆の笑顔ほど腸が千切れそうになるほど腹が立つことは、今のところこれかもしれません。
春の屈辱を果たすべく、小夜は六月の最後の公式大会に出場すべく、周りの人間を仲間だという認識をほぼ捨てた。同期も後輩もこの大会を最後に関係性なくなる! そう思えばおもうほど、小夜は燃えた。
彼女は通っている塾のニュースに公式試合に出場した時の写真を撮影して欲しかった願望もあった。
春に果たせなかったことを成し遂げるべく、小夜は体の不調を出しながらも、非公式大会に出場し、己の技術を向上させていく。
そしてリーグ戦! 結果は八位!
小夜は遂にどちらのレギュラーになれる権利をとれたのだ。
周りの人間共はさぞかし驚いただろう! 愚鈍な小夜に負けたのは、ある種の屈辱だったかもしれない。
小夜は嬉しくて堪らなかった。
――最後になってしまったが、出場出来る! 今まで写真に滅多に撮られなかったが、今回は私の記録が残る!ようやくだ! ようやく私も記憶を残される存在となったのだ!
小夜は、己の価値を見いだせた気でいた。
現実は、上手くいかない。
個人戦、一回戦敗退。
団体戦、初戦敗退。
写真は小夜だけ撮られなかった。
――嗚呼、嗚呼、嗚呼!! そうか、そうか、これが現実か!! 残される記録は大したことなく、自身の記憶すら撮影されないのか! 理由は分かっているさ! 個人戦は己の驕りと傲慢が招いたものが原因で。団体戦はそれを引きずり切り替えることが出来なかったのが原因!! 何故、何故、何故!? 一勝することもせず終わった私の六月! そうだあの時、負けてしまったとき泣いたからか? きっと同期も後輩も、顧問も唖然としただろう。お前らには分かるまい。私の下克上のなれのはてを。分かってたまるか! お前らなんぞに、私の気持ちが分かってたまるか! 撮影者も撮影者だ。何故、何故、何故、私だけ、私だけ! 撮ってくれなかった!他の子は撮られているのに! 他の人間がなかったら私は諦めがついた! どうして私だけ、撮ってはくださらなかった。分かっております、分かっております。撮影の方のご事情は。ですが、でも、だが、だが! だが!
どうして、私の努力は報われなかったの!
嗚呼、十四の小夜…わたくしが叫んでおります。
いくら年月が経とうと、止まったままなのです。
わたくしが今出来るのはこの子を抱きしめ続けることです。
誰かにお話をすれば、捨てたほうがいいと言われるでしょう。
楽になると。
しかし、わたくしには出来ませんでした。これから先も出来ないでしょう。
『十四歳の小夜』はわたくしにとって、たいせつなものです。
わたくしの『今』はこの子を抱えて、未完成のままで生き続けているのですから。
幸せに
朝に目を覚ますと、もう彼はいなかった。
きっとあいつのところへいったのだろう。
ゆっくりと体を起こし、洗面所へと向かう。
彼らは、二人で一つの『人』。
先月の彼なんて生きているのか死んでいるのか判別できやしなかった。
適当に歯を磨きながら、水を入れた薬缶を火にかける。
ぐしゃぐしゃになった彼らを連れて『私』の部屋へと連れて行き、無言でコーヒーを飲んだ。
――そういえば、あの夜飲んだコーヒー豆はこれだったな。
口をゆすぎながら、思い出し笑いをした。
キッチンに戻り、ミルで豆を挽く。
豆が粉に変わる瞬間は毎朝しているルーティンの中で最も好きなことだ。
「はてさて、どんな会話をしてることやら」
挽いてる途中で沸いたお湯をマグカップへと注ぐ。
「再会の歓喜か、開口から後悔の言い合いか」
唇に孤を描きながら、カップの湯を捨てる。
「それとも、置き土産をした失態を知るか」
コーヒーフィルターに豆を入れ、湯を注ぐ。
いつもは丁寧に淹れるが、今日は別だった。
「残念だったなぁ」
適当にじゃばじゃば入れた黒い飲み物は、カップの周りを汚していた。
「私が共に死ななかったのだから」
ガシャンとドリッパーを流しに雑に投げ込む。
中から粉が溢れ出る。
『私』は一瞥もくれず、ポケットに入っていた薬を取り出し、後ろのゴミ箱へとぶん投げる。
「誰が、手前らと死ぬかっ! 死ぬ時なんざ、どうせ独りなんだよっ!」
苛立たしげにマグカップを持つ。溢れたコーヒーが服へとしたたる。
「お似合いの双子だったなぁ。あいつ等だけで死ねばよかったんだよ、似たもの同士ども」
グビっと酒を煽るように、熱いコーヒーを飲んだ。
「あの世でとうぞお幸せに!!」