それでいい
阿弥は幼い時分、出来ないことが悔しくて泣いてる時間が多かった。
周りは淡々と事を済ませていくのに彼だけはそこで止まってしまう時がある。周りの大人は普段圧倒的な実力を見せる反動だろうと判断し、放置していた。
要はストレスを発散する行為だと。
話を聞くという選択肢は最初から存在していなかった。
膝を抱え、静かに泣く阿弥を周りの子供達は無視をするか、彼に話しかけてもすぐに立ち去ってしまう。
阿弥にとっては日常で、当たり前のことだ。
他の人間は観察対象。馴れ合いなどする必要のない存在。
だが、一人に関しては違った。
「阿弥」
透き通るような声が阿弥の耳に入る。顔を上げると、玲瓏玉のような顔をした少年が立っている。
蒼の双瞳がぼんやりと阿弥を眺めているように見える。だが、実際は何処も何も捉えてはいなかった。無意識に阿弥へと声をかけたのだろう。癒月はここのところ意識を逃避させてしまう時間が増えていた。
「癒月」
阿弥が少年の名を呼ぶと、癒月は阿弥へとゆっくり意識を戻した。
阿弥からしてみれば、今ようやく癒月と視線を合わせたのだ。
「癒月」
もう一度呼んだとき、阿弥は癒月の腰辺りに抱きついていた。彼を離したくないといわんばかりに、激しく掻き抱く。
「……阿弥?」
癒月は、阿弥のされるがままに抱き締められたままだったが、自由な方の片手で阿弥の頭を撫で始めた。
暫く条件反射のように続けていたが、やがて癒月は何かを察知していったのか、涙を流し続ける阿弥を慰める。
「……大丈夫。阿弥なら出来ていくようになるよ、……僕よりも先に、ね?」
癒月の言葉を聞いて、阿弥は一瞬だけ体を固くした。
阿弥は知っている。癒月のほうが自分よりも優れた存在だと。頭脳でも体力でも彼に勝つことはない。
そう思っていた。最近までは。
癒月の声がやんだ。手も止めてしまい、だらりと下げていく。
阿弥が体を離すと、癒月は再び夢遊病者のように立っていた。
そのまま癒月は阿弥に背を向け、立ち去ろうとしたが、直前に阿弥が癒月の腕を引っ張り、何処かへと連れてゆく。
千鳥足のような歩き方をする癒月を引っ張っていた阿弥は医務室へと到着する。癒月専用のベットへと彼を連れて来た阿弥は、彼を座らせたと思えば押し倒した。
癒月はずっとされるがまま、人形のようにピクリとも動かない。投げ出された肢体は押し倒されたときの状態のままだ。
「ねえ、癒月」
癒月は返事をすることもなく、見つめ返すだけだった。自分を見る瞳にはかつての活力は見当たらない。
癒月のまばたきの回数が増えてきた。活動限界を迎え始めている。
阿弥は癒月が眠りに落ちるまで、眺めていた。
癒月の寝息が阿弥の耳に入る。
「前は、俺と同じように起きていたのにね。どうしてこうなったのかな?」
原因は知っている。
周りの大人達。癒月が阿弥よりも優秀だったからだ。自我が開花しつつあった癒月は天才の領域へと手を伸ばしつつあった。
だからこそ考えられたのだ。癒月が単独脱走をするのではないかと。
大人達は癒月に危険分子と勝手に位置付け、まだ幼気ない少年を薬漬けにしてしまった。
結果はどうなったか。
確かに危険分子というレッテルは剥がれた。だが、代償が重すぎた。
癒月の意識は大半の働きにバクを引き起こしてしまい、まず睡眠に大半の時間を割かれることになる。
反対に目が覚めていれば活字に目を囚われるか、放心に囚われるかの二択を迫られることとなる。
現在治療が行われ、起きている時間は徐々に増えつつある。
だがかつての癒月にはけっして元には戻らないことは確定している。
阿弥は、大人達からの会話を盗み聞いて知った。
だが、それでもいいと思った。
阿弥は癒月がいてくれれば生きていけるから。
此処にいてくれればいい。
そう思って阿弥は、医務室を出ていった。
4/4/2026, 2:55:34 PM