そこは、あなたにとって、馴染みのないベッド。見渡せば、馴染みのない部屋。あなたは何もかも馴染みのない場所で目が覚めた。馴染みはないけれど、誂えられた家具も、小物も、アロマも、驚くほどにあなた好みの部屋だ。
ここはどこだろう、ときっとあなたは疑問に思うはず。疑問に思い、そういえば、何も憶えていないな、と更に自覚することだろう。
ベッドから身を起こせば、最初に視界に映るのは簡素なデスク。そこには、一冊のノートが置かれている。題材は何も無い。デスクのほかには観葉植物と、木製のハンガーラック、一人掛けの丸型ソファ、そして硝子張りの小さなテーブル。テーブルの上には何も無い。確認できそうな物は一冊のノートのみ。
あなたは誰のものとも知れないノートを開くことに躊躇うように、伸ばした手を一度引っ込め、そして、もう一度、今度はしっかりとノートを手に取った。手に取ると、中からパラリと栞が落ちた。ヨモギを押し花にした、栞。そっと拾って、デスクに戻す。
ノートには、日記が綴られている。
最初の日付は四月。あなたは、そのまま読み進める。
『◯年四月一日 晴れ
日記をはじめようと思う。何を書けばいいのかわからないけど、まあ、書くうちに慣れていくだろう。今日は、とても良い天気だった。花見をするにはうってつけな天気だったけど、残念なことに少し早めの春嵐でだいぶ桜は散ってしまった。まあ、桜絨毯も風情があるので、これこれで良しとする。』
はじまりの1頁にありがちな文句から始まった文章は、春らしい話題を取り扱っている。書き手は、季節の行事が好きらしい。次の頁を捲る。
『◯年四月二日 晴れ
自分のことなので早速書き忘れそうだなと思ったけど、さすがに二日目はまだ大丈夫だった。三日坊主は避けたいところだ、頑張ろう。明日は少し遠出をするので、早めに寝ることにする。
◯年四月三日 曇り
今日はショッピングモールに行ってきた。リハビリも兼ねて、歩いて行ったので天気が曇りだったのは少し残念なようにも思える。まあ、晴れていたらそれはそれで暑いので、過ごしやすい気温だったことを僥倖だと思うことにする。』
リハビリ、とある。書き手は、どこか体を悪くしているのだろうか。頁を進めていくが、体調の話は出てこず、季節の話やその日の出来事が端的に綴られているだけだった。日付は順調に進み、どうやら書き手が危惧していた三日坊主は、避けられたようだ。
何頁までか進み、五月に入ったところであなたは手を止める。
『◯年五月一日 雨
今日は天気が悪い一日だった。風も出ていたので、外の植木鉢を玄関に仕舞おうと外に出ると、か細い、ニャーという声が聞こえた。聞き間違いかもと思ったけど、この天気でもしも猫が死にそうになっていたら、やるせない。探すと、近くの茂みからさらにニャーと声がする。慌てて覗くと、恐らく生まれたばかりの目も空いていない子猫が蹲っていた。連れ帰り、体を拭いてタオルで包んでから温めてやったが、今にも死にそうで気が気じゃない。ミルクは少しだけ飲んだが、明日まで保つかどうか。保ってくれたなら、朝イチで病院へ連れて行く』
猫。あなたは、何か、思い出しそうな気がした。また、日記の続きに戻る。
『◯年五月三日 曇り
昨日は疲れていて日記を書けなかった。猫は、どうにか耐えてくれた。子猫はいつ死んでも不思議じゃないので安心はできないけど、山を越えたと言えそうだ。これも何かの縁なので我が家の猫になってもらおうと思う。名前は、すぐ傍にヨモギが生えていたので、安直だけど、ヨモギにした。ネーミングセンスはないし、下手に考えるよりもいいだろう。これからよろしくね、ヨモギ。』
デスクに視線を向ける。ヨモギの、栞。……これは、あの時の? あの時って、どの時。じんわりと汗をかく。日記に、戻る。
しばらく、日記は猫の記録帳のようになっていた。ヨモギは女の子で、元気に走り回るまで回復したらしい。そうして日記は恙無く続き、――八月の終わり。あなたの頁を捲る指が、震える。
『◯年八月三十一日
どうして』
日付と、どうして、とだけ書かれた頁。字も、ガタガタで、焦燥感が文字から読み取れるようだった。ちがう。いま、焦燥感を覚えているのは。――いまは、続きを、読まねば。
『◯年九月七日 雨
ヨモギが殺された。許せない。許せない。許せない。きっと、あいつだ。いつまで私たちに執着すれば気が済むんだ。いつになったら、解放されるんだ。もう、無理だ。解放されたい。解放されたい。解放されたい。』
鼓動が速い。あなたは胸元を押さえながら、さらに頁をめくろうとし、続きが、破かれていることに気付く。おそらく数枚、頁が無い。残った頁で一番日付が近いものは、九月末のものだった。
『◯年九月三十日 晴れ
もう九月も終わりか。どうせならぜんぶ終わらせよう。夜に取り残されるのは私だけで十分だ。
あなただけでも、どうか、しあわせに』
胸が苦しい。どうして、とあなたの心が叫ぶ。胸元を掻き毟るあなたの手には、きっと、小さな傷がたくさんある。――猫が、引っ掻いたような。
きっとヨモギを知っている。この日記も、知っている。……ような、気がする。それでもあなたは思い出せない。それでいい。それでいいんだ。
思い出せなくてもいいよ。夜の記憶はぜんぶ私が持って行くから。あなたには必要のないものだったから、きっと、失くしてしまったのだろう。ヨモギまで覚えていないのは、少しだけ、淋しいけれど。
ノートを片付け損ねたのは、ちょっと、誤算だった。まあでも、ほんとはちょっとだけ思い出してほしかったのかも。不幸ばかりじゃ、なかったはずだから。
ノートに書かれた文字は、あなたの涙でしとどに濡れて、どんどん滲んでいく。歪むのはどうか私だけで在ればいい。これは私の日記。私の晩年の人生。あなたは、まっさらなまま、前を向いていて。
デスクに乗せたあなたの手に、ヨモギの栞が触れる。かつての平穏の証。止まった時間。栞はノートから落ちた。
あなたの時間は、進み出す。
テーマ「私の日記帳」
はじめて喧嘩をした。出会ってから今まで、共有できる時間はできる限り、共有してきた。元は同じ存在だったのかもと思えるほどに、好きも嫌いも、考えも、いっしょだった。だから、衝突するなんて思いもしなかった。喧嘩なんて、わたしたちには無縁なものなのだと思っていた。
「……あのね。お引越しをすることになったの。だから、同じ中学校には通えなくなったの。約束、守れなくて、……ごめんね」
最初、何を言われたのかわからなかった。思考停止のあと、じわじわと思考を埋め尽くしたのは怒りだった。
「……なんで? ずっと、いっしょって、言ってたのに。……嘘つき。……嘘つき!」
ひどい言葉を投げかけた。傷付いた顔をしていた。傷をつけたかったわけじゃないの。横で、笑っている未来を願っていただけ。家に帰ってから、後悔した。きみだって、わたしと同じ思いでいてくれたから、あんなにも悔しそうなひとみで謝ってきてくれただろうに。苦しんで、苦しんで、それでも誠実であろうとしてくれていただろうに。
それから数日、わたしたちはずっとギクシャクしていた。あんなにいっしょにいたのにね。傍にいられる時間も、刻一刻と減っていくのに、何をしているんだろう。人も疎らな放課後の教室で一人ぽつり、思わず溜め息が零れ落ちる。あーあ。机を睨みつけていると、ふ、と机に影がかかった。
「……おまえら、あんなにベッタリだったのに最近いっしょにいないけどどーしたの」
顔を上げると、クラスメイトの一人が不思議そうにこちらを見ていた。ふだん、あまり話さない子。そんな子にまで、ベッタリ、という認識で見られていたことが少し恥ずかしい。
「そんなにベッタリしてるように、見えた?」
「見えた。たぶん、クラスのやつらみんな気になってると思う。喧嘩でもしたわけ?」
……図星に、思わず固まってしまう。彼は呆れたように目を細めていた。
「わかりやすい反応ドーモ。あいつ引っ越すんだろ? 喧嘩の原因、もしかしてソレ? ……しょーもな」
「しょうもないって! そんなこと言われる筋合い……!」
「二度と会えないわけ?」
「……そ、そういうわけじゃ」
「じゃあ、会いにいけばいいだろ。それとも会いに行くのは面倒?」
「ちがう、そんなことない!」
「じゃ、いいじゃん」
あまりにも簡単に言われて、頭がぐるぐると回った。ぜんぜん、いいじゃんじゃない。同じ学校に通いたかった。けれど、会うことは、きっとたしかに、できる。……わたし、何に、怒っていたんだろう。彼はさらに、言葉を紡いだ。
「いいの? 仲直りしなくて。来月には引っ越しって聞いたけど」
「……う。うう〜〜〜っ」
唸ってしまった。彼は目を丸くしたあと、可笑しそうに笑っていた。ひどい。思わず彼を睨むと、彼の後ろからひょっこりときみが現れて。睨むはずのひとみは力を込めかねて、気の抜けた表情になってしまった。一頻り笑った彼は、満足したように小さくもう一度笑い、あとはお二人でドーゾ、だなんて言いながらどこかに行ってしまった。
「……あのね、話を、しない?」
恐る恐る、わたしの様子を見ながら言葉を向けてくれるきみ。毎日、あんなに笑顔を向けてくれていたのに。今は、とても辛そうで。きっと、わたしがきみにこんな表情をさせてしまっている。こんなはずじゃ、なかったのに。
「……うん。……でも、その前に言いたいことがあるの」
「……! なに……?」
怯えた表情。わたしが作り出したものだ。心に刻み込む。
「……ごめんなさい。ひどい言葉を言って、ごめんなさい……! 嘘つきなんかじゃないって、わたし、知ってる……! ほんとうに、ごめんなさい……!」
必死に、心の裡を打ち明けた。驚いたこと。寂しかったこと。八つ当たりしてしまったこと。きみは静かに聞いていた。見るのがこわくて、途中からきみの顔を見ることもできなかったけれど、きみは最後まで耳を傾けてくれていた。
「……そっか。あのね、わたしも、言いたいことがあるの。お引越しが決まって、悲しかった。約束を守れなくて、悔しかった。一緒にいられなくなることが、寂しかった。傷付けてしまったことが、辛かった」
言葉にしてくれた思いに、申し訳なさがさらにつのる。傷付いたきみに、さらに傷をつけてしまった。
「……でもね、ありがとう。思いをぶつけてくれて、ありがとう……! もう、最後まで、話せないかもって。わたし……!」
なのに。きみはありがとうと言ってくれる。泣きそうな顔で、でも、口は笑みの形で。
「……引っ越してもさ。会いに、行ってもいいかな」
「……! もちろん! 新しいお家にも、来てほしいな」
「うん! ぜったい、ぜったいに行くね。……ずっといっしょだよ。ちゃんと、遊びに行くから」
「! ふふ、うん。約束だもんね。待ってるね」
お互いに目を真っ赤にしながら、もう一度同じ約束を交わし合った。目は真っ赤だけれど、どちらも、晴れ晴れとした表情で。
今日だけで、わたしはきみの色んな新しい表情を知った。そういえば、わたしたちはいつも隣り合っていたから。同じ方を見て、笑い合っていたから。こうしてお互いを見つめ合う機会って、なかったのかも。
隣にいなくても、こうして向き合うことはできるって、知ることができたから。いつの間にか二人だけの教室で、わたしたちは笑い合ったのだった。
テーマ「向かい合わせ」
ずっといっしょだよって、約束をした。小学校に上がって初めてできた、大切なおともだち。きみと過ごした日々は今もキラキラと輝いている。中学校にあがっても、一番の親友だよ、だなんて、おとなたちが聞けば笑み崩れそうな、そんな約束。この子と過ごすこれからの日々はさぞ煌めいているだろう、とフワフワした気持ちでその日も過ごしていた。
「あのね、大切なお話しがあるの」
玄関を開けると、ママが高揚した頬で出迎えてくれる。
「パパが、昇進してね。本社移転になったんだって! 今よりももっと、もーっと、大きなお家に引っ越せることになったのよ。学校は変わっちゃうけど、今よりもいい生活ができるの! 今までたくさん我慢させてきたけれど、これからはかわいいお洋服も、美味しいごはんも、いっぱい用意できるからね……!」
声が、表情が、仕草が。全身で喜びを訴えるママに、わたしは一瞬、何も返すことができなかった。つまりそうになる声を無理矢理引き出して、勢いっぱい、今できる笑顔をつくった。
「……そっか……! パパ、すごいね! ……うれしいなぁ!」
そんなのいやだって。ここにいたいんだって。言えなかった。言えるわけ、なかった。ママはこんなにも幸せそうなのに。こんなにも喜んでいるのに。絶望している自分のほうがおかしいように思えてしまった。
あの子は、明日も明後日も、わたしといっしょなのだと信じ切っているだろう。わたしもそうだった。ついさっきまでは、そうだった筈なのに。
パパもママもあの子も、誰も悪くなんてない。幸運に喜び、これからの幸福を祈っているだけ。素直な喜びに同調できない心と、あの子を裏切る罪悪感に吐き気すら覚えながら、ただただわらって、喜ぶフリをしていた。
テーマ「やるせない気持ち」
ヒトという生き物はとても弱いから、“いま”から逃避行動をとってしまうことがままある。所謂、現実逃避と呼称されるそれである。空想、過去、まだ見ぬ未来――脳みそは妙なところで器用さを発揮するから、逃げ場の行く先は枚挙に遑がない。
たとえば、彼女は過去への逃避が多かった。つらい時、いっそ死んでしまいたくなった時。そんな時、しあわせな思い出が、大切な思い入れがある場所へと行きたがるのが常だった。
「波の音が好きなの。すべてが洗い流されそうで」
さざなみに呑み込まれそうなささやかな声で。
「潮の香りが好きなの。このままひとつになれそうで」
そよ風に攫われそうな、頼り無い足取りで。
「海を見るのが好きなの。どこまでも、行けそうで」
見つめていないと、今にも消えてしまいそうな儚げなひとみで。
「ねえ。――聞こえているんでしょ」
責めるような、泣いているような、――まるで、縋るような。そんな響きをもった言葉が、彼女の唇から零れ落ちた。思わず聞こえているよ、と返そうとして、嗚呼、返すための口は存在していなかったな、と思い出す。目も、鼻も、口も、手も足も、何もかも。――ぼくには存在しなかった。
ある思い出がある。あなたと、海に行った。彼は、夏生まれだから海が好きなんだと言って、頑是ないこどものようにはしゃいでいた。
追いかけては逃げる波に頬を紅潮させ、嗅ぎなれない香りに鼻をひくつかせ、その目に大海を映してひとみを煌めかせていた。
いつの日かの思い出。とても、本当にとても大切な、かけがえない記憶。色褪せてしまうことが、消えてしまうことが怖くて、気付けば足は海へ行く。そこに行けば、あのときのあなたに逢えると知っているから。
(ねえ。もう、忘れていいよ)
あいも変わらず彼女は海の一部のように、ただ、音を聞き、風に揺られ、ジッと波間を見つめている。
(ねえ。見えてないんでしょ)
存在を確信している様子で、でも、こちらは見ないきみを、ぼくはただ見ている。
(ねえ。――聞こえていないくせに)
もう交わらないとわかっているのに。もう存在しないからだなのに。全身で現実を受け止めさせられて、じわり、寂しさが心を襲う。
どうか、いまを、生きていてほしい。ささやかな願いを、届かない声で懸命に叫んだ。きっと今日も、届かない。変わらずぼくは、今日も此処で揺蕩い、そして、彼女は。
――海へ。
テーマ「海へ」
俺にはズボラな友人がいる。
「……今日も芸術的な頭だな」
「そう? ありがとー」
「褒めてないんだよなぁ……」
おあよー、なんて気の抜けた挨拶で教室に現れたそいつの頭はそれはそれは立派なたてがみを携えていたものだから、挨拶を返すのも忘れついつい皮肉がこぼれるのも仕方がない。おおかたお風呂上がりにまともに髪も梳かさず寝たといったところか。寝癖がとんでもないのは今に始まったことじゃないが、今日は一段と磨きがかかっている。
「おまえ顔は悪くないんだから、ちゃんとしたらモテそうなのになんでそうなんだ……」
「はは、顔関係あるー?」
本日もこんな調子だ。忘れ物も多いし、こいつ将来大丈夫なんだろうか。以前それを指摘したところ「おまえはおれのかーさんか」だなんてお声を戴いたので、もう言わないけど。なんだよかーさんて。
ふとスマホの画面上部を見るとそろそろHRが始まる時間になっていた。自分の席に戻ろうと踵を返そうとすると、それを制止する声がかかってきた。
「あ、待って。これ、こないだはありがとー。ほい」
「? ジュース?」
「あ、それ嫌いだった? 柑橘系好きって言ってたからそれにしたんだけど」
「いや好きだけど。心当たりが」
「なに言ってんの! 大恩人!」
「ええ?」
時間がないので端的に聞くと、昨日、板書を生徒によく当てる先生の授業があり、先生はいつものように「そこの席からそこまでの席のやつ、30頁の問題の解答をどれでもいいから1人1答、解答しろ〜」だなんて当て方をした。解答者には俺もこいつも含まれていた。その日もこいつは教科書を忘れていて、俺はそれを知っていたからついでなので、2つ答えを書いてやっただけだ。それに対する礼らしかった。とはいえ、ジュースをいただくほどの労働はとてもしちゃあいないが。
「オレは助かったの! 嫌いじゃないなら、いいからもらって。ほら、もうチャイム鳴るから行った行った」
「別にいいのに。……まあ、ありがと」
有無を言わさず渡されてしまった。実際時間は差し迫っていたので、大人しく席に戻った。……これを買いに行く時間で少しはあのたてがみをまともにできただろうに。
あいつはあのズボラさに見合った、とてものんびりとした性格をしている。テキトーだし、うっかりしてるし。手元のジュースを眺める。驚きの果汁100%! と書かれた何が驚きかわからないジュースのパッケージにちょっと笑ってしまった。
手のかかるやつだけど、ああいうやつだからズルズルと友人関係が続いている。妙に義理堅くて、忘れっぽいくせにこういったことは忘れないのだ。自分のことには無頓着なこいつは、案外とても誠実なやつで。
HRが始まる。担任が何事かを言っているが、俺はそっちのけで適切なジュースの礼を考えていた。まあ、やっぱり昨日の礼としてジュースはもらい過ぎだと思うので。
テーマ「裏返し」