ヒトという生き物はとても弱いから、“いま”から逃避行動をとってしまうことがままある。所謂、現実逃避と呼称されるそれである。空想、過去、まだ見ぬ未来――脳みそは妙なところで器用さを発揮するから、逃げ場の行く先は枚挙に遑がない。
たとえば、彼女は過去への逃避が多かった。つらい時、いっそ死んでしまいたくなった時。そんな時、しあわせな思い出が、大切な思い入れがある場所へと行きたがるのが常だった。
「波の音が好きなの。すべてが洗い流されそうで」
さざなみに呑み込まれそうなささやかな声で。
「潮の香りが好きなの。このままひとつになれそうで」
そよ風に攫われそうな、頼り無い足取りで。
「海を見るのが好きなの。どこまでも、行けそうで」
見つめていないと、今にも消えてしまいそうな儚げなひとみで。
「ねえ。――聞こえているんでしょ」
責めるような、泣いているような、――まるで、縋るような。そんな響きをもった言葉が、彼女の唇から零れ落ちた。思わず聞こえているよ、と返そうとして、嗚呼、返すための口は存在していなかったな、と思い出す。目も、鼻も、口も、手も足も、何もかも。――ぼくには存在しなかった。
ある思い出がある。あなたと、海に行った。彼は、夏生まれだから海が好きなんだと言って、頑是ないこどものようにはしゃいでいた。
追いかけては逃げる波に頬を紅潮させ、嗅ぎなれない香りに鼻をひくつかせ、その目に大海を映してひとみを煌めかせていた。
いつの日かの思い出。とても、本当にとても大切な、かけがえない記憶。色褪せてしまうことが、消えてしまうことが怖くて、気付けば足は海へ行く。そこに行けば、あのときのあなたに逢えると知っているから。
(ねえ。もう、忘れていいよ)
あいも変わらず彼女は海の一部のように、ただ、音を聞き、風に揺られ、ジッと波間を見つめている。
(ねえ。見えてないんでしょ)
存在を確信している様子で、でも、こちらは見ないきみを、ぼくはただ見ている。
(ねえ。――聞こえていないくせに)
もう交わらないとわかっているのに。もう存在しないからだなのに。全身で現実を受け止めさせられて、じわり、寂しさが心を襲う。
どうか、いまを、生きていてほしい。ささやかな願いを、届かない声で懸命に叫んだ。きっと今日も、届かない。変わらずぼくは、今日も此処で揺蕩い、そして、彼女は。
――海へ。
テーマ「海へ」
8/23/2024, 10:49:32 AM