『芽吹きのとき』
それは例えば蛹。羽化に向けて力を蓄える。
芋虫としての姿をリセットして細胞を蝶へと再構成する。蛹が破れるとき、芋虫はもう何処にもいない。過去の己れを否定して、未来の己れとなる。
それは例えば蛹。
羽化前の蛹をもしも破れば、そこには幼虫のかたちも、成虫の姿も、ないはずだ。どろどろの、虫とも思えぬ命ある粘液があるだけ。何ものかになる前の、何ものでもない命が、死ぬだけ。
何ものかになりたくて、人生にコースが用意されていると思って反発して、誰かの影響で生きていたくなくて。
でも、その反抗ですら誰かの受け売りだとまだ気づけずにいた少女。
世界に叛逆するなんて、何千年前の古代から数え切れぬほどくりかえされてきた。それでも少女は己れがありきたりの道を歩いているとまだ知らない。
だってそれは彼女が、彼女にとってはただひとつの、初めての、道だったから。
蛹を裂けば少女は何にもなれぬまま絶えるだろう。
しかし不安定な反抗の道を、周りの誰も鎖さない。叱ることはあっても縛りつけない。苦言のかたちで与えられる警句は、少女自身は気づかずとも、温かい。
だって、その道は彼女だけの道ではなかったから。
それは、蛹。
不確定未来。
彼女は鮮やかな羽翅をひろげて世界に出逢うだろう。
『あの日の温もり』
供物として娘は捧げられた。
神の花嫁と云えば聞こえはいいが要は人身御供以外の何ものでもない。
神かあるいは物の怪の類いか。正体もわからぬ超常の存在に捧げられた供犠。
神の血の裔とされる王と一夜を過ごし、王との契りを神域のものである印としてつけられ、娘は小舟で海へ漕ぎ出される。そして陸から遠ざかった沖にて、娘は漕ぎ手に促されると海へ身を投げた。
両の踝に重い金の輪飾りがつけられていた。
純金と嵌められた数々の宝石。それは花嫁装束の飾りであり、海の底へ沈めて戻られぬための重石であった。
水。圧倒的な水。
空気はすぐに肺から抜け出ていった。
呼吸のできぬ苦しみ。それもすぐになくなる。意識を重く閉じ込める水の壁。冷ややかな水の世界で命尽きた娘の、最期の感覚は、だが水の冷厳ではなく温かなひとの肌の熱だった。
神の末裔。王国の国主。十年に一度行われる、この非道で愚かな儀式の祭主。
若い王だった。娘は王がまだ王子であったとき、御幸にてわずかに見かけただけだった。その一目で充分だった。
王子と娘に何の関わりも生じるはずはない。
王都から離れた鄙びた村で娘は噂でしか王の動静を聞くすべもなかった。
やがて王子は王となり、同時に妃を娶った。
血を残さねばならない王の義務として側女も幾人かとった。そして王子王女に恵まれた。
娘の住む鄙びた村ではどれも噂に聞くだけだった。
そして、十年に一度の祝祭がくる。
王家の祖である海神に供犠を捧げなければならない。誰もが恐れて、うら若き娘を家の奥へと隠す。だが誰かが犠牲にならねばならぬ。
そんなとき、娘は恐れながらと手をあげた。
この機を逃せば、王と己れの接点は永遠にない。
娘はそれだけに賭けた。
娘は選ばれた。
海神の花嫁として美しく飾りたてられ、王の閨へ招かれる。王は明らかに供犠に興味などなく、だがこの儀式の意義を知っているゆえに娘を丁重にもてなした。
ただの一夜。
王と過ごせる。それも妃よりも近くに取り立てられる。たったの一晩、それでいい。この一夜を逃せば何もないのだ。
王は日没から夜明けまで、娘に王の印をつけた。
一夜の王の肌の熱。
自分の肌に触れた王の手と唇と。
幸福な記憶をなぞりながら、娘は海の底まで、墜ちてゆく。
『cute!』
可愛いと云われることには慣れている犬だった。
犬嫌いのひとでなければ、だいたい「あらかわいい!」と誉めてくる。家族からも(躾はなされていたが)誉めそやされる犬。
まさに、犬なのに猫可愛がり、だ。
日本語をすべて理解はしていなくても「可愛い!」だけは理解していただろう。誉められるときのこの犬の表情は「苦しゅうない」だったし態度は「誉めることを許す」だった。
我が家に留学生が来た。
私の妹が英国にホームステイした、その交換留学生だった。英国人だから英語が母国語、日本語は勉強中でまだ片言だ。
彼女は朗らかで犬好きだった。そして、そうでありながら日本犬は見たことがなかった。
「Wao!」
留学生はわが家の犬を眼にして大きく叫んだ。
犬は、初めて聞く外国の言葉に身構える。誉めちぎられながら育ったおかげで、この犬種にしては警戒心をどこかに忘れてきた犬の、珍しい反応だ。
「Cute!」
考えてみたらCuteの発音は感覚的に少しばかり鋭い。犬は身構えながら尾を下げる。後ろ脚に挟まんばかりに下げてじりじりと後退る。
留学生の少女は物怖じしなかった。
犬が退けばその分間を詰める。攻防(にすらなっていないが)は数回くりかえされ、業を煮やしたのは少女のほうだった。
何やら私には理解しきれぬ英語を畳みかけながら犬に跳びかかる。犬は避けることもできぬままにねじ伏せられた――もとい、抱きしめられた。
熱心に囁かれる異国の言葉。
撫で回す手。
硬直して戸惑う犬だったが、そこは誉め言葉を浴びて育った子のことだ――、知らぬ言葉でも含む感情は知っている、知り尽くしている。
つまるところ、犬が「可愛い」の同義語をひとつ学び、異国語での愛の表現に怯まなくなった、それだけのことだった。
『記録』
日記をずいぶん長く書きつづけていた。
私が私である、私でありつづけた記録。
そして、何十年と云わずほんの数年前でも、その頃の私はいまの私ではないのだと思い知らされる。
そんな記録だ。
例えば、六年前の夏。茄子は大嫌い、とあった。
いまの私は茄子は調理方法次第で好きだ、おいしい、と思っている。麻婆茄子もいいし、焼き茄子なんか最高だ。
きっかけは夫がつくってくれた焼き茄子がとてもおいしくて認識を改めたからだ。
例えば、十五年前、冬。
暑いくらいなら寒いほうがずっといい。とある。寒さ対策なら厚着に限度はないのだからいくらでも重ねればいい。だが暑くて脱ぐには限度がある。全裸になってまだ暑くてもそれ以上脱ぎようがない。と。
実際昔は寒さのほうが耐えられた。耐えるという意識すらなく、ちょっとした我慢だった。しかしいま、冬の寒気も骨身にしみる。夏は苦手なまま、冬の寒さにも悩まされる。
例えば二年前の秋。
猫も好き、だけど較べるなら断然犬派。と書いてあった。
一年前。去年だが、その春先に書かれているのは、野良猫がやけに懐いてくると。
同じ年の梅雨時。野良猫を我が家の猫として受け容れることを決めた、と、覚悟が綴られていた。
年々季節はくりかえす。
同じような春夏秋冬。それぞれの季節のイベントごと。旬の食べもの。空の色、花の季節。
変わらぬようで、ひとつひとつ同じだった時はひとつもない。
日記をめくっては私が私であることの奇蹟を思う。
「どうした?」
日記帳をひっぱりだして眺める私に夫は訊いた。
「楽しいなと思って」
答える。
「そうだろうね、日記をつけるとき君はいつも楽しそうだよ」
そうなのか。そんなに表情に出るものなのか。
足もとにすり寄ってくる猫を抱きあげて私は夫に笑いかけた。
「それはたぶん、いまがかけがえなく幸せだからかな」
私が私であることは、永遠ではない。
だから、綴る、記録。
『さぁ冒険だ』
「冒険が始まる!」
そんな眼差しでこの子は私を見あげた。
「さあ征こう!」
大地は雪に覆われて、風は冷たい。
だがこの子の心はそんなことでは挫けない。
そして私も挫けている場合ではない。
雪が何だ、厳寒が何だ。
私はこの子を導かねばならない!
と、盛り上がれれば互いに幸せなんだろう。
雪とこの子の輝く眼を見比べて。
仕方ないなぁ……と私は炬燵を出た。
冒険! 冒険!
無邪気に跳ねる子にリードをつけた。
玄関をあけて、まだ誰の足跡も刻まれない新雪に記念の第一歩を……。
踏み出して、引っ込めた。
この子は再び私を見あげた。
物云えぬこの子の眼は雄弁に語る。
(寒いよ?)
そりゃ寒いだろうよ。
(帰ろか)
………。
まだ敷地からも出ていない。どころか玄関先に可愛らしい足跡ひとつ落としただけなのに?
言葉にしなかったが、心のなかで私はつっこむ。
(だって寒いよ?)
可愛らしく小首をかしげて。
柴の姫の冒険はここで終わった……。
次回! 柴の姫は炬燵の魔性に囚われる!
みんな、見てくれよな!