『明日に向かって歩く、でも』
自信がなくて、他人もあまり信じられない。
疑いたいわけじゃない。
でも将来なんて見透せない。「可能性」は嫌いな言葉。
前向きな言葉を使おうとか、言霊を大事にとか、どうして信じられるんだろう? 言葉だけ繕ったところで現実が変わるわけ、ないじゃない。
ずっと、そう思って。
あの子が友達かどうか私は知らない。
おしゃべりに費やした時間で決まるならあの子は友達。親友クラス。
でも、例えば弱みを見せられるかとか、信じているかとか、そんな物差しではかるなら全然友達じゃない。
そんな、あの子が言った。
「ゆいちゃんはなかなかの後ろ向き人生だねぇ」
ゆいちゃん、とは私のことだ。
信じてた子に秘密を話して、敢えなく翌日にはそれをクラスにばらまかれてた、そんな昔の話をしたときに。
ああ、この子は私のあの痛みを、恥ずかしさを、愕然と心が凍ったあの温度を、わからないんだ。
少し信じかけていた私が、やっぱり甘かった。
私は顔に笑顔を貼りつけた。
でも、私が何か云う前にこの子はにこりと笑った。
「でも、後ろ向きでいいと思うよ。厭なこと、あるよね。そんな厭なことだって、なかったことにならないもんね。だからさ、過去ばっかり振り返っててもいいと思う。過去に向いてるときに、後ろ向きに歩けば、未来に向かうってことだしね!」
……何を、云ってるんだろ、この子。
「過去向いて後ろ向き?」
「そう、マイナスに向かってマイナスに進めば、プラスだよー」
中学生の数学か。
ツッコミを入れるタイミングも逃していた、私は。
「ゆっくりいこ! おつきあいしますよ!」
そんな私をよそに、この子はおどけた様子でにこにこ笑う。
おしゃべりに費やした時間は親友級。
弱みを見せられるかなら。
いま、この子に私は弱みを見せられるか…なら。
「後ろ向きに後ろ向きで前向きね…」
弱みはまだ明かせない。だけどいつかこの子に明かせるなら。
それはなかなか厭ではない予想図。
まだ明日に向かって歩けなくても。
でも、いつか来る日をちょっとだけ。
期待して、みた。
『ただひとりの君へ』
この世に姿かたちが同じ者は三人いるという。
姿かたちが同じならどうやって見分けられるのか。
見目がまったく変わらぬ、君のドッペルゲンガーを区別する自信が、実はない。
君が好きなのは本当で、君の顔立ちだけが好きなわけじゃない。それは本当、誓って真実。
背丈、しなやかな身体つき、スカートはあまり好きじゃないとこ。浮かべる表情は、笑顔も涙も真剣な眼射しも怒り顔だってみんな大切で愛おしい。さらさらな髪、落ち着いた声のトーン、瑞々しい所作。
読む本の傾向(本格じゃないミステリが好きだよね)、英語が得意で数学が苦手教科。夢だった教師をあきらめて、いまは将来の目標を探しなおしている途中。
インコを飼っていて鳥が大好き。犬や猫は苦手。だけど怪我した迷い猫を見つけたときには躊躇なく獣医に見せて飼い主をさがすポスターをつくった。
何ひとつ洩らさず君が好き。
たぶん君の心に、魂に、惹かれている。
だけど、君をコピーしたようにそっくりな相手がもしいるのなら、間違わずに君を君と言い当てる自信がないんだ。
遭うかどうかもわからない君のそっくりな影に、遭ってしまったらどうしようと不安になる。
知れば知るほど、不安になる。
知れば知るほど、知らない君があふれてくる。
どうかこの世にただひとりの君を、もっと教えてください。ドッペルゲンガーなんて罠に引っかからないように、もっと君を知りたいのです。
『手のひらの宇宙』
欲しいものはひとつ。
そんないくつも望みはない。いやもちろん願おうとすればいくつでも出てくるんだろう。何かを叶えたら次に欲しいものが出る。慾はこんこんと尽きることなく溢れるんだろう。
でもひとつだけ、死ぬまえに何を願うかというのなら。
ずっと追いつづけて、まだ証明しきれていない、この宇宙の仕組みの一端を見晴かしたい。
どんな天才もまだ見果てぬ、この世界の凛然たる法則を、この手で記したい。
家族の幸福や友人の息災ではなくて、望むのは真実のひと欠片。無神論の自分に、神の絶対性を信じさせるくらいの、厳格な――圧倒的な――息もつけないくらいの――リアルな世界を。
シンプルに証明してくれる式をこの手のひらに。
よき夫でよき父でよき友で、そんな人畜無害でうだつのあがらない下っ端研究職のぼくたけど、そんな夢をみている。
たぶんぼくは、利己的なんだろう。だからたぶんいつか、ぼくは虎になるんだろう。李徴のようにね。
『風のいたずら』
あのとき、向日葵が揺れなかったら。
そんなことを考える。
だが向日葵は揺れた。
揺れなかった世界は、僕にとっては存在しなかった。
夏の夕暮れ、やにわに暗くなった視界、さっきまでの青空は雲に覆われ、冷たい風が強く吹いた。向日葵が揺れた。
大粒の雨が頬を撲った。
そのとき向日葵の足許できみが鳴いた。
大きな段ボール箱。ピンクの文字が無責任に跳ねる。
『かわいいよ! だれかひろって!』
夏の嵐が迫る。
段ボールの蓋は閉じられていた。
まさかと思いながら押し広げ、そのなかにきみを見た。弱い声をあげるきみはまだ目すら見えてない仔猫だった。
選択の余地はない。
僕は箱ごと抱きあげ、嵐から逃げるように走った。
風が吹いて向日葵の群を割らなかったら、きみと僕は出会えなかった。
動物病院の医師に診てもらい、生育のあれこれを学んだ。本も買った、ネットも頼った。
きみはすくすくと育った。
ひとり暮らしの僕が、前触れもなく授かった家族だ。
きみを家に招き入れてから、ペット可の部屋を探し、そして引っ越した。ちょうど転居は考えていたので、タイミングとしてはよかったんだろう。
そもそもの転居の理由だった彼女も僕の選択に頷いてくれた。ペット可の分高くなった敷金は彼女と半々出しあった。
同棲した彼女はすぐに僕の婚約者となり、やがて誓いを交わして妻となる。僕が父となり、彼女が母となり、きみは姉となった。
赤ん坊の眠りを守る使命を負ったようにきみは種族違いの妹の枕もとで丸まり、妹の容赦ないいたずらに怒る素振りもなく、尻尾を振ることで赤ん坊をあやすスキルまで身につけたものだ。
赤ん坊の育ちははやい。
きみもどんどん歳を重ねる。
僕と彼女の娘、きみの妹はもう高校生だ。
あの日。きみという命が尽きそうだったあの夏の嵐の寸前の夕暮れ。
あの向日葵を揺らした風のいたずら。
あの風がなければ、きみと僕は出会えなかった。
そんなことを考えながら、僕は庭につづく窓を眺めていた。庭には毎年向日葵が咲く。僕と妻、どちらが提案したのかもう覚えていない。
あのときのように、夏の風は向日葵を揺らす。
細い声できみが鳴いた。
この週、僕は夏季休をとっていた。連続五日間。
妻はもう少し長く七日の夏季休。娘は高校の夏休み。家族は全員が揃っていた。
寝床に横たわり、きみは時々うっすらと目をあける。
尻尾がぱたりと動く。妹をあやしていたあの頃のように。
娘――僕と妻の娘、きみの妹はタオルに顔を埋めていた。声は押し殺していたが、隠せてはいなかった。
妹を慰めようとするのか、きみの尻尾はぱたりぱたりと振られる。
か細い鳴き声。
視線をゆるりと巡らせる。妹をみて、僕の妻、僕、の順に巡った。
そしてまた鳴いた。
きみは疲れたように、満足したように、こうべを寝床に置いた。
それがきみの旅立ちだった。
ああ、きみと暮らした長く短い日々。
僕は幸せだったよ。妻と娘と、そしてきみがいて、幸せじゃないわけがない。
あの日。きみというかけがえのない生命を無責任に棄てた誰かを、あの無慈悲なピンクの文字を、思い出しては幾度憤っただろう。
そしてあのとき吹いた風に、きみを照らした向日葵に、どれだけ感謝しただろうか。
僕は目を閉じた。
『透明な涙』
人魚の涙が七色に煌めいて波に溶けた。
そんな、夢をみた。
人魚は彼に何かを告げようとしていた。だが声というかたちにならない。水の間なら通るだろう振動は大気のなかでは何の音も為さなかった。
目をあければ天井がみえた。
七色に煌めく涙。七色で透明で。
彼は深く息をついてまた目を閉ざす。
海女のように、夢に深くもぐるような心地だった。
再びやってきた彼に人魚は今度は微笑った。
――来てしまったのね。
夢にもぐり、波をもぐった、此処は海底。人魚の世界。
――来たのなら、わたしの、勝ちね?
ゆっくりとたおやかな腕が彼に差し伸べられる。
彼は逆らえなかった。人魚の意に叛く行動をとろうなどと考えもつかなかった。
白い腕が頸に絡みつく。
人魚が笑う。ぎっしりとはえる、鋭い牙。
それをみても彼は人魚に無防備に喉許を晒しただけたった。
さいごの記憶は、涙だった。
透明なその涙は、彼の後悔だったのか。人魚の懺悔だったのか。
今更問うても詮なき……、