『やさしくしないで』
そんな眼で見ないでほしい。
頭を撫でられるほど僕は子供じゃない。
何遍云ったところで姉は微笑むだけだった。教壇に立つ姉から見たら結局僕は教え子たちと変わらぬ『守るべき相手』なのだろう。そのカテゴリからどれほど抜け出したいか。
きっと姉にはわからない。
依怙贔屓は厭だと、強い語気で主張した。
僕は僕の努力と結果で評価されたい。
姉は頷く。それでも僕に出す課題は易しい。こんなレベルの問題で、満点をもらっても悔しいだけだ。
「練習問題さ、変に易しくしないでよ」
姉は困ったように笑う。
「易しくなんてしてない。どちらかというと難しいほうだよ」
課外学習として出ている練習問題は、姉が希望者のためにつくっている。まぁ、希望者はいまのところ僕しかいないんだが。
それを以て僕が特別扱いされているとは云えるだろう。贔屓するなと云いながら特別扱いはされている。そのダブスタの自覚はある。
でも、万一にも課外学習の希望者がほかに現われても反対するわけじゃないからと、そんな弁明。
姉の添削の入った解答用紙を眺めながら僕は呟いた。
「とにかく姉さんはさ、僕に甘すぎるからさ」
「そんなことないと思うよ」
姉がにこりと笑う。
「二、三年前ならそうだったかもしれないけどね」
僕は姉を見あげた。
このひとに僕は成長を見せられているのだろうか。
このひとの背をずっと追いかけてきて、僕は。
姉と呼び、本当の姉弟のように育ってきた。
それはとても幸福で幸運だったけれど、いまとなってそれが大きな枷になっていると僕は気づいている。
「頼もしく思ってるよ」
姉の優しい眼差しを、言葉を、よけるように俯く。
(そんな優しくしないでよ……へこむから)
心に洩らした弱音を、聞いたはずもないのに姉が云った。
「優しいのは、私のほうじゃないよ」
「………え?」
顔をあげたが既に姉は背を向けていた。
「課題も終わったし、ちょっと出てくるね。またね!」
「え、ちょっと、いま何て……!」
姉の長い髪がさらりと靡いて向こうに消えた。
◆◆◆◆◆
(いつの間にか優しくなったね)
姉として弟に対する優しさをそそいでいた。わがままなところも、背伸びしたがるところも、本当に弟のようだった。本当の弟がいたわけではなかったが、きっと弟がいたらまさにこんな関係だっただろうと思うほどに。
(いつからだったんだろう)
弟でしかなかった少年の表情が変わってきたのは。
(優しくしないでよ、って云うけど)
彼女にも云い分はある。
(優しいのはどっちのほうだか……)
関係性を壊すのが怖いから、
(優しくしないでね)
いまはまだ、もう少しだけ。
『隠された手紙』
確かに手紙を書いた。記憶がある。もう十年以上も前のことで、記憶だって風化変質している可能性は大いにある。だが他ならぬこの記憶にだけは奇妙に自信があった。
ただ、手紙を書いたという記憶だけだ。
肝心の、何を書いたのかが思い出せなかった。
悪態などは書いていない。はず。
むしろ逆上せた科白を書きつけたのではないかと、それが心配だった。
幼馴染が目前で語るのを私は眺めていた。眺めながら必死で記憶を探っていた。
何を書いたのだったか、あのとき、小学生だった私は。浮かれた愛の告白など書いていなかっただろうか?
「というわけで! タイムカプセル掘り返しに行こうぜ」
幼馴染はやたらと乗り気で気合い充分。
「うん……、でもヤナギンもあれからあっちに戻ったことないんでしょ?」
幼馴染の名字は「柳橋」、ゆえにヤナギンだ。
「まあね。ミカん家もあれから引っ越したんだっけ」
私がミカと呼ばれるのは名字が「三角」でミカドと読むからだ。
ヤナギンは小学校卒業と同時に、うちは中学2年に進級するタイミングで、転居した。いま交流があるのは、小学校以来途切れずつきあいがあったわけではなくたまたま就職した関係先で再会したからだ。
タイムカプセル。
あまり気乗りはしない。
あのときふたりきりで校庭の片隅に埋めたタイムカプセル。確かに私は手紙を書いた。このヤナギン宛の手紙だった。しかし内容は何だったのか。
当時私はヤナギンに幼い恋をしていた。恋とも呼べない淡い好意。卒業と同時に彼が引越しすると知っていて、私は何を……書いたのか。
渋る私にヤナギンは云う。
「ミカがイヤなら仕方ない」
あきらめてくれたかと安堵した私に、ヤナギン。
「なら俺ひとりで掘ってくるよ」
「ひゃ!?」
私は思わず変な声を出した。ヤナギンの不審な眼に私は白旗をあげる。
「あー、うん、私も行くよ……」
ヤナギンは素直にぱっと顔を明るくした。
たぶん幼い私はこの幼馴染のこんな表情が好きだったのだ。
――と、いう顛末で私たちはここにいる。
懐かしい街は昔の記憶どおりの表情でもあり、ところによっては開発でかつての面影もない風景も見せていた。
そして小学校に到着する。
正確を期するなら、小学校がかつてあった場所に。
「うお!」
ヤナギンはやはり率直な驚愕と落胆を声に出した。
小学校は既に影も形もない。4階建ての小洒落たマンションた。
「あー、もう何もないねこれ……」
私はほっとしていた。心配から解放されて気が抜ける。よかった。本当によかった。助かった。
小学校女子の恋文なんてどう考えたって黒歴史だ。
あの恋心を貶めるつもりなんてない。だけど、その恋の発露をしたためた手紙なんて恥ずかしくて発狂ものだ。
いや、その手紙が本当にラブレターだった確証もないのだが。
私の脱力の理由をヤナギンは完全に誤解しているのだろう。
力づけるように肩を叩いてきた。
「しょうがないよな、時間経ちすぎてるもんな……残念だけどさ」
誤解させたままでいい。私はしおらしく頷く。
子供の頃のラブレターなんてなくていい。変に拗らせたくはない。私の気持ちも、ヤナギンとの関係性も。
駅で時刻表を眺めて、ちょうどいい乗り継ぎの電車があると確認する。
ヤナギンは振り向いた。
「とりあえずさ、乗り換えのとこまで出たら、飲むか」
「いいね」
そんな会話を交わしながら、電車を待つ。
土に埋めて隠した手紙は何も語らずに失われた。
それでいい、それがいい。
今日は懐かしい思い出話を肴に飲む。
明日からはまたしばらく過去と無関係顔で暮らす。
いつかこの幼馴染に、いまの私の言葉で語りかけよう。そうしよう。
『バイバイ』
さようならでもまたねでもなく、あのとき僕が口にしたのは「バイバイ」だった。
深い意図があったわけじゃない。理由は何もなかった。単に口をついただけ。
そして、その言葉を選んだことが運命を左右したわけでもないだろう。そんな因果を気にするほど僕は迷信深くない。そう、迷信深くないんだ。
なのにいまでもあの別れの言葉を思い出しては苦しくなる。
もし、もっと丁寧にあの一時の別れを扱っていたなら、もしかしたら運命はこんなふうに動かなかったかもしれないのに、と。あんな軽々しい挨拶が、あの別れを永訣に変えてしまったんじゃないかと。
ばかばかしいとわかっているのに。
毎年この日を迎えては悔やむのだ。
3月11日。
君が帰ってこなかった日。
『旅の途中』
美術館とか展覧会とか、あまり興味はなかった。高校の頃、美術部所属の友人はいた、彼女らの絵も見せてもらって、きれいとかすごいなとか思いはしたけれど、自分に絵心はないと知っていた。ひとの絵を評価する視点も知識もない。
身の丈を弁えていた。
大学に進学した。生まれて初めてひとり暮らしを開始した。進んだ学部は文学部。高校時代から気になっていた源氏物語、受験勉強をしていて読む間もなかったその名高い女流文学をいざ読まんと、バイト帰りに書店へ寄った。高い建物にぎっしり本の詰まったようなその書店は、ここが学生の街なのだと実感を抱かせた。
田辺聖子と与謝野晶子と、初心者はどちらから手をつけたらいいのか。迷いながら売り場を廻り、友達にはひとまず漫画で予習するのがオススメ! と力説されたことも思い出す。
漫画売り場で連載開始からずっと追っていた少年漫画の最新刊を見かけてうっかり購入。今日はこれが戦利品でいいや、手持ちもそこまで潤沢ではない。
帰り道。
百貨店で何やら美術展を開いているらしい。
高校時代の美術との『弁えた』距離感はいまも心に厳然とある。しかしこのとき、何かしらの昂揚感があった。
入場料はそこそこ良心的。無料だったらむしろ警戒感が先に立ったろう。
喚ばれるように代金を払ってその展示会場へ足を踏み入れた。
予備知識はゼロ。聞き覚えもない名前の画家。外国の名前だ。看板にはフランスの鬼才とあった。
最初の一枚で既に胸をぎゅっとつかまれた。絵画ではなく写真なのだろうか。そう思うほどリアルで精緻で写実的な絵だった。
確認のために絵の横、作品名と説明を掲示したパネルに視線を投げる。油彩とあった。ではこれは写真ではなく油彩なのか。
もう一度絵画を見た。やはり写真と紛う作品だ。
肌の艶、筋肉の影。髪を透かす光。足の裏の土の汚れ。
確かに写真というには幻想的な、仕掛けはあった。落ちかかる卵の殻のような何かの欠片、女性の頭部の角めいた異形。だがそれでも……。
一枚一枚、魅入られるように作品展示を巡る。
絵画と自分との間に、何の距離も生じていないような錯覚すらあった。魂とゼロ距離。ぴったり貼りついて、だけど一体になれない。近いのに、共鳴するのに、隔絶されている。もとかしい想いをかきたてられたまま、気がつけば最後の展示作品の前にいた。
腕時計を見た。たぶん二時間くらいは余裕で経っていた。そろそろ夕食の準備をしなきゃ。……しかし幸か不幸かひとり暮らしだ。
一瞬で決断して入り口に戻る。
最初からまたじっくりと鑑賞を再開した。
どれだけ観たか。
係員が申し訳なさそうにそろそろ時間だと告げに来た。ため息が洩れた。係員への不服ではない。酔ったような幸福感のため息だった。
出口でグッズが売られていた。手持ちに余裕があるわけではない。迷った。迷った末に画集を二冊、ポストカードも数枚買った。
それがきっかけ。はじめの呼び水。
あれから幾つ美術展を観にいっただろう。
美術展はまるで旅のようだ。
訪れて何が残るわけではない。風化する、あるいは時に美化される記憶。画集やグッズは旅土産のように思い出の寄す処にはなる。それでも、それだけだ。
手許にかたちは残らない。
それでもそれだけ。
だから観にいく。
終わりはない、旅だった。
『まだ知らない君』
君の横顔を今日も眺めている。
雨の日の喫茶店。君は雨の日でもこんなに晴れやかで。雨に覆われた街並みを窓越しに見て、笑顔をこぼす。道に流れる色とりどりの傘が、そのうち僕にも本物の花畑のように見えてくる。
僕の知っている君の顔。だけど僕の知らない君の顔もあるだろう。
僕にも、君の知る顔と知らない顔があるように。
僕の知る君が、君の知る僕を好きだと云う。
僕の知らない君も、君の知らない僕を見つけてくれるだろう。
僕が僕の知る君を抱きしめて、知らない君を探すように。
一枚また一枚と薄い包みを手探りではがしていく。
また君を見つけたい。まだ君を探していたい。
いつか僕の知らない(君も知らない)、僕らふたりが並んだときに化学反応のように現われる、君に(僕に)出逢えますように。
いつまでも知り尽くせない君と僕でありますように。