『日陰』
日の当たらない裏庭、苔の絨毯、湿った空気の匂い。
ミニチュアの椰子の木みたいな苔の合間を、黙々と整然と蟻が行進している。
ずっと昔の記憶。その頃、私が(彼女が)何者であったのか、何と称ばれていたのか、そんなことは憶えていない。なのに蟻たちの行軍だけは記憶に焼きついている。
死んだ生きものを解体して、屍骸の欠片を運ぶ蟻たち。
そのとき私は(彼女は)、死神になりたかったのかもしれない。
『帽子かぶって』
帽子をかぶる理由。
全然帽子のイメージもない友人が突然帽子をかぶって現われた。
帽子の理由は何だろう。
例えば、どうにも直らない頑固な寝癖を隠すため。それともそもそも寝坊で髪に割ける時間なんてなかったとか。
散髪に失敗した翌日の、その場しのぎ。
いや、ネガティブな理由とは限らない。
夏場の陽射しを遮るため。……これはネガティブじゃないと言えるか、疑問だけど。
そうね、ほかには……店先で、帽子に一目惚れをかましちゃった、なんてこともあるかもしれない。
つばの大きな、真っ白の帽子。
りぼんと鮮花で飾られている。花は香りも高い。派手派手しく主張は強いが、厭味にはなっていない。匙加減はまぁ見事である。
その褐色の肌と金色の瞳に、白は違和感なく似合う。
ツッコミ待ちなのか堂々と、そして心做しかドヤ顔でターメは約束どおりの時間に現われていた。
シルルがここまで内心に疾らせた分析は一瞬だった。そしてゆっくり口をひらく。
「どしたの、帽子なんて、ターメ。とうとう角でも生えちゃった?」
ターメは微笑んだ。
そしてぱしっとシルルの頭に手を下ろす。軽い手刀、痛みはない。
「不合格」
「これ試験か何かなの?」
「どうかなー」
歩き出すターメにシルルはつづく。
「で、何でその帽子なの」
訊いてみたら、ターメは足を止めた。
「そうだねえ」
小首を傾げて、ターメ。
「猫耳生えた、とかかな!」
「不合格」
今度はシルルが切り捨てた。
眼があった。ふたりは同時に、笑いだした。
『小さな勇気』
たとえば、あなたの眼を見つめ返すこと。
隣りに立つあなたの手を私からつなぐこと。
あなたの好きだというメニューを私の味つけでつくること。
あなたが好きな漫画を私も読んでみること。
私が好きな小説を勧めて読んでもらうこと。
あなたと好きなゲームの話で盛り上がるとき。
そんなゲームのストーリーで、あなたの分析と私の解釈をすりあわせるとき。
たくさんの共通点と、それ以上の乖離、齟齬。
そんな幾多の違いを知って、それでも傍に立ちたいと願ったとき。
私の人生にあなたが欲しい。
あなたの人生に私はいたい。
それを告げたくて、告げる。
さりげない勇気を、ください。
『わぁ!』
早朝、眠い。
夏休み、もちろん二度寝は禁則じゃない。むしろ推奨だ。
何故眼が醒めたのかわからないまま、甘美な眠りの泥沼にひきこまれる。抵抗はしない。夏休みだから。
が、何やら鼻の辺りに触れるものがあった。
ふわふわ、もふっ。
うすく眼をあけた。可愛さの極致がそこにいる。
猫。
銀色の短毛。チンチラとシャムの血をひいていると、この子を譲ってくれた親戚は云っていた。
「んんんー、どしたのー?」
起こしたのはこの子だと知って、出るのはまさに猫なで声。まさに猫可愛がり。眠りを侵害した野暮も咎められない。
甘い声は猫からも返ってきた。
相思相愛!
そんなことを考えてにやけて。
だが次の瞬間、夢うつつの霧が暴力的に払われた、
「わぁ!?」
叫んで身を離したにはわけがある。
それは猫を飼った者が、もっと正確に云えば猫を飼うに値すると猫自身に認められた者が、直面するひとつの試練……。
ジジジジジジジ!!
唐突なけたたましい虫の音。
そう、蝉だ。猫が狩った戦利品。猫からの贈り物。
認められるのは嬉しいがこの贈り物は喜べない!
猫がぽとりと落とした蝉は死に物狂いの鳴き声をあげた。逃げだそうと破れた翅で逃走をはかる。だが容赦なく前脚の一撃で阻止して、猫はもう一度咥え、ご丁寧に飼い主の眼の前に差し出した。
煩いし気持ち悪いし、叱りとばしたい衝動。
だが猫にとってこれは親愛の情なのだろう。無碍にできない。
「い……いい子だね……」
半泣きで猫の頭を撫でて。
じたばた最期の力を振り絞って鳴く蝉をいったいどうすれば猫の機嫌を損ねずにおさめられるのか……。
誉めろと言わんばかりの猫。
「わ……わぁ……! おいしそうだね……」
そんな夏の朝。
朝も夏も始まったばかりだった。
『終わらない物語』
――物語は終わらせねばならない。
そう云ったのは、誰であったか。知っているはずなのに思い出せない。わかっているのは、それは神の類いのものだったこと。耀く光。
「始めたばかりなのにもう、そのようなことを……」
畏れながら彼は申しあげた。
――ひとには見えぬ最果ては、吾には一夜の如きものだ。
神は淡々と告げてくる。
――物語は必ず終わる。始まれば何であろうと終わらねばならない。
そう、神とひとは、同じ時を共有しながらも違いすぎる。
彼はただ面を伏せた。
あれはいつのことだったのか。
滅びに瀕する世界を高みから眺めおろして彼は眼を閉ざす。大陸の最も高き塔の最上に風は強く吹き当たる。
物語は終わる。世界は滅ぶ。彼の使命もいまや果てようとしていた。
神は……そして神はどうなるのだろうか。
神は己れの生みだした世界の滅びを何処で見ているのか。滅びの宿命に縛られぬ神はいまこの終末を何処でそして如何に見ているのか。
彼は幾度も抱いたその問いをいまも口にした。
「主上。吾が神。吾が声をどうか……聴き給え」
返辞はなかった。
この数十年、彼は神の声を聞いたことがなかった。
かつてあれほど近くにあった神の気配を感じられなくなって既に数百年は経っていた。
神は……まさか世よりも早く滅びたのだろうか?
そんな不敬すら胸をよぎる。
「物語は始まれば終わる。世界もまた創られたならば壊される。いのちは生まれた以上死を免れない」
彼は歌うように口にする。それは神の教理だ。
「在るものは必ず……」
云いながら、彼は涙が零れ、頬を伝うのを知った。
そう。在るものは必ず喪われる。
それは理。
誰も逃れられない。この世界も、そして……。
この滅びゆく世界のために、彼は涙した。
とうに神を喪っていたこの世界のために。
物語は潰えようとしている。
終わらない物語などない。
そしてそれは喪われた神とひとが、ほかのいのち、いのちなき存在、すべてが、分かちあえる、救世だった。