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11/17/2024, 2:38:48 PM

 北海道に輝く雪のマーク。とうとう今年もこの季節がやってきた。明日の朝の記録的寒さを予報する画面を見上げていたら、ガラガラッと勢いよく入口の引き戸が開いた。一直線に俺の隣の席に駆け込んできた上下黒の体には、ピンクのラインが入った頭が乗っている。
「ピンクかよっ!」
 思わず笑ってしまった。ワンシーズン続く戦いと、一般的な学生生活から離れることへの決意表明みたいなものだけど、今年はピンクか。
「似合うっしょ」
 鼻にシワを寄せてクシャリと笑う顔には目立つホクロが3つ。なんか星座みたいで気に入ってる。調子に乗せそうだから言わねーけど。
「この世界でこれほどピンクが似合うのは、お前かフラミンゴくらいだな」
 俺の憎まれ口にも、くくっと笑うマイカ。そうかそうか、ご機嫌か。
「おー、マイちゃん。カッコいい!」
 物音を聞きつけたオヤジが奥から顔を出す。マイカは染めたばかりのピンクを指でつまみ、得意げに宙に舞わせた。ふぅ、とカラーリングの匂い。
「食ってく?」
「うんっ!味噌!」
「はいよー!腹一杯食ってけ!」
 今は昼の休憩時間だけど、オヤジは快くマイカのために味噌ラーメンを作り始めた。雑談で盛り上がる2人。昔からこの2人はウマが合う。
「明日、出発前にまた来るよ。ママとパパも」
「おっけ。お待ちしてまーす!」
 俺はさっき、醤油ラーメンと焼き餃子を食ったところだったけど、オヤジは俺にまた焼き餃子を出してきた。こんなことしなくたって俺はもう逃げねーよ、という文句は飲み込み、おとなしく箸を割る。
「いただきます」
 マイカの前にも大きなラーメン丼が置かれる。まさかの大盛り。太らせたらまずいと焦った俺は、手を伸ばして子ども用の取り皿をゲットした。
「イェーイ。腹減ってたんだよね」
「えーっ」
 ムウッと頬を膨らませるマイカを無視して、新しい箸を割る。大盛り分の麺をきれいに取り除いて、フフンと笑ってみせた。成長期の中学生男子ですから。こんくらい余裕です。
「オリンピックでメダル取ったらさ、マイちゃんのサイン飾るから。ここ。空けて待ってるから。頑張ってよ」
俺達がいるカウンターの真上を指さしてオヤジは笑った。前は冗談として笑えたけど、今は少しの緊張感を伴うオリンピックという単語。まあ、まだまだ全然なんだけど。でも、全く可能性がないってわけじゃない。そんな立ち位置。
「オリンピックかー!」
 マイカは色紙1枚分ほど空けられた場所を見上げて照れくさそうに笑った。オリンピックより欲しいタイトルがあることも、マイカは結果を出すより今が楽しいだけなんだってことも、オヤジのような一般人にはなかなか分からないところなんだと思う。だけど素直に期待に応えようとするマイカは、やっぱりトップ選手にのし上がる素質がある。
「アキは、初戦決めた?」
 麺をすすりながらだから、マイカの言葉は不明瞭だった。それを理由に聞こえないふりをしても良かったけど、俺は麺を飲み下してから地名を告げた。
「いいね!ファイティン!」
 ファイティンってなんなんだ。フッと吹き出す。マイカと違って俺が出るのは国内のローカル大会みたいなもので、勝ったところで世界に繋がるわけでもなんでもない。だけど、昨シーズン1つも滑らなかった中学生の復帰戦なんか、どこだっていい。それに、俺は確実にワクワクしてる。ただ滑れるということに。
 滑らなくなった理由を俺は誰にも言わなかった。整理がつかなくて俺自身にも正しく理解できない思いを、不用意に言葉にすることで決めつけたくなかったから。両親や、小さい頃から俺を連れ回してくれてたマイカのオヤジ、お世話になった大人の人達、それから仲間、先輩。いろんな言葉を貰った。俺が滑れるように、あるいは滑らない人生を選べるように。皆が気遣ってくれてた。ありがたかったけど、どれもが重くて苦しくて、受け止めきれずフラフラと逃げて漂ってた俺に、マイカはたった1言、
「冬になったら、きっと」
 ってクシャリと笑った。昨シーズン、マイカが俺のことで掛けた言葉はそれだけ。実際には冬が過ぎて春が来て、夏が来ちゃったんだけど。冬に向けた準備が始まる夏、俺はまた動き出した。なんでなのか、やっぱり上手く言えないんだけど。
 マイカは何も聞かなかった。ただ一緒にトレーニングに励み、いつもいつも冬の話をしていた。
「冬になったら」
 マイカの口から何度聞いただろう。その言葉に支えられて俺は今日までやってこれた。
 冬になったら、輝く雪の上を颯爽と滑るマイカが見れる。俺はその姿を目に焼き付けながら、あの硬い雪にエッジを立てるんだ。そして、鳥肌が立つほど高く、青い空に向かって飛ぶんだ。
「……なに?」
 ふふふ、と声を上げた俺をマイカが不思議そうに見た。
「内緒」
 ごまかしたら、マイカはまたムッと膨れた。
「気になるっての!なに、教えて」
 珍しく食い下がるマイカに、俺はクシャリと笑って答えた。
「冬になったら、な」

《冬になったら》

11/16/2024, 9:06:44 AM

 ズゴ……
 派手な音を立ててドリンクを吸い込んだら、リュウガが鼻にシワを寄せた。
「もう捨ててこいよ、それ」
 顎で示されたアイスコーヒーは、もう飲みきってしまって氷しか残っていない。溶けた分を未練がましくチョビチョビ飲んでいるのが、リュウガは嫌で仕方ないらしい。その度に文句を言われている。
「やだ」
「じゃあ俺が捨ててくる」
 あ、と手を伸ばしたが間に合わず、リュウガはカップを持ってゴミ箱の方へ行ってしまった。これでテーブルに残されたのは英検の問題集だけ。タイムアップか。
「ほら、帰るぞ」
 戻ってきたリュウガはイスに座らなかった。カバンを持ち上げ、また顎で私を促す。偉そうだからやめてと頼んでも、どうもクセらしくてやめてくれない。いつも何でも顎で指示する。付き合ったりしたらこういう小さい1個1個が許せなくなるんだろうと思うと、どうしても彼氏を作る気になれない。世の中のカップルは、どうやって解消しているんだろう……。
「ほらって」
 問題集を勝手に閉じられ、やっと観念した。仕方ない。いつまでも帰らないわけにはいかないんだから。
 外は思いのほか暖かかった。日中しっかり晴れたおかげだろう。それでもリュウガは、手に持っていたパーカーを差し出した。黙って受け取り、羽織る私。寒がりの私を気遣ってくれるリュウガの優しさを特別だと勘違いしてはいけない。こいつは誰にでも優しい。
「おいー、遅いって」
 ふざけてるくらいに足を進めない私の方へ振り向いて、リュウガは数歩戻ってきた。
「ほら、行くぞ」
 ぎゅっと握られる手。あまりに驚いて振りほどこうとしたけど、リュウガのいつもと変わらない顔を見たら恥ずかしくなってやめた。ただ本当に急かしたかっただけなんだろうから。慌てたらみっともない。
「指、冷たっ」
 リュウガは私の指先を確かめるみたいに握り直し、そのまま自分のブレザーのポケットに突っ込んだ。
 え。
 優しさにしては行き過ぎてませんか。
 狼狽える私をよそに、リュウガは反対の手でスマホを操り、明日の模試の日程を確認し始めた。何時に起きなきゃいけないとか、昼休みは何分だからパンをサッと食べるのがいいとか、帰りは何時になるとか。しまいには明日の天気と気温まで。
「今日は早く寝ないとな」
 やっとポケットにしまわれるスマホ。こっちのポケットに収納された手をどうしたらいいのか、確認すらできないまま私はいつも通りに相槌を打つ。
 いやでもこれ普通……ではないですよね。
 数学の大西の自虐ネタについて語ってる場合ではない気がしつつ、2人で爆笑する。
 ……普通?優しさ?あり得る?いや、……でも。
 リュウガと恋愛の話をしたことはない。部活を引退しても帰る方向が同じなことが変わらないだけで、元選手と元マネージャーという肩書を外れない仲を継続してきたつもりだった。
 ポケットに手……。もしもこれがそういうことだとしたら、いつどの瞬間からなのか謎でしかない。お互いに付き合ってる人がいるのか、好きな人がいるのかさえ話したことがないのに。私に彼氏がいたら、こいつどうするつもりなんだろう。
 ぐるぐる回る頭の中。
 温い風が優しく頬を撫でていき、リュウガのリードに引っ張られるようにして私達は目的地に辿り着いてしまった。
「……」
 足元を見つめる私。
「俺も見に行こうかな」
 リュウガが私の手をそっとポケットから出して言った。温もりを失った指先には冷たく感じられる風。名残惜しさに握る手のひらに、みぃのふわふわの感触がよみがえる。
「……犬派のくせに」
「どっちかならね。でも別に、猫も嫌いじゃないし」
 カバンを担ぎ直し、リュウガは玄関の方に顎をクイと向けた。偉そうなんだから、ほんとに。
 みぃがいなくなって半年。新しい猫なんて欲しくないのに、ママが勝手に貰ってくると決めてしまった。見せられた写真はまだ小さなぽわぽわの子猫だった。きっと夢中になってしまう。でもそれは、みぃにすごく申し訳ない気がして。会いたくないんだ、あの子猫に。
「んー、可愛いんだろうな」
 項垂れて最後の粘りを見せる私。
「じゃあ俺が」
 リュウガはまたサッと手を伸ばし、インターホンを勝手に押した。
 え、ちょっと待って。普通にママと話してるんだけど。緊張とか遠慮とかないもんなの?
「ほら、行くぞ」
 また顎で。
 開いてしまったドア。リュウガに引きずられるようにして連れ込まれる。
「ほらー、可愛いでしょう」
 ママは胸に小さな子猫を抱いていた。みぃとは違う毛色。みぃよりずっとか細くて不安そうな鳴き声。しっぽを精一杯太くして、全力でリュウガと私を威嚇してる。リュウガが屈んで指を出すと、シャッと手を出して引っ掻こうとするのが、可愛くて可哀想で。よしよし、大丈夫だよって抱き締めてあげたくなった。
「はは、似てるー。すげー可愛い」
 みぃのことはよく話してたし、いなくなった時は散々泣いて画像も見せたから知ってるはず。
「似てないよ。全然違うじゃん」
 キッと睨んだら、リュウガは顎で私を示した。
「ほら。似てる」
 ……
 リュウガは事も無げにまた子猫に指を差し出す。唸り声を上げられても、引っ掻かれても、リュウガはニコニコと子猫を構った。
「じゃ、帰ります」
 子猫のストレスが気になり始めた頃、リュウガはそう言って外に顎をクイとやった。言われなくても見送るってば。カバンを玄関に置いて外に出ると、リュウガは静かにドアを閉めた。
「可愛いな。やっぱ好きだわ」
 そう言って私を見つめる目。
「猫……のこと?」
 間の抜けた質問にリュウガは目を見開いた。
「お前、大丈夫?」
「いや、だってさ……」
「だって、なんだよ?」
 なんだよって、なんなのか私にも分からない。焦って絞り出す、さらに間の抜けた返答。
「……犬派のくせに」
 でもリュウガは、ニッと笑ってくれた。
「言ったろ?猫も嫌いじゃない」
「……いつから?」
「んー。……はっきり思ったのは半年前、かな」
 急にドキドキと激しく高鳴る胸。こういうのって、もっとなんかこう、……よくわかんないけど想像と違う展開に理解が追いつかない。どうしよう。
「みぃの時?」
「そう」
 きゅう、と胸が痛んだ。柔らかくて温かかったみぃ。新しい猫なんか飼ったら、みぃの居場所はなくなっちゃうのかな。
「みぃちゃん、見つかるといいな。あの子と仲良くなるかも」
 リュウガ……。みぃを忘れなくていいんだって、そう言われたみたいだった。
「で?嫌なら、諦めるけど。嫌じゃないだろ?」
 ……また。優しいくせに偉そうだ。だけど、分かった。小さな1個なんかどうだっていいよ。きっとそんなものは乗り越えていける。1個を難なく超えていく、他の1個。このドキドキがそれを証明してる。理屈じゃないんだ、これはきっと。
「嫌じゃない」
「じゃあ笑ってよ」
 リュウガの声に、私はプイと後ろを向いた。なんとなく素直になれなくて。
「猫だな」
 少し呆れたようなリュウガのからかいがくすぐったくて気持ちいい。猫か。そう言えばあの子猫をまだ撫でてない。ふわふわの感触を思い出したかったけれど、手に残るのはリュウガの温もりだった。私はそれを慈しむように、そっと両手を握り締めた。やっと冷えてきた風が、火照る頬を冷ますように駆け抜けていった。

《子猫》

11/14/2024, 1:05:57 PM

「君待つと 吾が恋ひ居れば 我が屋戸の 簾動かし 秋の風吹く」
 教わったばかりの和歌を無意識に音読していた。飛鳥時代の気候は知らないが、現代の異常気象と張るほど酷暑の夏があったとは思えない。つまり秋も今よりずっと早かったんだろう。
 生きた時代も暮らした場所も、歌を詠んだ時期も性別も立場も、何もかもが違う額田王と自分をシンクロさせるのは不可能としか思えない。それなのに、俺は今、額田王の気持ちが理解できる。タイムリープできたとして、共に秋風を受けながら語り合える自信がある。
 残念ながら俺の家は気密性が高いつくりになっており、隙間風はおろか、台風の時ですら風の音に恐怖を感じることはない。簾を揺らす風音に恋人の来訪を感じ取れるような環境的要素はない。だが代わりに俺は現代の文明の利器を手にしている。その文明の利器に、恋人のメッセージの到着を知らせる通知が全く届かないのだ。ポイント欲しさに友だち登録してしまった公式さんや、学校の仲間たちからの通知はひっきりなしに届くというのに……。
 終わりか。終わりなのか。
「秋風」は「秋」を「飽き」と掛けることで別れの隠喩表現にもなる。寒々しい秋風と別れ……音だけでなく雰囲気そのものがしっくり来る。もっとも、額田王の歌の秋風は別れとは無関係らしいから、その点は俺と額田王で思いを共有することができない。胸躍らせながら恋人を待つ額田王、くっそー、うらやましい。
 恋多き女性だったらしい額田王に、ぜひ聞いてみたい。俺の何がダメだったのか。この恋は終わるしかないのか。
「何かあった?」
 何度も送信しかけては挫けているメッセージ。また指先で打ち込み、しばらく眺めてから削除する。いっそ何もしなければフェイドアウトするだけで、傷は浅いのかもしれない。ただしモヤモヤを抱え続けていくことになる。何がいけなかったのか。この思いを永遠にリピートするのは苦しいように思える。かと言って再起不能の傷を負いたくはないし、最後に決定的に憎み合うのも美しくない。
 どうしたものか……。
 スマホをテーブルに置き、俺は静かに腕を組んだ。俺が年下だからつまらなかった?大学が忙しい?バイトで毎日夜遅いとか?具合が悪い?実家で何かあった?スマホが壊れた……
 普通に考えたら、どれもない。下手な言い訳にしかならない理由ばかりだ。
 つまり秋風なんだ。別れ。
 ツンと鼻の奥が痛む。でも、泣くくらいなら前向きになりたい。そうだよ、悲しいけど、幸せも味わった。同級生となら行かないような場所にもたくさん行った。背伸びして買ったプレゼントに喜んでくれて、バイト先に会いに来てくれて、塾の頃の延長で勉強も教えてくれて。幸せだった。いい思い出に……、
 涙が落ちる。思い出か。もう新しい思い出は増えない。そう思うと前向きになどなれるわけもなく、鼻の奥の痛みは喉元まで広がった。本気で好きだったんだ。思い出の中でしか会えないなんて辛すぎる。タイムリープできるなら半年前に戻りたい。額田王と語り合うより先に。俺の決死の告白を受け入れてくれた、あの日に戻りたい。そしてこんな結末にならないように、もう1度、イチからやり直したい。
 ………
 しばらく声を殺して泣いた。やっと少し落ち着き、たまっているはずの通知を確認する。
 あ。
 指先が忙しく画面上を滑る。俺はスマホを握り締めたまま家から駆け出し、路上に彼女の影を見つけた。
「……久しぶり」
 落ち着きを装ったものの、完全に鼻声だ。泣き顔は見えない距離だと思ったけれど、これじゃあバレバレかもしれない。
「……ごめん」
 小さな謝罪の声が胸をえぐる。やっぱり終わりか。
「ごめんなさい」
 もう1度謝った彼女が、ゆっくりと近づいてくる。叩かれる?身構えた俺に、戸惑いを残しつつ、ゆっくりと抱き着いてくる彼女。ふわりといつもの香り。ヤバい、また泣きそう。
「無理、しないでほしいの。嬉しいけど」
 ぎゅう、と引き締められる腕。冷たい夜風の中、2人の体温が混ざり合い、温もりを作り始める。
「バイトばっかり。塾もやめちゃって。わたし、これじゃ、君を幸せにできない」
 そんなことない。幸せでしかない。なんて言えば分かる?伝わる?
「でも、……別れたくない。ごめんなさい」
 泣きじゃくる彼女。いつもだったら、彼女が謝ってきたらそっと頭を撫でてあげるんだ。そして、いいよって言ってあげる。
 でも、彼女が望むなら、たまには。
「嫌だ。別れるなんて許さない。すげー寂しかったんだから」
 俺は思ったとおりに拗ねてみた。そして、彼女に負けない強さで抱き締め返した。
 ヒュウと耳元を掠めた秋風。恋は難しい。飛鳥時代の昔から人の心を捉え続けるこの命題。いつか別れがくるのかどうかなんて分からないけど、今は……。
「……君待つと」
 声に出てしまったらしい。彼女はフフッと胸の中で笑った。
「吾が恋ひ居れば 」
 彼女の涙声。それから2人で秋風の中、涙声を重ね合わせた。
「我が屋戸の 簾動かし 秋の風吹く」

《秋風》

11/14/2024, 9:05:37 AM

 真菜香と静かに目を合わせる。そして頷きとも言えない微かな首の動きを互いに送り合い、私達は判決を下した。これはナシ。
 まずフーディーの柄が粋がってる。スプレーで描かれた壁の落書きみたいなアルファベットは炎に囲まれてて、まるでヤンチャな高校生とか大学生が着ていそう。粋がってる、の正しい実例を初めてこんなにきちんと見た気がする。
 それから、ジーンズのダメージ具合。ところどころ擦り切れてるのはいい感じ。けど……ほつれた裾が地面に擦れる長さなのが……。汚らしい。かかと、踏んじゃってる。つまり土足と同じその裾で室内も歩くんだと思ったら鳥肌が立った。
 サコッシュがカモフラ柄なのも小学生かって感じだし、全体的に……むしろわざとやってますか?と聞きたくなる。
 スーツの時はシュッとして見えた顔立ち。私服だと、こんなにもっさりするんだ。髭しっかり剃ってよ。
 実習中、アウトローな感じでカッコよかった「俺、教員志望じゃないから」も、こうなってしまうと、ただの無責任にしか聞こえない。
 あの、それサービスじゃなくて売り物のお菓子です。勝手に食べないでください。
 てか、いつまでいるの。
 そもそもこの人に学園祭の日程教えたの、誰?
 ヒソヒソ囁かれるもっともな言葉達。
「俺ですごめんなさい」
 カフェ風に装飾した教室の隅で、実行委員が肩を落とした。禁じられてたLINEの交換、しちゃってたらしい。きっと向こうからなんだろう。ルール違反のせいで、ずっと頑張ってきた委員にこんな思いをさせるなんて。悔しいと言うか悲しい。
 でも、そんな私達の声は届かない。終了まで居座ったセンセイは、実行委員の挨拶に大きな声で合いの手まで入れていた。「打ち上げの情報、絶対に明かすなよ」という、こっそり回される伝言に全員が団結する。
「今日はありがとう!お前ら最高!また会いましょう!」
 ライブみたいなセリフで最悪な余韻を残し、センセイは去っていった。すごい疲労感。
「お疲れ」
 肩を落として片付けを進める委員に労いの声を掛けると、振り向いた顔が力なく微笑んだ。
「ほんとごめん」
「いや、悪くないから、ごめんいらないよ」
 実行委員は軽く苦笑いしてから、荷物を抱えてドアの方へ足を踏み出しかけた。そして踏みとどまる。
「打ち上げ、来るんだよね」
「あ、うん。途中で帰るけど」
 塾があるから最後まではいられない。それを告げると、実行委員は「来てくれてありがとう」と少し疲れたように笑った。
 いいやつだ。
 感心した私は実行委員の荷物を半分持つことにした。ざわついた廊下を並んで歩く。話題は自然とセンセイのことになった。
「なんで来るかね」
 私の不満に、実行委員はまた力なく笑った。
「まあね……でも、悪い人じゃないんだと思うよ。なんだかんだ、俺達のこと覚えててくれて、こうやって会いに来てもくれたわけだし。そこはありがたいよね」
 いい人なんだなあ。そう思いながら顔を見つめたら、メガネの下にソバカスがたくさんあることに初めて気付いた。肌がきれいだから目立つんだ。もしこの先に似顔絵を描く機会があったら、かなり可愛く描ける自信がある。
 一重だけどつぶらな目がパチパチとまばたきを繰り返す。
「センセイとは好きな洋楽が似てて、けっこう話したから、ついLINE交換しちゃってさ。あー、皆に悪いことしたな」
 後悔に苛まれる姿が悲哀に満ちていて、私は心にも無い、
「意外と面白かった」
 なんて言葉をかけていた。面白くはなかったけど、たぶん、思い返す度に面白くなるはず。だからまるっきりのウソじゃない。
「今井さん、シフトいっぱい入ってくれたり、準備とか片付けとかも、ありがとう。助かった」
 1クラスメイトの私に向けられる心遣い。ほんとにこの人、いい人なんだなあ。てことは、センセイも、確かに思うほど悪い人でもないのかも。私達に愛着があるのは本当なんだろうし。もしかしたら、若い私達に合わせたくて、無理してあんな感じになっちゃったのかもしれない。
「あ、段差」
 気を取られていた私をさり気なく誘導する人の良さも、なんか、あったかい。自然と笑顔になれた。
「やっぱり、最後までいようかな、打ち上げ」
 塾の振替手続きがめんどくさいけど、それくらいやってもいいかな。こう見えて私も好きな洋楽があるし、ちょっと話してみたい気がする。
「えっ、ほんと?良かった!せっかくだから、なるべく大人数で楽しみたくて。ありがとう!予定、いいの?」
 既にもう、胸がワクワクする感覚がある。頷いたところで、実行委員が荷物を気にしながらポケットのスマホを取り出した。
「あ、センセイから。今日はありがとうって。また顔出したいって。あー、どうしよう」
 私達は困った笑顔を共有しながら一緒に対策を考えた。そして、はっきりした拒絶ではないが明確な約束もしない1言を2人で思いついた。
「また会いましょう」

※センセイへの批評は彼女独自の感性によるものです

《また会いましょう》

11/12/2024, 8:56:36 PM

「先輩、吊り橋効果って知ってますか?」
 きゅるん、と表現するらしいあざとい目つきを向けられる。分かる、分かるよ。今日も文句なしに可愛い。俺が独り占めするのがもったいないくらいに。
「あれだろ?スリルで感じてるドキドキを、相手へのドキドキと勘違いしちゃうってやつ」
 めんどくささを演出しつつ、俺はきちんと解答する。きゅるんを維持したまま小刻みに頷く小顔の彼女は、疑う余地もないほど可憐で可愛い。
「先輩、」
「嫌だ」
 途中で遮った誘いの言葉。テーマパークに連れて行こうとでもしているんだろうか。
「えぇー、なんでですかー?」
 言われる前から寸分違わず予想していたリアクション。予想できる自分もなかなか怖い。
「勘違いだろ?本物じゃないんだろ?」
 呆れた口調で突き放すように言うと、彼女も不服そうな顔を作った。まるで俺達、台本のない寸劇をしてるみたいだ。
「きっかけ作りなんだから、最初は勘違いでいいんですぅ」
「今さらきっかけとか……」
 この1ヶ月近く、登校から下校まで、休み時間ももれなくストーキングしておいて、よく言えたもんだ。おかげで毎日怖くて仕方ない。
「あ、先輩、帰るんですか?」
 カバンを手に取った途端、彼女ははじかれたように立ち上がった。どうせ付いてくるだろうと思っているけど、一応、拒む様子は見せておかないと。
「バイバイ。気をつけて帰れよ」
「えぇ~!置いてかないでください!」
 俺の歩調に合わせて急ぎ足になりながら、彼女は一生懸命に付いて歩く。親ガモの後に続く子ガモみたいだ。
 本来なら会話なんか弾むわけもないけど、1ヶ月も付きまとわれたせいかそれなりに2人のペースが噛み合ってしまった部分はあって、傍から見れば俺様彼氏とあざと女子の組み合わせで自然に映るかもしれない。それに、たまには2人で笑ってしまうこともある。怖すぎる。
「じゃあな。明日は来んなよ。絶対、来んなよ」
 俺のマンションの前で念を押す。姉ちゃんに目撃されて以来、家族の中で俺には可愛い彼女がいることになってしまった。否定すればするほど肯定に取られるという恐ろしい現象。だから、怖いって。
「来ます!絶対、来ます!」
 両手を胸の前で握り合わせ、興奮した犬みたいに俺を見上げる彼女。入学してから何人、魔の手に引っ掛けたんだよ。積み上がってく経歴の中に自分も挟まれると分かってて、突っ込んでく男も男だけど。
「じゃ」
 背中を向けてマンションの入口のロックを解除する。ここを突破してきたことはない。俺が中には入ってしまえばおとなしく帰っていく。
「はぁ……」
 エレベーターに乗ると自然にため息が漏れた。
 ガチで困ったもんだ。明日のことを考えると怖くて仕方ない。明日、マンションを出て、彼女がいなかったら。彼女の強い愛情表現を受ける度、俺は怖くて仕方なくなる。喪失の怖さ。彼女の中で過去の1人に積み上げられる怖さ。
 俺の分析では、なびくまでがゲームなんだ。自分のものになったら飽きてしまう。だから、これが最良の方法だと信じつつ、恐怖心は常に抱いている。スリル満点のドキドキは毎日感じてるんだから、吊り橋なんか渡らなくたって大丈夫だ。
 彼女は気づいてないだろうけど、彼女の入学直後、人気のない公園で見かけたことがある。きゅるんとしてない自然な表情に俺は一瞬で惹かれた。ベンチに座る姿勢も余計な力が抜けていて、それから彼女が校内で発揮していく悪女っぷりとは、かけ離れた姿だった。
 あれを引き出せない限り、俺じゃダメなんだろうと分かってる。始まったら終わりが見えるレースに参加するのは嫌だ。
 明日、来るかな、あいつ……。
 考えるとゾッとする。いっそ息の根を止めてほしいような、やっぱり嘘でも一緒にいたいような。万が一、俺が本物になれる可能性……ないんだろうな、今のところ。
 いますように……。そして、できれば明日こそ。
 希望を失わなければ、あながちスリルも悪くないかもしれない。とんでもなく可愛い彼女の顔を思い浮かべながら、俺は明日に向けて気合いを入れた。

《スリル》

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