昔から大事なところでツイてない。幸運と不幸の分岐点で必ず不幸に舵が切られる。そういう運命なんだ。よく知ってる。
だから第一志望校に受からなかったことも、なぜなら受検日の朝から急に奥歯が痛んで涙が止まらなかったせいだということも、初めての親知らずの腫れがよりによって受検の日に重なったことも、取り乱すことなく受け止めることができた。幼稚園の遠足もお誕生会も、小学校の修学旅行も、中学校最後の体育祭も、ことごとく出られなかった自分。自分を慰めるのにも神様を恨むのにも、もう飽きてしまった。ただ淡々と日々を繋げていくだけ。
……ちょっとだけ夢は見ていたけれど。第一志望の高校で、勉強と部活と青春に忙しい毎日なんてものを。いいんだ、夢は所詮夢なんだから。夢と現実は違う。だから面白いんだ。……きっと。
はあ、とため息を漏らす。
こんな寒い日に、ホームで待ちぼうけを食らってるオレ。とは言え、事故による遅延なんて別にそこまで珍しいことじゃないから、取り立てて不幸だと言えるほどのことでもない。
……あーあ。
人生諦めモード、徹底させてるはずなのにな。
ホームの向こうに目を凝らす。アナウンスがないうちは電車が来るはずもないけど、足元を見ていたら涙が落ちてしまいそうで。
嫌な予感がしてたんだ。期待に蓋をして門をくぐった入学式の会場で、彼女を見つけてしまった時。
好きになったら痛い目を見る。打ちのめされることになるから好きになるな。
って、自分を戒めてきたつもりだった。そして思ったとおりにオレは今日、知らない男と手を繋いで歩く塾帰りの彼女を見てしまった。しかも、よりによって、その男はオレの第一志望だった高校の制服を着ていた。
こんなことってあるもんかな。
線路を見ていても無理そうで、オレは天を仰いだ。重暗い空には月すら見えない。
はぁ……
どうせ誰も見てない。涙が溢れるのを諦め、ゆっくりと目を閉じた。その時だった。
ガシッ!
突然の衝撃にオレは半歩ほど横に左足を踏ん張らせ、慌てて右腕に目をやった。
「あ、危ないですっ!」
腕にしがみついた女子が震える声でそんなことを口走るから、近くにいた人達が驚いてオレ達に注目したのがわかる。
「え、な、なに?」
狼狽えるしかできないオレを、女子は真っ赤な顔で、
「だめですっ!」
と咎めた。
「ほんとに、すみません……」
消え入りそうな声で謝る女子に、オレはペットボトルを1本奢ってあげた。びっくりしたけど、悪意があったわけじゃないのはわかったし。勘違いだとわかってからのしおらしい感じがギャップで面白かったから。
「わたし、なんかこういうとこがありまして……ご迷惑おかけしました……」
涙目で俯く様子が可笑しい。この子なりの正義感に弾かれて、瞬発力だけを頼りにオレの腕を掴んだんだと思ったら、ヤバイ奴だと思う気持ちを上回る好奇心が湧いた。いいな、こういうパワフルな感じ。
「確かに落ち込んでたから、そう見えちゃったのかも」
オレがフォローを入れると、女子はブルブルと首を振ってまた自分を責めてから、急にきょとんと丸い目を向けてきた。
「落ち込んでたんですか?何かあったんですか?」
ストレートな疑問。テンポを合わせるのは大変そうだけど、ちゃんと友達とかいるんだろうか。
「うん、まあ。でも、もういいんだ」
目の前の奇妙な現実で胸の痛みもごまかされてる。でも、だからって、初対面の女子とこんなに話すなんて、どうかしてる。
これは夢かな……
「夢?」
間髪を入れずに問い返されてオレはビビった。無意識に言葉に出てしまっていたらしい。
「大丈夫ですか?」
女子の訝しそうな表情が可笑しくて、自分が笑顔になったのがわかった。調子が狂う。でも、悪い気がしない。この分岐点は不幸に向かっていない気がする。この子のもつ圧倒的なパワーは、オレが恐れる不幸なんかものともせずに爆走していきそうだ。どこを選んでも結局は幸福にゴールできる、そんな強さを感じる。それはオレに決定的に足りない要素に違いない。
「大丈夫。現実だから」
「え?」
ますます眉間のシワを濃くする女子。オレは構わずに続けることにした。この子になら素直に言っちゃってもよさそうな気がしたから。勝手ながら。
「オレ、夢と現実なら夢がいいと思ってたんだけど」
「え?夢と現実?なに、急にどうしたんですか?怖い怖い!どっち系?この話」
女の子は明らかに焦りながらも笑顔になった。いいな、この感じも。
「怖い?オレは現実もけっこういいなって思ってるとこ」
「え、怖いです!あの、怒らないでくださいね?でも、ちょっと、変っていうか。言われません?変わってるって」
「言われない。そっちこそ、言われない?」
「失礼ですよ!助けようとした人に向かって。……まあ、たまに、言われますけど……」
自動販売機の前で始まったズレた会話。切られた運命の舵。もう運命を感じてるけど、たぶん間違いない。今までの分岐点がここを目指していたとしたら、決して悪くない進路だ。そう思わせてくれる世界が、この先に待ってる気がする。
やっと電車が動き始めたというアナウンスが響く中、ズレながら妙に噛み合う会話は途切れることなく続き、オレは新しい進路に力強く1歩を踏み込んだ。運命というものに、生まれて初めて感謝しながら。
《夢と現実》
日が暮れるのがすっかり早くなった。まだ退校時刻までは間があるのに、古めかしいレンガ造りの部室棟も、木立に囲まれた中庭も、姿形を濃い闇に溶かしている。
本当なら人気のないこんな闇の中を歩きたくはないのだけど、今はむしろ誰かに見られては困る。闇に紛れてこっそりと動かなくてはならないから、怖さは二の次になっていた。
もっとも、1人じゃないという心強さもある。私の半歩前を歩く葛城は、大所帯の男子バレー部のレギュラーメンバーだ。何かあったらきっとどうにかしてくれるだろうという、勝手な信頼感がある。背の高さだけではなく、たぶん葛城はそういう人だという勝手な思い込みによる信頼感だ。
「……こっち」
葛城が少し身を屈めて振り向いた。囁き声が降ってきた方を見上げたけれど、葛城の顔も闇に溶けている。私は表情を読み取ることを諦め、小さく頷いた。
「ここのロッカー、……ほら、やっぱり」
校舎裏から回り込むと、体育教官室に直結する裏口がある。葛城は軒下に並ぶ下駄箱のようなロッカーの1つを開け、中から紐付きの鍵を取り出した。
「……開いた」
葛城の声は少し高揚しているように聞こえる。偶然、ここに鍵をしまうところを見たことがあるらしいが、こうして実践に役立てたことはなかったんだろう。
「すごい。ありがとう」
私は素直に感動を言葉にすると、誰もいないことがわかっている室内に潜り込んだ。今日は体育科の研修があるらしく、昼から体育教官室が留守になるから、それまでに課題を机上に提出するようにと念を押されていた。体育当番だった私がクラス分を揃えて昼前に出しておいたのだけど、帰ろうとしたら机の中から葛城の課題が出てきたのだ。課題を集めた時、「机の上に出して」と声をかけたら隣の席の葛城が真っ先に出してきて、それを受け取ったのは覚えているから、……つまりどうも自分の荷物と混ぜてしまったということになる。これは成績に占める比重が大きい提出物だということもあり、私に謝られた葛城は困っていた。もちろん体育教官室にも言ってみたけれど既に閉まっていたし、明日、私と葛城が連れ立って説明したところで、おそらく信じてもらえそうにない。どうしたものか……。罪悪感に駆られる私に、葛城は少し考えて、この計画を伝えてきたのだった。
目立たないよう、暗くなりきるのを待ち、部活を少し早く抜けてきた葛城と、図書室で勉強していた私は玄関で合流した。そして、今に至る。
課題を出した時、研修直前の先生は急いでいて、受け取ったノートの束をドンと棚の上に乗せただけだった。きっとチェックは明日に回したはず。だから、葛城の課題を静かに混ぜておけば、……。
「わっ!」
非常灯しかない室内の暗さに目が追いつかず、何かにつまずいた私は膝をついて転んだ。
「大丈夫?待って、ライトつける」
葛城が背後からスマホのライトを照らしてくれた。その光を頼りに、乱雑な室内を進んでいく。あった、あの棚だ。やっぱりチェックした形跡はない。私は心臓を高く鳴らしながら、葛城の課題を滑り込ませた。
「……ありがとう。ごめんね、こんなことになっちゃって」
「いや、俺も適当に渡しちゃったから」
やっぱり闇に溶けたままの葛城の顔。教室で言葉を交わす時の顔を思い浮かべた。特別カッコいいわけじゃないけど、溌剌とした雰囲気のある顔をしている。それでいて、物腰が柔らかく、どちらかと言うとゆったりした口調で話すのが心地よい。以前から好感は抱いていた。ただ、住む世界が違う感覚はあって、私の抱く感情も純粋な憧れに近い認識だった。こんな特別な接点があったことは、きっと思い足す度にくすぐったい、一生の思い出になるだろう。そんな関係性。
「わっ!」
余計なことを考えていたせいだろうか。戻る足がまた何かに引っかかり、咄嗟につかまろうとした手が派手に机の上のペン立てをひっくり返してしまった。バラバラと散らばったペンの上に、体幹が堪えきれず腰から転がる私。何これ、恥ずかしい……。
「ちょ、大丈夫?」
葛城は靴を脱ぎ捨てて私に駆け寄ると、膝をついて腕を差し出してきた。
「あー、うん……いたぁ……」
後ろ手をついて体を起こすのを葛城は手伝ってくれ、それからライトで私をぐるりと照らしてから、ふっと安心したように吐息を漏らした。ライトの明かりが溢れ、微かに葛城の顔が浮かび上がる。優しそうな笑顔。……。
「あ、……あーあ、片付けないと」
急に別の恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じ、私は散らばったペンを拾い始めた。黙って手伝ってくれる葛城の腕が揺れる度、光と闇の境界線も揺れ動く。不規則に光の世界と闇の世界を行ったり来たりしながら、私は葛城の膝下に転がった最後の1本に手を伸ばしかけ、……躊躇うように引っ込めた。まさか、そんなはず。
闇に下がった私の手の代わりに、葛城の長い指が光の中に入り込む。そしてペンの上を通り過ぎ、闇の中の私の手を掴んだ。
「え……」
反射的な呟きのほかは何も言えず、ただ葛城の指の温かさを感じていた。
「……いや?」
葛城の声は優しかったけれど、少しばかりの苦しさを帯びていた。光が、また揺らぐ。徐々に闇が広がり、やがてコトリと小さく硬質な音が響くと、私達の姿はほぼ闇の中に溶けた。
「好き、だった。ずっと」
「え……」
「……春、体育で、女子の誰かが倒れた時、真っ先に近寄って看病してただろ?」
……あったっけ、そんなこと。記憶を辿り、やっと思い出す。そんな小さなことで?
「困ってる人がいると、いつもすぐ助けに行く。誰にでも同じ。だから、すごいなって思ってて。隣の席になったら、話してて、なんか落ち着くっていうか。俺、こう見えて、激しい会話の感じがあんまり好きじゃないんだけど、そういうの、ないから。言葉もきれいだし、話す内容も和むって言うか……いいなって……」
葛城の告白。不思議と凪いでいく心。闇のせい、だろうか。住む世界が違うとわかっているのに、なぜかそんなことは小さなことに思えてくる。
「……俺じゃ、だめ?」
葛城は闇の中で動かない。手の力を強めることさえしない。眩しくないこの世界で、私は葛城と重なる鼓動のほかに、同じように揺れる波長を感じ取っていた。和む。確かにそう。ゆっくりと口を開く。
「……だめじゃ、ない。ありがとう」
私はそっと指先に力をかけた。
「でも、もう少し……」
その先をどう繋げていいか迷うと、葛城はぎゅっと私の指を握った。
「もちろん。待つから」
葛城はスマホを拾い上げ、ペン立てを戻した。やっと光が2人の姿を浮かび上がらせた。照れくさい笑みを交わしてから、私達は手を取り合って立ち上がった。光と闇の狭間で、穏やかに揺れ動く思いを抱えながら。
《光と闇の狭間で》
キラキラと透明度の高い煌めきを放つ雫を1つ、また1つとこぼしながら、ニコリと笑みを讃えるあどけない顔。俺は完全にテンパったまま、
「あ、あのさ、……泣かないで。ね?」
と何度目かの同じセリフを繰り出した。それに対する返事もまた同じ。
「はい。泣いてません。大丈夫です!」
……いや、めっちゃ泣いてるけど……。指先で頬を払っても、次から次と一定の間隔で雫が落ちてくる。
ヤバい……。
何がヤバいって、もちろん人目もそうだけど、それ以上に……胸が鷲掴みにされたような感覚がして……これはヤバい。
「伝えられたので、満足です。聞いてくれて、ありがとうございました」
行儀よくペコリとお辞儀をした彼女は、上げた顔で一際強い笑みを作り、えへへ、と字幕がつきそうな声を発した。
自慢じゃないけど、告られることはそんなに珍しいことじゃない。だけど、いろんなパターンを経験してきた中でも、これは、……クる。
「こっちこそありがとう」
そんな俺の定型文的な返しに力強く頷き、彼女は笑顔を崩さないまま回れ右をして走り去っていった。微かに残る、爽やかな香り。柔軟剤かなにかだろうか。特段変わった香りでもないのに、俺は惜しむように胸一杯の深呼吸をした。
彼女がいるんだ。
その一言で突っぱねてしまえば後腐れなく終わる、いつもの流れのはずが、……ヤバいな。コロコロと高く響くような声も可愛かったし、緊張をやり過ごすためにぎこちなく前髪や頬に触れる仕草も可愛かった。それに、なにより、涙に濡れた笑顔が……。隣を向いて、あの笑顔が俺を見上げていたら、どんなに可愛いかなと想像すると、ひたすらに惜しい。
裏切るつもりはないけどさ。デミソースのハンバーグもトマトソースのハンバーグも両方好きなのは悪いことじゃないのに、なんで彼女は1人って決まってんだろうな。
浮気してお母さんに引っ叩かれたお父さんを思い出す。死ぬほど謝ってたお父さんを軽蔑してたけど、……あぁ、お母さんごめん。俺、なんかちょっとわかっちゃったかも。
フワフワする足を校舎に向ける。しばらく歩くと、2階の窓に見慣れた顔を見つけた。まだ俺に気づいてないらしい彼女を見上げながら、さっきの彼女を思い出す。
もし、今の彼女と別れてさっきの彼女と付き合い始めたら……
お互いを知っていって、距離を縮めていって、途中にはいろんな誤解や嫉妬があったりして、そうして1つ1つの感情を積み重ねていくんだろう。甘い胸の痺れとか、苦しい痛みとか、もう知っていることをまた最初から味わい直してさ。それはきっと楽しいことに違いない。
彼女の真下辺りで足を止める。あまりに気づかれないことに苦笑いが込み上げ、やがて俺は、
「おい!」
と声をかけた。窓枠に乗せた両腕に顎を乗せる形で俺を見下ろす彼女。
……
しばらく見つめ合った後、俺は1番近くの入口から校舎に足を踏み入れ、そのまま階段を駆け上った。そして、窓の外を見つめたままの彼女の隣に並んだ。
「……泣かないで」
俺がそっと頭を撫でると、それが合図みたいに彼女は腕に顔を押し当てて肩を震わせた。
「断ったよ。安心して」
俺の言葉に、ふるふると首を振る彼女。
「ちょっと悩んだでしょ」
こわ、と鳥肌を立てながら、即座に否定する。それをまた否定されるという不毛なやりとりを続けながら、俺は彼女と過ごしてきた時間を思い返していた。積み重ねられてきた1つ1つ。そうして少しずつ強固なものになっていった、2人の絆。大事にしたいって思ってる気持ちに嘘はない。簡単にハンバーグなんかと同列に語ることはできないんだ。
お父さん、やっぱりあなたは間違ってました。
「泣かないで」
何度でも言おう。彼女が笑ってくれるなら。こうして2人の絆は少しずつまた強くなっていくはずだから。
《泣かないで》
さっきまで冷たい雨が叩きつけていた道路にキラキラと反射する光たち。誘われるように目を上げると、街を彩るイルミネーションの灯りがあった。
そうか、もうそんな季節か……
長かったのか、短かったのか。7年半という月日はどうにも中途半端すぎて、自分の人生の半分という別の解釈をしてみても比重がよくわからない。
「それじゃあ、もう行きな」
モトキさんは腕時計をチラリと見ると、僕の背中にそっと手を添えた。
冬のはじまりと共に、僕とモトキさんの関係は全て終わる。凛とした空気の冷たさや、吹きつける乾いた風、クリスマスに年越しにバレンタイン、どっちかと言うと好きな季節だった冬を、これからは小さな胸の痛みを伴いながら迎えなければならないなんて。
「……」
少し感情的になってしまった僕の頭を、モトキさんは優しく撫でてくれた。出会った頃はモトキさんの胸くらいまでしかなかった僕の身長も、すっかり伸びてモトキさんにほぼ並んでいる。やっぱり7年半は長かったんだ。
「パパなんて呼ばなくていいよ。モトキさんでいい」
そう言って握手を求めたモトキさんは今よりずっと若くて、僕はこんな若いモトキさんがママと夫婦になったことが信じられなかった。よく知らないけどママに隠し財産があるんだろうかとか、モトキさんは騙されていないだろうかとか、最初の頃は始終心配していた。今日からモトキさんが家に帰ってこないかもしれないという不安も常に抱えていた。まあ、それは現実になったわけだけれど、予想した中では最も穏やかな別れだった。ママと並んでちゃんと報告してきたとき、僕は意見を求められてただ一言、
「僕とは終わらせないで」
とモトキさんにお願いをした。忙しいママに代わって家のことをよくしてくれたのはモトキさんだし、休みの日には遠いところまで連れていってくれもした。学校の行事も面談も堂々と来てくれて、悩みも聞いてくれて、アドバイスもしてくれて、バカ話で大笑いして、一緒にバイクをいじって、……本当のところはわからないけど、僕に対する愛情は十分に感じていたんだ。
「あったりまえだろ。友達なんだから」
あの時、モトキさんは僕にグータッチの拳を向けてきた。小さい頃、2人で作ったハンドシェイクだ。簡単な動きが揃うと、心が通じたようで気分がアガる。
僕はあの時のお返しのように拳を差し出した。力強いハンドシェイクを交わす。それから昔みたいに顔を合わせ、へへ、と笑い合うと、僕たちは別れた。僕は電車に、モトキさんは街に向かって歩を進めていく。
終わりじゃない。その約束を反芻すると目の奥が熱くなる。これから新しく始まる関係にモトキさんは友情という名を付けたけれど、そんな脆くて不安定な鎖では、僕たちを繋ぎとめることができないだろうと知っているから。モトキさんに新しい家族ができたら。僕が高校生になって、学校に来てもらえる機会がぐんと減ったら。ママが再婚したら。……続くわけがないんだ。僕たちの友情は。
今までありがとう、モトキさん。
言いたくて、言えなくて、結局飲み込んだままでいる一言。言えないままでいいんだろうか。……
点滅するイルミネーションの光が、ぼやけて滲んで見える。来年、同じように滲んだ光を見るのかと思ったら、僕は急に胸が痛んだ。
はじまる前に、ちゃんと終わらせないと。……モトキさんに伝えないと。
立ち止まり、踵で回って振り返る。雑踏の中でモトキさんも同じように振り向いていた。目が合う。僕は途端に溢れる思いと涙を抑えられなくなった。頭の中を駆け巡る7年半の思い出に背を押され、僕は大きく息を吸った。
「モトキさん……っ!」
う、う、と嗚咽が言葉を奪いそうになるのを、必死で押しとどめる。僕は叫んだ。
「今までありがとう!最っ高のパパだったよ!」
俯いて泣きじゃくる僕のもとに、あっという間に足音が近付いて、僕は強く抱き締められた。いまや同じくらいの身長のモトキさんに。
「ありがとう……」
モトキさんの声……。初めて聞くような、この震えた声も、苦しいくらいのハグも、頬を濡らす涙も、僕は忘れないだろう。終わりとはじまりの狭間で、ひたすらに思いを通わせたこの時を、冬が訪れる度に思い出すことだろう。
願わくば、モトキさんとの友情を積み重ねた1年を振り返る時間でありますように……。
僕は願いを繋ぎとめるように、強く強くモトキさんのセーターにしがみついた。
《セーター》
《夫婦》
《愛情》
《終わらせないで》
《冬のはじまり》
それは突然の出来事だった。思い思いにざわついていた休み時間、栗山が叩いた机の音はその雑音を一発で鎮圧した。
「うるせーよ!」
怒鳴り声に私はビクッと身を縮めた。栗山はいつもおどけていて、怒っても笑いに変えるようなやつだから、こんな姿は見たことがなかった。それになにより、これは私に向けられた怒りだということが、背中に冷たい風を吹かせた気がした。今まで私が栗山を本気で怒らせたことはない。だから調子に乗っていたんじゃないかと言われたらそれまでだけれど、……今はただ、数学の解き方を聞いていただけなのだ。
「なに、いきなり……」
恐る恐る聞きながら、妙に腹が立ってくる。なんなの、ガチで。意味わかんない。しかもみんなが見ている前で。恥をかかされた、という思いが、栗山を怒らせたショックを上回っていく。
「わかんないから、聞いただけじゃん!」
私も手元の問題集を机に叩きつけた。こえー、と呟く声がする。こんなことで私が悪く言われるようになるのは耐え難い。
「なんなの、急に怒ってさ!」
自分の無罪を表明するかのように声を張った。すると栗山は立ち上がり、つかつかとドアの方へ歩いていった。逃げるの?と引き留めたい気持ちが半分、このまま罪を背負って出ていってくれたら楽だと思う気持ちも半分。相反する思いに逡巡する間を突いて、栗山は振り向いた。私を睨む顔が悲しそうに見えたのはほんの一瞬。
「しつけーんだよ!」
すごい勢いで閉められた引き戸のドアは、跳ね返ってまた開いた。
涙は興奮からくるものだった。でも、友達はみんな、私を慰めた。栗山サイテー、と一方的になじる言葉が連発される。本当になにがなんだかわからない。
どうすればいいの?
心に浮かんだ言葉を反芻し、混乱しながらも思い出した。栗山がキレる直前の、私の最後の問いかけは、
「どうすればいいの?」
だった。
薄ら寒い会議室で、私と栗山は先生達に囲まれながら俯きがちに会話をした。
「……イライラしてて」
栗山は、そう言い訳をした。なににイラついていたのか、いつからイラついていたのか、そういった肝心なことは全て「よくわからない」と逃げたから、結局全てがまさに「よくわからない」。とりあえず思春期の不安定さが原因と結論づけられ、栗山は先生にしっかり諭されてから放免となった。お互いに言いたいことはなにもない、というのが表向き。私達はちがはぐのままそれぞれの居場所へ戻り、言葉を交わすことも顔を見合わせることもなく1日を終えた。
今年同じクラスになってから、栗山とは仲が良かった。むしろ他の女子より近い位置にいる気がしていたから、こんな形で離れるのは悔しい。でも、これはもう、だめなやつかもしれないな……。
盛りのイチョウも見上げることなく、とぼとぼと帰路を歩く。こんな日に限って一緒に帰る人もいない。深まる秋がどんどん気持ちを暗く染めていくようで、私はため息をついた。
公園の角を曲がり切ろうとした時だった。
「下田……」
ぶっきらぼうな呼び声に、私は足を止めた。
「……なに」
びっくりしたことも、待ち構えていてくれたことが嬉しかったことも、そう感じたのは栗山の表情が明らかに凹んでいたからだということも、私は表に出さなかった。意地?よくわからない。
「……ごめん」
小さく頭を下げる栗山。さっき、会議室で、すごく嫌そうに謝ったばかりなのに。ちょっと笑える。
「……いいよ、もう」
本当にどうでもいいと思った。これでまた元に戻れるなら、それでもう全てをチャラにしてやっていい。イラつくことは誰にだってある。たまたま、タイミングが悪かったんだ。いいよ、栗山。
だけど栗山は、公園の柵に沿うようにズルズルとしゃがみ込んだ。
「下田、よく俺に聞くじゃん。どうすればいいって」
「……そんなに?」
なんとなく隣に移動する。栗山は、うん、と頷いた。なにこれ、可愛いかも。
「なんか、嬉しいんだけど、いつも。でもさ、」
少し言い淀んでから、栗山は顔を背けた。
「わかんなかったんだ、あの問題」
……は?
「わかんねーって言うの、なんか無理で」
「負けず嫌い?」
今度はちゃんと笑った。栗山はさらに顔を背けた。
「俺、どうすればいい?」
知らないよ、そんなの。可愛すぎる反応に私はただただ笑った。すると栗山は怒ることもなく、斜め上に私を見上げた。
「下田には、よく思われたい」
「……思ってるよ」
「俺、どうすればいい?」
笑いでごまかす私。だけど、いつまでもそのままってわけにはいかない。
「いいよ、そのままで」
やっとそう返すと、栗山は恥ずかしそうに、これまたやっと、私を見上げた。イチョウの葉がくるくると1枚、2人の世界を彩るように舞い落ちていった。
《どうすればいい?》