後ほど編集予定……
《宝物》
「な、見て見て」
佐藤くんが得意げに見せてきたのは、赤鼻が光るトナカイだ。おお、と男子たちからは低いどよめきが起こり、女子たちからは高い歓声が上がった。
「褒めて褒めて」
ドヤ顔がちょっと憎たらしいけど、上手いのは事実だ。思う存分得意になってもらおう。完成度の高さに気を良くした私は、改めて周囲を見回した。幸い、飽きた様子の人はいない。
「なあ、決勝どこ?」
「3年だろ、どうせ」
たまに繰り広げられる、クラスマッチについての会話。でも誰も大した熱意はもっていないらしい。それもそのはず、1年生はどこもさっさと負けてしまったから、おかげで皆が暇を持て余している。よほどの理由がなければ、混み合うギャラリーで先輩達を押しのけて観戦しようとは思わない。教室でお菓子をかじりながら適当に過ごすほうが、よほど気持ちいい。
「うわ、足立、エグ!」
誰かが私の手元を覗き込んで声を上げた。それが合図だったかのようにワッと近くの人が集まり、それにまた惹きつけられて人の輪が厚くなる。
「なにこれ、なんで3次元?」
「ああ、これ?簡単だよ。組み立てるだけだから」
私はパーツを1つ外してみせた。へえー、とか、おおー、とか、思い思いに感嘆の声を上げるクラスメイト達。今度は私が得意げになりながら胸を張る。と、1人だけ自分の席から離れない、筋肉質な背中を見つけた。皆がお互いの作品を見せ合う中から抜け出し、後ろから覗き込んでみる。
「……鉛筆?」
「うぉ!」
気配に気づかないほど集中していたのか、筋肉質な背中はビクッと揺れた。その拍子に、手元のピンセットがつかみ損ねたビーズが机にコロリと転がる。
「ちげーよ」
間違えられたのに、なぜか白井は少し嬉しそうに笑った。
「……なに?」
問いかけながら考える。形は、鉛筆と言うよりはガラスペンに近い。でも、白井がガラスペンを知っているとは思えない。……フードを被った人、とか……?いやいや、それじゃ不審者っぽい。……なんだ?
「まだ完成してねーから」
白井はまた作業に戻った。なんとなく後ろから見守っていると、ぽつり、ぽつり、人が集まり始める。
「なんじゃこりゃ」
「あれじゃね?秘密結社の人」
「あれ、白くないっけ?」
サッカー部の仲間は容赦ない。斜め上の予想をしてケラケラ笑っている。
白井は適当に相手をしながら、赤一色の本体からビーズを抜き始めた。崩すのかと思っていたら、抜いたところに透明のラメのビーズを選んで埋め込んでいく。なるほど、文字を入れたわけか。でも、それ……。
「HB?鉛筆?クリスマス関係ねーじゃん!」
どっと笑いが起きた。さっき鉛筆じゃないと言った白井は、完成したのか、細心の注意を払ってプレートを持ち上げた。
「あ、アイロンする?」
教室の隅のアイロンコーナーと化した机に目を向けると、白井は嬉しそうにプレートを持っていった。サッカー部がそれに続き、皆でワイワイ楽しそうにアイロンをかけていく。私はそれを見ながら、やれやれ、と心の中で呟いた。
保健室前に飾るクリスマスの飾りなんだけど……。でも、皆も面白半分で乗り気だとは言え、委員会の仕事を手伝ってもらってる形になるわけだし、まぁいいか、鉛筆でも。プレゼントで鉛筆をもらう子だって、世界中にはたくさんいるはずだ。
「沙希、見て見てー、サンタ!」
不意に呼ばれて振り返る。友達が捧げ持つサンタは後ろ姿で白い袋を担いだ力作だった。私はすぐに心惹かれ、そのまま友達の輪に戻っていった。
クラスマッチが私達の知らぬ間に終わった頃、作品の山を1つ作って作業は終了した。
「皆、ありがとうー!保健室前に下げるから、見に来てね!」
空き箱に収納しながら、白井の鉛筆がないことに気がついた。もしかしたら気に入って自分でもらったのかもしれないし、クリスマスの雰囲気に合わないことがわかって取り下げたのかもしれない。あるいは、アイロンが上手くいかなくて潰れてしまったのかも。大して気にすることなく箱の蓋を閉じた。
ホームルームは簡単に済んだけれど、飾り付けをするほどの時間はない。せめて借りた道具だけでも返そうと荷物をまとめていると、ロッカーに私物を取りに来たらしい白井が、なあ、と声をかけてきた。
「なに?」
「手伝うよ、それ」
アイロンビーズセットのプラケースが1つと、アイロン、アイロン台、作品が入った箱。移動距離は大したことがないけれど、1人で運ぶのは確かにちょっと大変だ。ありがたくお言葉に甘えることにし、私と白井は保健室まで斜め前後に並びながら歩いた。2人きりになったことはない気がするから、なんだか少し緊張する。こんなに肩幅広かったっけ。背も意外と高いんだ。髪、くせっ毛でちょっと可愛いかも。密かに観察してほくそ笑む。それにしても、あの鉛筆どうしたんだろう。2人きりだと無性に気になる……。
「あー、ありがとう。この辺でいいよ」
保健室横の掃除用具室に荷物を並べ、私はそのまま部屋を出ようとした。
「足立」
背後から呼び止める、白井の声。ギュッと胸の辺りが反応する。え、なに、……。
ゆっくり振り返ると、白井はウィンドブレーカーのポケットに手を突っ込み、あの鉛筆を取り出した。
「これ、もらって」
「え?」
あまりに思いがけない展開に、瞬きを連打した気がする。どういうこと?戸惑う私に、白井は鉛筆を押し付けてくる。
「あげる」
いりません、って言ったら失礼かな。豹変して怒り始めるかもしれないし、ここはおとなしくもらっといたほうがいい感じ?あ、それとも、私個人にと言うより委員会にくれるつもりなのかも。さっき入れ忘れたから、とかで。
頭の中でいろいろ考えていたら、白井はポンと鉛筆を投げてよこした。反射的に受け取ってしまい、妙に失敗した気持ちになる。
でも白井は、無邪気な笑顔で私の手の中の鉛筆を指さした。
「なんだと思う?」
「……鉛筆」
「だからぁー、違うって。形が違うじゃん」
「いや、だって、HBって」
白井にも見えるように持ち直すと、白井はドヤ顔になった。
「それ、キャンドル」
……あ、あー。なるほど。
言われてみれば。キャンドルも炎も赤だから、わからなかった。でも。
「え、じゃあ、HBは?」
素直な疑問をぶつける。白井はさらにドヤ顔になった。
「ハピバ」
……あ、あー。なるほど。なんでDを略したかな。教えてあげたい、けど、まぁいいか。
「キリストの誕生日だから?」
呆れた声にならないように気を付けた。白井は頷き、じゃあ、と唐突に別れの挨拶をした。
「あ、うん。じゃあね」
変なやつ。
手の中の鉛筆……じゃなくてキャンドルの扱いに少し困り、飾りの箱の中にしまおうかと考えていると、部屋を出ていきかけた白井が引き戸に手をかけたまま振り返った。平静を装ってるのが伝わってくる。なんなら、心臓の音まで聞こえそうだ。いや待って。どうしたの、白井。だって今まで私達、そんなにしゃべったことすらなかったじゃん。いやいやいやいや、ないでしょ。それはないから。
パニクる私に構わず、……違うな、きっと白井は白井でそんな余裕はなく、ただものすごく早口に、
「あ、そう言えばさ、足立ってクリスマスが誕生日なんだろ?じゃあそれ、足立にハピバってことで」
と言った。
嘘でしょ。告るにも、もうちょいマシなシチュがあるでしょ。くれるものだって、こんな中途半端な……引くでしょこれじゃ。これで喜ぶと思われてたとしたら、ちょっとなんていうか……。いやでも待って。別に告られてはないか。じゃあこれは、ただ単にお近づきの印、的な?え、どういうこと。どうしたら。
「じゃ!」
白井は全てをぶったぎるように去っていった。ぽかん、というオノマトペが頭に浮かぶ。
普通に考えたらあり得ない。だけどなぜか脳内に流れ始めるクリスマスソング。これは何かの魔法かもしれない。正気の沙汰じゃない。なのに、はっきり感じる啓示のような予感。私はきっと、白井を好きになる。もうすでに、運命は動き出している。好みのタイプでもなんでもないのに。話したこともほとんどないのに。でもわかるんだ。私はきっと、白井を……。
気がつくと私は、白井お手製のキャンドルを包む手を胸に当てていた。メリークリスマス。少し早いプレゼントをありがとう。今年のサンタからのプレゼントは、過去一不思議なものになりそうです。
※クリスマスはキリストの誕生日ではありません。
《キャンドル》
白い息を顔の周りに纏わせながら、翔真は急いでやって来た。
「ごめん、遅くなった!」
細く溶けてしまいそうな両の目が、いかにも優しい翔真らしい。こんなに細めて周りが見えないんじゃないかと、本人に尋ねたことがある。その時も翔真は目を細めていて、そのまま、
「見えるよー。ほら、佐々木、今ちょっと首傾けた」
と私の動作を指摘した。私がふざけて変顔をしたりウインクしたりするのを、翔真は細い目で嬉しそうに見てくるので、面白いのと同時に少し照れた。こんなに近くで男子にずっと注目されるのは初めてだったから。
少しずつだったんだと思う。これっていうドラマも何もなく、ただ気付けば翔真を目で追っていた。言葉を交わす時間が楽しみになった。
「緒方先生が、なかなか解放してくんなくて」
翔真は言い訳しながら私を校門の方へ促した。うん、と返事をして従う私。振り向かない。そんなことはしないんだ。
会話はいつも通り、他愛もないことばかり。隣に並ぶことに慣れ、名前で呼び合うことに慣れ、手をつなぐことにも慣れ……。
秋祭りにも2人で行った。頑張って浴衣を着た私が手を振ったら、翔真は真っ赤になって1歩下がった。それが初めて手を繋いだ日。今のところ、翔真との1番の想い出だと思う。
想い出……。
「ねえ、私との1番の想い出ってなに?」
ウザいこと聞いてるな、と自分でも思う。何を試しているんだろう。そして翔真は傾けた首に手を当てる。
「想い出?えー、何だろう。ちょっと待って」
選んでいるのか、思い出せずにいるのか。
そんな疑いの眼差しを向けたことに自分で驚く。ダメだって。
壊したいわけじゃない。なのに、頭も心も言うことを聞かないんだ。
「んーとね、やっぱ、あれじゃない?付き合った日」
人差し指を立てて、恥ずかしさをごまかすようにコミカルに言った翔真に、私は微笑み返した。
付き合った日がピークか。じゃあ、今は。
そんな呟きで胸が痛んでることなんて、翔真はきっと知らない。ヒュウ、と鳴る風に混じって、後ろから微かに笑い声が聞こえた。風を受けたふりをして、一瞬だけ目を閉じる。
1番ならいいと思ってた。翔真の人生を共有した時間の長さは叶わないけど、頂点が自分なら、裾野がどれだけ広くたっていいと思ってた。
だけど……。
醜さを自覚しながら、私はついに振り返った。
「あれ?牧野さん?」
後方を歩いて来る数人の影。翔真は振り向く前から気まずそうにして、振り向いてからはさらに気まずそうに咳払いをした。
2人の人生には10年も共有してきた時間がある。たくさんの想い出も。分かっていたことだ。それでも私を選んでくれたことが嬉しかった。なのに、翔真と時を過ごせば過ごすほど、私は2人の歴史に潰されそうになっていく。私の知らないたくさんの想い出に、勝手に白旗を上げたくなってくる。
「あ、ほんとだ」
細めた目を開けて、翔真は前に向き直った。
足音だけに包まれていく。もう、無理なのかな。
「あのさ……」
何かを言いかけた翔真は、ギリギリのところで飲み込んで、また目を細めた。他愛もない話が再開する。だけど、私達はもう、この瞬間が何でもない想い出として消えていくことを知っている。
濃くなっていく闇の中、私達はずっと何でもない話を消費しながら、ひたすらに時を引き延ばそうと歩を緩めることしかできずにいた。
《たくさんの想い出》
北海道に輝く雪のマーク。とうとう今年もこの季節がやってきた。明日の朝の記録的寒さを予報する画面を見上げていたら、ガラガラッと勢いよく入口の引き戸が開いた。一直線に俺の隣の席に駆け込んできた上下黒の体には、ピンクのラインが入った頭が乗っている。
「ピンクかよっ!」
思わず笑ってしまった。ワンシーズン続く戦いと、一般的な学生生活から離れることへの決意表明みたいなものだけど、今年はピンクか。
「似合うっしょ」
鼻にシワを寄せてクシャリと笑う顔には目立つホクロが3つ。なんか星座みたいで気に入ってる。調子に乗せそうだから言わねーけど。
「この世界でこれほどピンクが似合うのは、お前かフラミンゴくらいだな」
俺の憎まれ口にも、くくっと笑うマイカ。そうかそうか、ご機嫌か。
「おー、マイちゃん。カッコいい!」
物音を聞きつけたオヤジが奥から顔を出す。マイカは染めたばかりのピンクを指でつまみ、得意げに宙に舞わせた。ふぅ、とカラーリングの匂い。
「食ってく?」
「うんっ!味噌!」
「はいよー!腹一杯食ってけ!」
今は昼の休憩時間だけど、オヤジは快くマイカのために味噌ラーメンを作り始めた。雑談で盛り上がる2人。昔からこの2人はウマが合う。
「明日、出発前にまた来るよ。ママとパパも」
「おっけ。お待ちしてまーす!」
俺はさっき、醤油ラーメンと焼き餃子を食ったところだったけど、オヤジは俺にまた焼き餃子を出してきた。こんなことしなくたって俺はもう逃げねーよ、という文句は飲み込み、おとなしく箸を割る。
「いただきます」
マイカの前にも大きなラーメン丼が置かれる。まさかの大盛り。太らせたらまずいと焦った俺は、手を伸ばして子ども用の取り皿をゲットした。
「イェーイ。腹減ってたんだよね」
「えーっ」
ムウッと頬を膨らませるマイカを無視して、新しい箸を割る。大盛り分の麺をきれいに取り除いて、フフンと笑ってみせた。成長期の中学生男子ですから。こんくらい余裕です。
「オリンピックでメダル取ったらさ、マイちゃんのサイン飾るから。ここ。空けて待ってるから。頑張ってよ」
俺達がいるカウンターの真上を指さしてオヤジは笑った。前は冗談として笑えたけど、今は少しの緊張感を伴うオリンピックという単語。まあ、まだまだ全然なんだけど。でも、全く可能性がないってわけじゃない。そんな立ち位置。
「オリンピックかー!」
マイカは色紙1枚分ほど空けられた場所を見上げて照れくさそうに笑った。オリンピックより欲しいタイトルがあることも、マイカは結果を出すより今が楽しいだけなんだってことも、オヤジのような一般人にはなかなか分からないところなんだと思う。だけど素直に期待に応えようとするマイカは、やっぱりトップ選手にのし上がる素質がある。
「アキは、初戦決めた?」
麺をすすりながらだから、マイカの言葉は不明瞭だった。それを理由に聞こえないふりをしても良かったけど、俺は麺を飲み下してから地名を告げた。
「いいね!ファイティン!」
ファイティンってなんなんだ。フッと吹き出す。マイカと違って俺が出るのは国内のローカル大会みたいなもので、勝ったところで世界に繋がるわけでもなんでもない。だけど、昨シーズン1つも滑らなかった中学生の復帰戦なんか、どこだっていい。それに、俺は確実にワクワクしてる。ただ滑れるということに。
滑らなくなった理由を俺は誰にも言わなかった。整理がつかなくて俺自身にも正しく理解できない思いを、不用意に言葉にすることで決めつけたくなかったから。両親や、小さい頃から俺を連れ回してくれてたマイカのオヤジ、お世話になった大人の人達、それから仲間、先輩。いろんな言葉を貰った。俺が滑れるように、あるいは滑らない人生を選べるように。皆が気遣ってくれてた。ありがたかったけど、どれもが重くて苦しくて、受け止めきれずフラフラと逃げて漂ってた俺に、マイカはたった1言、
「冬になったら、きっと」
ってクシャリと笑った。昨シーズン、マイカが俺のことで掛けた言葉はそれだけ。実際には冬が過ぎて春が来て、夏が来ちゃったんだけど。冬に向けた準備が始まる夏、俺はまた動き出した。なんでなのか、やっぱり上手く言えないんだけど。
マイカは何も聞かなかった。ただ一緒にトレーニングに励み、いつもいつも冬の話をしていた。
「冬になったら」
マイカの口から何度聞いただろう。その言葉に支えられて俺は今日までやってこれた。
冬になったら、輝く雪の上を颯爽と滑るマイカが見れる。俺はその姿を目に焼き付けながら、あの硬い雪にエッジを立てるんだ。そして、鳥肌が立つほど高く、青い空に向かって飛ぶんだ。
「……なに?」
ふふふ、と声を上げた俺をマイカが不思議そうに見た。
「内緒」
ごまかしたら、マイカはまたムッと膨れた。
「気になるっての!なに、教えて」
珍しく食い下がるマイカに、俺はクシャリと笑って答えた。
「冬になったら、な」
《冬になったら》
ズゴ……
派手な音を立ててドリンクを吸い込んだら、リュウガが鼻にシワを寄せた。
「もう捨ててこいよ、それ」
顎で示されたアイスコーヒーは、もう飲みきってしまって氷しか残っていない。溶けた分を未練がましくチョビチョビ飲んでいるのが、リュウガは嫌で仕方ないらしい。その度に文句を言われている。
「やだ」
「じゃあ俺が捨ててくる」
あ、と手を伸ばしたが間に合わず、リュウガはカップを持ってゴミ箱の方へ行ってしまった。これでテーブルに残されたのは英検の問題集だけ。タイムアップか。
「ほら、帰るぞ」
戻ってきたリュウガはイスに座らなかった。カバンを持ち上げ、また顎で私を促す。偉そうだからやめてと頼んでも、どうもクセらしくてやめてくれない。いつも何でも顎で指示する。付き合ったりしたらこういう小さい1個1個が許せなくなるんだろうと思うと、どうしても彼氏を作る気になれない。世の中のカップルは、どうやって解消しているんだろう……。
「ほらって」
問題集を勝手に閉じられ、やっと観念した。仕方ない。いつまでも帰らないわけにはいかないんだから。
外は思いのほか暖かかった。日中しっかり晴れたおかげだろう。それでもリュウガは、手に持っていたパーカーを差し出した。黙って受け取り、羽織る私。寒がりの私を気遣ってくれるリュウガの優しさを特別だと勘違いしてはいけない。こいつは誰にでも優しい。
「おいー、遅いって」
ふざけてるくらいに足を進めない私の方へ振り向いて、リュウガは数歩戻ってきた。
「ほら、行くぞ」
ぎゅっと握られる手。あまりに驚いて振りほどこうとしたけど、リュウガのいつもと変わらない顔を見たら恥ずかしくなってやめた。ただ本当に急かしたかっただけなんだろうから。慌てたらみっともない。
「指、冷たっ」
リュウガは私の指先を確かめるみたいに握り直し、そのまま自分のブレザーのポケットに突っ込んだ。
え。
優しさにしては行き過ぎてませんか。
狼狽える私をよそに、リュウガは反対の手でスマホを操り、明日の模試の日程を確認し始めた。何時に起きなきゃいけないとか、昼休みは何分だからパンをサッと食べるのがいいとか、帰りは何時になるとか。しまいには明日の天気と気温まで。
「今日は早く寝ないとな」
やっとポケットにしまわれるスマホ。こっちのポケットに収納された手をどうしたらいいのか、確認すらできないまま私はいつも通りに相槌を打つ。
いやでもこれ普通……ではないですよね。
数学の大西の自虐ネタについて語ってる場合ではない気がしつつ、2人で爆笑する。
……普通?優しさ?あり得る?いや、……でも。
リュウガと恋愛の話をしたことはない。部活を引退しても帰る方向が同じなことが変わらないだけで、元選手と元マネージャーという肩書を外れない仲を継続してきたつもりだった。
ポケットに手……。もしもこれがそういうことだとしたら、いつどの瞬間からなのか謎でしかない。お互いに付き合ってる人がいるのか、好きな人がいるのかさえ話したことがないのに。私に彼氏がいたら、こいつどうするつもりなんだろう。
ぐるぐる回る頭の中。
温い風が優しく頬を撫でていき、リュウガのリードに引っ張られるようにして私達は目的地に辿り着いてしまった。
「……」
足元を見つめる私。
「俺も見に行こうかな」
リュウガが私の手をそっとポケットから出して言った。温もりを失った指先には冷たく感じられる風。名残惜しさに握る手のひらに、みぃのふわふわの感触がよみがえる。
「……犬派のくせに」
「どっちかならね。でも別に、猫も嫌いじゃないし」
カバンを担ぎ直し、リュウガは玄関の方に顎をクイと向けた。偉そうなんだから、ほんとに。
みぃがいなくなって半年。新しい猫なんて欲しくないのに、ママが勝手に貰ってくると決めてしまった。見せられた写真はまだ小さなぽわぽわの子猫だった。きっと夢中になってしまう。でもそれは、みぃにすごく申し訳ない気がして。会いたくないんだ、あの子猫に。
「んー、可愛いんだろうな」
項垂れて最後の粘りを見せる私。
「じゃあ俺が」
リュウガはまたサッと手を伸ばし、インターホンを勝手に押した。
え、ちょっと待って。普通にママと話してるんだけど。緊張とか遠慮とかないもんなの?
「ほら、行くぞ」
また顎で。
開いてしまったドア。リュウガに引きずられるようにして連れ込まれる。
「ほらー、可愛いでしょう」
ママは胸に小さな子猫を抱いていた。みぃとは違う毛色。みぃよりずっとか細くて不安そうな鳴き声。しっぽを精一杯太くして、全力でリュウガと私を威嚇してる。リュウガが屈んで指を出すと、シャッと手を出して引っ掻こうとするのが、可愛くて可哀想で。よしよし、大丈夫だよって抱き締めてあげたくなった。
「はは、似てるー。すげー可愛い」
みぃのことはよく話してたし、いなくなった時は散々泣いて画像も見せたから知ってるはず。
「似てないよ。全然違うじゃん」
キッと睨んだら、リュウガは顎で私を示した。
「ほら。似てる」
……
リュウガは事も無げにまた子猫に指を差し出す。唸り声を上げられても、引っ掻かれても、リュウガはニコニコと子猫を構った。
「じゃ、帰ります」
子猫のストレスが気になり始めた頃、リュウガはそう言って外に顎をクイとやった。言われなくても見送るってば。カバンを玄関に置いて外に出ると、リュウガは静かにドアを閉めた。
「可愛いな。やっぱ好きだわ」
そう言って私を見つめる目。
「猫……のこと?」
間の抜けた質問にリュウガは目を見開いた。
「お前、大丈夫?」
「いや、だってさ……」
「だって、なんだよ?」
なんだよって、なんなのか私にも分からない。焦って絞り出す、さらに間の抜けた返答。
「……犬派のくせに」
でもリュウガは、ニッと笑ってくれた。
「言ったろ?猫も嫌いじゃない」
「……いつから?」
「んー。……はっきり思ったのは半年前、かな」
急にドキドキと激しく高鳴る胸。こういうのって、もっとなんかこう、……よくわかんないけど想像と違う展開に理解が追いつかない。どうしよう。
「みぃの時?」
「そう」
きゅう、と胸が痛んだ。柔らかくて温かかったみぃ。新しい猫なんか飼ったら、みぃの居場所はなくなっちゃうのかな。
「みぃちゃん、見つかるといいな。あの子と仲良くなるかも」
リュウガ……。みぃを忘れなくていいんだって、そう言われたみたいだった。
「で?嫌なら、諦めるけど。嫌じゃないだろ?」
……また。優しいくせに偉そうだ。だけど、分かった。小さな1個なんかどうだっていいよ。きっとそんなものは乗り越えていける。1個を難なく超えていく、他の1個。このドキドキがそれを証明してる。理屈じゃないんだ、これはきっと。
「嫌じゃない」
「じゃあ笑ってよ」
リュウガの声に、私はプイと後ろを向いた。なんとなく素直になれなくて。
「猫だな」
少し呆れたようなリュウガのからかいがくすぐったくて気持ちいい。猫か。そう言えばあの子猫をまだ撫でてない。ふわふわの感触を思い出したかったけれど、手に残るのはリュウガの温もりだった。私はそれを慈しむように、そっと両手を握り締めた。やっと冷えてきた風が、火照る頬を冷ますように駆け抜けていった。
《子猫》