Apollo

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3/20/2025, 11:51:25 AM

 くりんとした目で私を見上げた「きぃたん」は、クリームパンみたいな手を差し出して、
「ちゅないで」
と舌っ足らずに言った。
 きゃあー
 悲鳴が上がる。きぃたんはいつでも私たちのアイドルだ。これがあの建太の弟なんだから、もうそれだけで倍以上可愛い。
「きぃたん、邪魔しちゃダメだよ。」
 ニコニコしながらきぃたんの横にしゃがんだ建太は、背だけはデカくなったけどキュートさは変わらない。よいしょ、ときぃたんを抱き上げて頬擦りするところなんか、アイドル雑誌に載ってもおかしくないくらいに愛らしい。
「やらーー!ちゅなぐぅぅー!」
 建太の腕の中から抜け出そうとするきぃたんと、落とさないように大事に抱える建太。2人とも完全に保護案件だ。できれば飼いたい。私の部屋で。
「きぃたん、にぃにぃが繋いであげる。」
「やらぁー!おねーたん、おねーたん!」
 意地になって手を伸ばすきぃたんを、建太はとびきり甘い顔で見つめた。手を伸ばす先の私にも、そのおこぼれが届く。
「ごめん、遠藤。いい?」
「ん、いいよ!」
 断る理由なんかあるわけない。こっちから頼みたいくらいだ。
「きぃたん、おねーちゃんとお手々繋ごう!」
「やたぁーー!!」
 大喜びのきぃたんを、建太はそっと下におろした。再び差し出されるクリームパン。私は楽器のケースをさっさと仲間に押し付けて、その柔らかい手のひらを優しく握った。
 触れるだけで溢れる幸せ。あぁ、小さい子ってほんとに神。
「にぃにも!にぃにも!」
 私に右のクリームパンを握らせたきぃたんは、空いている左のクリームパンを建太に差し出した。
 え。
「にぃにぃは、後でね。」
 さすがに建太は目の前で手を振ったけれど、幸い、きぃたんはそんなことで引き下がるような聞き分けの良さを持ち合わせていない。
「やらぁーー!!にぃにも!にぃにもー!!」
 建太のママは先生に用事があると言ってきぃたんを置いていったから、もはや甲高い声で地団駄を踏むきぃたんを止めることはできない。困った顔の建太に、私はむしろ得意気に、
「いいよ。ほら、手を繋いで、建太。」
と許可……いや、命令を出した。途端にポッと赤らむ建太の頬。背ばかり大きくなったけど、私から見たら建太はきぃたんと変わらないくらいに愛らしい存在のままだ。
「んぅ、じゃあ、……ごめんね遠藤……。」
 きぃたんを間に挟み、手を繋いで歩く私達。
 きゃあーーー
 さっきより大きな悲鳴が上がる。ごめん、みんな。そしてありがとう、きぃたん。
「きぃたん、もういい?」
 しきりと確認する建太。
「まだぁーー!」
 いいぞ、きぃたん。
「遠藤、ほんとごめん……」
 耳まで赤くなってきぃたんに振り回される建太を、私は至近距離で見つめた。長い睫毛。大きな目。すべすべの肌。赤くて艷やかな唇。そこらのアイドルより断然可愛い。
「いいよ。私は、全然。きぃたん、ほらお花があるよぉ!」
 わざと遠くの花を指さすと、きぃたんは嬉しそうに速度を上げた。転ばないように、つまずかないように、私と建太は優しくきぃたんに連れられていく。
「きぃたん、楽しい?」
「たのしー!おねーたん、ちゅき!にぃに、ちゅきーー!!」
 私の問いかけにキャアキャアと喜びまくるきぃたん。ちょっとしたイタズラ心に誘われて、私は、
「おねーちゃんも楽しい!おねーちゃんも、にぃにぃ好きー!」
とテンション高く言ってみた。
「!えええ遠藤!きぃたんが変なこと覚えるからダメ!」
 わかりやすく狼狽える建太。全く可愛い。後でもっと可愛く拗ねる建太も、きっと可愛いはず。なかなか機嫌を直してくれないかもしれないけど、でも、まあ、いっか。あとしばらくは、このまま、きぃたんと手を繋いでいこう。ちらりと見た建太は相変わらず真っ赤だったけど、嬉しそうなきぃたんを見つめる眼差しは柔らかかった。早春の陽を受けながら、イタズラ心は温かいさざ波に変わっていく。小さな足音に導かれ、私達はどんどんと歩いていった。

《手を繋いで》

3/20/2025, 5:05:46 AM

 和也はよく物を忘れる。し、失くす。
 そのくせ直前まで支度しないから、こうしてバタバタする羽目になる。いや、バタバタさせられる羽目になる。知らぬ間に歯を磨きに行っていた和也を追って、オレはバスルームに乱入した。
「どこにも、ねーけどっ!」
 んんー?と不満気に返してから泡をペッと吐き出し、
「んなわけねーよ、よく探せって」
と睨みを利かせる和也。
 自分で探せ、とか。
 それが探してもらってる奴の態度か、とか。
 だから昨日のうちに……、とか。
 あれは簡単になくせるもんじゃない、とか。
 真っ当な反論をしてもいいのに、膨れっ面ながら引き下がるオレ。ちくしょう、これもあと1時間の辛抱だ。北海道なんていう遠すぎる北の大地に進学を決めやがって。都内に進学して家から通うってずっと言ってたから、すっかりその気になってたっていうのに。身の回りのものも、受験勉強も、とにかく準備不足で詰めが甘いんだよ、あいつ!
「もー……、どこだよ?どこ?」
 探し尽くしたはずのリビングの中心で腕を組み、ぐるりと回転してみる。当たり前の場所は全部見て回ったから、あとあるとすれば、思いがけない何かでどこかの隙間に入り込んだとか、そういう可能性なんだろう。けど、それをあと1時間で見つけ出すってのは難しい。
「おい、見つかったか?」
 口を拭きながら戻ってきた和也が、なんだか不機嫌そうに確認してきた。
「ねーよっ!もうオレ、知らねー!」
「諦めんじゃねーよ!オレの大事な時計だぞ?」
 刻々と進んでいくリアルな時間。なんのヒントもない宝探しに、オレはぐずぐずと泣きそうになってきた。こんなはずじゃなかったのに。もっとこう……、15年の思い出を振り返ったり、喜怒哀楽を新鮮に呼び起こしたりして、優しい感傷的な空気の中で静かに送り出すつもりだったのに……。
「和也、そろそろ。」
 伯父さんがリビングに来て、時計を親指で指した。
「はい。」
 伯父さんの前では行儀がよく、模範的な兄貴になる和也。
「じゃ、もういいや。行ってきます。」
 必死で探した時間は何だったのか、怒りすら覚えそうにあっさりした引き際。なのにオレの心には怒りなんてものは湧いてこなくて。ただただ、苦しさに似た焦燥感が胸を襲う。
「ま、待って、やっぱりオレも……」
「いいよ、説明会あるんだろ?行ってこい、高校に。合格取り消される前に。」
 玄関まで追い駆けたオレを肘でグイグイと押し返して、和也は振り向きもせず出ていった。
 ……なんでこんな日に出発すんだよっ!
 取り残されたオレは、そこで初めて涙を拭った。何もかもが悔しかった。今さらながら、顔もよく思い出せないくらい昔に亡くなった両親のことも、従兄弟たちに遠慮し続けてきた暮らしのことも、結局見つからなかったお父さんの形見の時計のことも。
 う、う、う、と玄関に座り込んで唸りながら泣いた。従兄弟たちは先に皆独立して、この家に残ったのは伯父さんと伯母さんとオレだけになった。寂しい。できれば北海道に付いていきたい。家事も勉強も頑張るから。和也に迷惑かけないように、オレ頑張るから……。
 伯母さんは仕事に出かけてる。好きなだけ泣いたオレは、軽いような重いような変な体を引きずって、自分の支度を始めた。顔を洗うくらいじゃどうにもならなそうに腫れた目が恥ずかしいけど、そんなことよりぽっかり空いた胸がオレの感情から現実味を奪ってる。
 行くかぁ……。
 くたびれたいつものスニーカーではなく、合格祝いに和也がバイト代で買ってくれたスニーカーを出してきて、重い足を突っ込んだ。
「んあ?」
 爪先に硬い感触。靴紐を縛って、すぐ履けるように整えておいたはずなのに。足を抜いて逆さに振ろうとして、……オレは思い直して手を突っ込んだ。
 見る前からわかったんだ。あの時計だって。
『おまえが泣くのいやだから
 頑張ろうな
 これからも』
 もう片方に突っ込まれてた付箋。
 頑張れ、じゃなく、頑張ろうな、の一言に胸が震えた。場所は違えど、心はいつも。
 重い時計にはお父さんの生きた証の大きな傷と、和也が生きてきた証の小さな傷が混在してる。ここにオレの人生がこれから重なってく。
「泣かねーよ。」
 指先でガラスを撫でて、オレはそのまま目尻を擦ると、泣き笑いで呟いた。
「……明日から。」

《どこ?》

12/4/2024, 2:13:17 PM

 昔から大事なところでツイてない。幸運と不幸の分岐点で必ず不幸に舵が切られる。そういう運命なんだ。よく知ってる。
 だから第一志望校に受からなかったことも、なぜなら受検日の朝から急に奥歯が痛んで涙が止まらなかったせいだということも、初めての親知らずの腫れがよりによって受検の日に重なったことも、取り乱すことなく受け止めることができた。幼稚園の遠足もお誕生会も、小学校の修学旅行も、中学校最後の体育祭も、ことごとく出られなかった自分。自分を慰めるのにも神様を恨むのにも、もう飽きてしまった。ただ淡々と日々を繋げていくだけ。
 ……ちょっとだけ夢は見ていたけれど。第一志望の高校で、勉強と部活と青春に忙しい毎日なんてものを。いいんだ、夢は所詮夢なんだから。夢と現実は違う。だから面白いんだ。……きっと。
 はあ、とため息を漏らす。
 こんな寒い日に、ホームで待ちぼうけを食らってるオレ。とは言え、事故による遅延なんて別にそこまで珍しいことじゃないから、取り立てて不幸だと言えるほどのことでもない。
 ……あーあ。
 人生諦めモード、徹底させてるはずなのにな。
 ホームの向こうに目を凝らす。アナウンスがないうちは電車が来るはずもないけど、足元を見ていたら涙が落ちてしまいそうで。
 嫌な予感がしてたんだ。期待に蓋をして門をくぐった入学式の会場で、彼女を見つけてしまった時。
 好きになったら痛い目を見る。打ちのめされることになるから好きになるな。
 って、自分を戒めてきたつもりだった。そして思ったとおりにオレは今日、知らない男と手を繋いで歩く塾帰りの彼女を見てしまった。しかも、よりによって、その男はオレの第一志望だった高校の制服を着ていた。
 こんなことってあるもんかな。
 線路を見ていても無理そうで、オレは天を仰いだ。重暗い空には月すら見えない。
 はぁ……
 どうせ誰も見てない。涙が溢れるのを諦め、ゆっくりと目を閉じた。その時だった。
 ガシッ!
 突然の衝撃にオレは半歩ほど横に左足を踏ん張らせ、慌てて右腕に目をやった。
「あ、危ないですっ!」
 腕にしがみついた女子が震える声でそんなことを口走るから、近くにいた人達が驚いてオレ達に注目したのがわかる。
「え、な、なに?」
 狼狽えるしかできないオレを、女子は真っ赤な顔で、
「だめですっ!」
 と咎めた。

「ほんとに、すみません……」
 消え入りそうな声で謝る女子に、オレはペットボトルを1本奢ってあげた。びっくりしたけど、悪意があったわけじゃないのはわかったし。勘違いだとわかってからのしおらしい感じがギャップで面白かったから。
「わたし、なんかこういうとこがありまして……ご迷惑おかけしました……」
 涙目で俯く様子が可笑しい。この子なりの正義感に弾かれて、瞬発力だけを頼りにオレの腕を掴んだんだと思ったら、ヤバイ奴だと思う気持ちを上回る好奇心が湧いた。いいな、こういうパワフルな感じ。
「確かに落ち込んでたから、そう見えちゃったのかも」
 オレがフォローを入れると、女子はブルブルと首を振ってまた自分を責めてから、急にきょとんと丸い目を向けてきた。
「落ち込んでたんですか?何かあったんですか?」
 ストレートな疑問。テンポを合わせるのは大変そうだけど、ちゃんと友達とかいるんだろうか。
「うん、まあ。でも、もういいんだ」
 目の前の奇妙な現実で胸の痛みもごまかされてる。でも、だからって、初対面の女子とこんなに話すなんて、どうかしてる。
 これは夢かな……
「夢?」
 間髪を入れずに問い返されてオレはビビった。無意識に言葉に出てしまっていたらしい。
「大丈夫ですか?」
 女子の訝しそうな表情が可笑しくて、自分が笑顔になったのがわかった。調子が狂う。でも、悪い気がしない。この分岐点は不幸に向かっていない気がする。この子のもつ圧倒的なパワーは、オレが恐れる不幸なんかものともせずに爆走していきそうだ。どこを選んでも結局は幸福にゴールできる、そんな強さを感じる。それはオレに決定的に足りない要素に違いない。
「大丈夫。現実だから」
「え?」
 ますます眉間のシワを濃くする女子。オレは構わずに続けることにした。この子になら素直に言っちゃってもよさそうな気がしたから。勝手ながら。
「オレ、夢と現実なら夢がいいと思ってたんだけど」
「え?夢と現実?なに、急にどうしたんですか?怖い怖い!どっち系?この話」
 女の子は明らかに焦りながらも笑顔になった。いいな、この感じも。
「怖い?オレは現実もけっこういいなって思ってるとこ」
「え、怖いです!あの、怒らないでくださいね?でも、ちょっと、変っていうか。言われません?変わってるって」
「言われない。そっちこそ、言われない?」
「失礼ですよ!助けようとした人に向かって。……まあ、たまに、言われますけど……」
 自動販売機の前で始まったズレた会話。切られた運命の舵。もう運命を感じてるけど、たぶん間違いない。今までの分岐点がここを目指していたとしたら、決して悪くない進路だ。そう思わせてくれる世界が、この先に待ってる気がする。
 やっと電車が動き始めたというアナウンスが響く中、ズレながら妙に噛み合う会話は途切れることなく続き、オレは新しい進路に力強く1歩を踏み込んだ。運命というものに、生まれて初めて感謝しながら。

《夢と現実》

12/2/2024, 3:45:52 PM

 日が暮れるのがすっかり早くなった。まだ退校時刻までは間があるのに、古めかしいレンガ造りの部室棟も、木立に囲まれた中庭も、姿形を濃い闇に溶かしている。
 本当なら人気のないこんな闇の中を歩きたくはないのだけど、今はむしろ誰かに見られては困る。闇に紛れてこっそりと動かなくてはならないから、怖さは二の次になっていた。
 もっとも、1人じゃないという心強さもある。私の半歩前を歩く葛城は、大所帯の男子バレー部のレギュラーメンバーだ。何かあったらきっとどうにかしてくれるだろうという、勝手な信頼感がある。背の高さだけではなく、たぶん葛城はそういう人だという勝手な思い込みによる信頼感だ。
「……こっち」
 葛城が少し身を屈めて振り向いた。囁き声が降ってきた方を見上げたけれど、葛城の顔も闇に溶けている。私は表情を読み取ることを諦め、小さく頷いた。
「ここのロッカー、……ほら、やっぱり」
 校舎裏から回り込むと、体育教官室に直結する裏口がある。葛城は軒下に並ぶ下駄箱のようなロッカーの1つを開け、中から紐付きの鍵を取り出した。
「……開いた」
 葛城の声は少し高揚しているように聞こえる。偶然、ここに鍵をしまうところを見たことがあるらしいが、こうして実践に役立てたことはなかったんだろう。
「すごい。ありがとう」
 私は素直に感動を言葉にすると、誰もいないことがわかっている室内に潜り込んだ。今日は体育科の研修があるらしく、昼から体育教官室が留守になるから、それまでに課題を机上に提出するようにと念を押されていた。体育当番だった私がクラス分を揃えて昼前に出しておいたのだけど、帰ろうとしたら机の中から葛城の課題が出てきたのだ。課題を集めた時、「机の上に出して」と声をかけたら隣の席の葛城が真っ先に出してきて、それを受け取ったのは覚えているから、……つまりどうも自分の荷物と混ぜてしまったということになる。これは成績に占める比重が大きい提出物だということもあり、私に謝られた葛城は困っていた。もちろん体育教官室にも行ってみたけれど既に閉まっていたし、明日、私と葛城が連れ立って説明したところで、おそらく信じてもらえそうにない。どうしたものか……。罪悪感に駆られる私に、葛城は少し考えて、この計画を伝えてきたのだった。
 目立たないよう、暗くなりきるのを待ち、部活を少し早く抜けてきた葛城と、図書室で勉強していた私は玄関で合流した。そして、今に至る。
 課題を出した時、研修直前の先生は急いでいて、受け取ったノートの束をドンと棚の上に乗せただけだった。きっとチェックは明日に回したはず。だから、葛城の課題を静かに混ぜておけば、……。
「わっ!」
 非常灯しかない室内の暗さに目が追いつかず、何かにつまずいた私は膝をついて転んだ。
「大丈夫?待って、ライトつける」
 葛城が背後からスマホのライトを照らしてくれた。その光を頼りに、乱雑な室内を進んでいく。あった、あの棚だ。やっぱりチェックした形跡はない。私は心臓を高く鳴らしながら、葛城の課題を滑り込ませた。
「……ありがとう。ごめんね、こんなことになっちゃって」
「いや、俺も適当に渡しちゃったから」
 やっぱり闇に溶けたままの葛城の顔。教室で言葉を交わす時の顔を思い浮かべた。特別カッコいいわけじゃないけど、溌剌とした雰囲気のある顔をしている。それでいて、物腰が柔らかく、どちらかと言うとゆったりした口調で話すのが心地よい。以前から好感は抱いていた。ただ、住む世界が違う感覚はあって、私の抱く感情も純粋な憧れに近い認識だった。こんな特別な接点があったことは、きっと思い足す度にくすぐったい、一生の思い出になるだろう。そんな関係性。
「わっ!」
 余計なことを考えていたせいだろうか。戻る足がまた何かに引っかかり、咄嗟につかまろうとした手が派手に机の上のペン立てをひっくり返してしまった。バラバラと散らばったペンの上に、体幹が堪えきれず腰から転がる私。何これ、恥ずかしい……。
「ちょ、大丈夫?」
 葛城は靴を脱ぎ捨てて私に駆け寄ると、膝をついて腕を差し出してきた。
「あー、うん……いたぁ……」
 後ろ手をついて体を起こすのを葛城は手伝ってくれ、それからライトで私をぐるりと照らしてから、ふっと安心したように吐息を漏らした。ライトの明かりが溢れ、微かに葛城の顔が浮かび上がる。優しそうな笑顔。……。
「あ、……あーあ、片付けないと」
 急に別の恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じ、私は散らばったペンを拾い始めた。黙って手伝ってくれる葛城の腕が揺れる度、光と闇の境界線も揺れ動く。不規則に光の世界と闇の世界を行ったり来たりしながら、私は葛城の膝下に転がった最後の1本に手を伸ばしかけ、……躊躇うように引っ込めた。まさか、そんなはず。
 闇に下がった私の手の代わりに、葛城の長い指が光の中に入り込む。そしてペンの上を通り過ぎ、闇の中の私の手を掴んだ。
「え……」
 反射的な呟きのほかは何も言えず、ただ葛城の指の温かさを感じていた。
「……いや?」
 葛城の声は優しかったけれど、少しばかりの苦しさを帯びていた。光が、また揺らぐ。徐々に闇が広がり、やがてコトリと小さく硬質な音が響くと、私達の姿はほぼ闇の中に溶けた。
「好き、だった。ずっと」
「え……」
「……春、体育で、女子の誰かが倒れた時、真っ先に近寄って看病してただろ?」
 ……あったっけ、そんなこと。記憶を辿り、やっと思い出す。そんな小さなことで?
「困ってる人がいると、いつもすぐ助けに行く。誰にでも同じ。だから、すごいなって思ってて。隣の席になったら、話してて、なんか落ち着くっていうか。俺、こう見えて、激しい会話の感じがあんまり好きじゃないんだけど、そういうの、ないから。言葉もきれいだし、話す内容も和むって言うか……いいなって……」
 葛城の告白。不思議と凪いでいく心。闇のせい、だろうか。住む世界が違うとわかっているのに、なぜかそんなことは小さなことに思えてくる。
「……俺じゃ、だめ?」
 葛城は闇の中で動かない。手の力を強めることさえしない。眩しくないこの世界で、私は葛城と重なる鼓動のほかに、同じように揺れる波長を感じ取っていた。和む。確かにそう。ゆっくりと口を開く。
「……だめじゃ、ない。ありがとう」
 私はそっと指先に力をかけた。
「でも、もう少し……」
 その先をどう繋げていいか迷うと、葛城はぎゅっと私の指を握った。
「もちろん。待つから」
 葛城はスマホを拾い上げ、ペン立てを戻した。やっと光が2人の姿を浮かび上がらせた。照れくさい笑みを交わしてから、私達は手を取り合って立ち上がった。光と闇の狭間で、穏やかに揺れ動く思いを抱えながら。

《光と闇の狭間で》

12/1/2024, 4:40:18 AM

 キラキラと透明度の高い煌めきを放つ雫を1つ、また1つとこぼしながら、ニコリと笑みを讃えるあどけない顔。俺は完全にテンパったまま、
「あ、あのさ、……泣かないで。ね?」
 と何度目かの同じセリフを繰り出した。それに対する返事もまた同じ。
「はい。泣いてません。大丈夫です!」
 ……いや、めっちゃ泣いてるけど……。指先で頬を払っても、次から次と一定の間隔で雫が落ちてくる。
 ヤバい……。
何がヤバいって、もちろん人目もそうだけど、それ以上に……胸が鷲掴みにされたような感覚がして……これはヤバい。
「伝えられたので、満足です。聞いてくれて、ありがとうございました」
 行儀よくペコリとお辞儀をした彼女は、上げた顔で一際強い笑みを作り、えへへ、と字幕がつきそうな声を発した。
 自慢じゃないけど、告られることはそんなに珍しいことじゃない。だけど、いろんなパターンを経験してきた中でも、これは、……クる。
「こっちこそありがとう」
 そんな俺の定型文的な返しに力強く頷き、彼女は笑顔を崩さないまま回れ右をして走り去っていった。微かに残る、爽やかな香り。柔軟剤かなにかだろうか。特段変わった香りでもないのに、俺は惜しむように胸一杯の深呼吸をした。
 彼女がいるんだ。
 その一言で突っぱねてしまえば後腐れなく終わる、いつもの流れのはずが、……ヤバいな。コロコロと高く響くような声も可愛かったし、緊張をやり過ごすためにぎこちなく前髪や頬に触れる仕草も可愛かった。それに、なにより、涙に濡れた笑顔が……。隣を向いて、あの笑顔が俺を見上げていたら、どんなに可愛いかなと想像すると、ひたすらに惜しい。
 裏切るつもりはないけどさ。デミソースのハンバーグもトマトソースのハンバーグも両方好きなのは悪いことじゃないのに、なんで彼女は1人って決まってんだろうな。
 浮気してお母さんに引っ叩かれたお父さんを思い出す。死ぬほど謝ってたお父さんを軽蔑してたけど、……あぁ、お母さんごめん。俺、なんかちょっとわかっちゃったかも。
 フワフワする足を校舎に向ける。しばらく歩くと、2階の窓に見慣れた顔を見つけた。まだ俺に気づいてないらしい彼女を見上げながら、さっきの彼女を思い出す。
 もし、今の彼女と別れてさっきの彼女と付き合い始めたら……
 お互いを知っていって、距離を縮めていって、途中にはいろんな誤解や嫉妬があったりして、そうして1つ1つの感情を積み重ねていくんだろう。甘い胸の痺れとか、苦しい痛みとか、もう知っていることをまた最初から味わい直してさ。それはきっと楽しいことに違いない。
 彼女の真下辺りで足を止める。あまりに気づかれないことに苦笑いが込み上げ、やがて俺は、
「おい!」
 と声をかけた。窓枠に乗せた両腕に顎を乗せる形で俺を見下ろす彼女。
 ……
 しばらく見つめ合った後、俺は1番近くの入口から校舎に足を踏み入れ、そのまま階段を駆け上った。そして、窓の外を見つめたままの彼女の隣に並んだ。
「……泣かないで」
 俺がそっと頭を撫でると、それが合図みたいに彼女は腕に顔を押し当てて肩を震わせた。
「断ったよ。安心して」
 俺の言葉に、ふるふると首を振る彼女。
「ちょっと悩んだでしょ」
 こわ、と鳥肌を立てながら、即座に否定する。それをまた否定されるという不毛なやりとりを続けながら、俺は彼女と過ごしてきた時間を思い返していた。積み重ねられてきた1つ1つ。そうして少しずつ強固なものになっていった、2人の絆。大事にしたいって思ってる気持ちに嘘はない。簡単にハンバーグなんかと同列に語ることはできないんだ。
 お父さん、やっぱりあなたは間違ってました。
「泣かないで」
 何度でも言おう。彼女が笑ってくれるなら。こうして2人の絆は少しずつまた強くなっていくはずだから。

《泣かないで》

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