Apollo

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 日が暮れるのがすっかり早くなった。まだ退校時刻までは間があるのに、古めかしいレンガ造りの部室棟も、木立に囲まれた中庭も、姿形を濃い闇に溶かしている。
 本当なら人気のないこんな闇の中を歩きたくはないのだけど、今はむしろ誰かに見られては困る。闇に紛れてこっそりと動かなくてはならないから、怖さは二の次になっていた。
 もっとも、1人じゃないという心強さもある。私の半歩前を歩く葛城は、大所帯の男子バレー部のレギュラーメンバーだ。何かあったらきっとどうにかしてくれるだろうという、勝手な信頼感がある。背の高さだけではなく、たぶん葛城はそういう人だという勝手な思い込みによる信頼感だ。
「……こっち」
 葛城が少し身を屈めて振り向いた。囁き声が降ってきた方を見上げたけれど、葛城の顔も闇に溶けている。私は表情を読み取ることを諦め、小さく頷いた。
「ここのロッカー、……ほら、やっぱり」
 校舎裏から回り込むと、体育教官室に直結する裏口がある。葛城は軒下に並ぶ下駄箱のようなロッカーの1つを開け、中から紐付きの鍵を取り出した。
「……開いた」
 葛城の声は少し高揚しているように聞こえる。偶然、ここに鍵をしまうところを見たことがあるらしいが、こうして実践に役立てたことはなかったんだろう。
「すごい。ありがとう」
 私は素直に感動を言葉にすると、誰もいないことがわかっている室内に潜り込んだ。今日は体育科の研修があるらしく、昼から体育教官室が留守になるから、それまでに課題を机上に提出するようにと念を押されていた。体育当番だった私がクラス分を揃えて昼前に出しておいたのだけど、帰ろうとしたら机の中から葛城の課題が出てきたのだ。課題を集めた時、「机の上に出して」と声をかけたら隣の席の葛城が真っ先に出してきて、それを受け取ったのは覚えているから、……つまりどうも自分の荷物と混ぜてしまったということになる。これは成績に占める比重が大きい提出物だということもあり、私に謝られた葛城は困っていた。もちろん体育教官室にも言ってみたけれど既に閉まっていたし、明日、私と葛城が連れ立って説明したところで、おそらく信じてもらえそうにない。どうしたものか……。罪悪感に駆られる私に、葛城は少し考えて、この計画を伝えてきたのだった。
 目立たないよう、暗くなりきるのを待ち、部活を少し早く抜けてきた葛城と、図書室で勉強していた私は玄関で合流した。そして、今に至る。
 課題を出した時、研修直前の先生は急いでいて、受け取ったノートの束をドンと棚の上に乗せただけだった。きっとチェックは明日に回したはず。だから、葛城の課題を静かに混ぜておけば、……。
「わっ!」
 非常灯しかない室内の暗さに目が追いつかず、何かにつまずいた私は膝をついて転んだ。
「大丈夫?待って、ライトつける」
 葛城が背後からスマホのライトを照らしてくれた。その光を頼りに、乱雑な室内を進んでいく。あった、あの棚だ。やっぱりチェックした形跡はない。私は心臓を高く鳴らしながら、葛城の課題を滑り込ませた。
「……ありがとう。ごめんね、こんなことになっちゃって」
「いや、俺も適当に渡しちゃったから」
 やっぱり闇に溶けたままの葛城の顔。教室で言葉を交わす時の顔を思い浮かべた。特別カッコいいわけじゃないけど、溌剌とした雰囲気のある顔をしている。それでいて、物腰が柔らかく、どちらかと言うとゆったりした口調で話すのが心地よい。以前から好感は抱いていた。ただ、住む世界が違う感覚はあって、私の抱く感情も純粋な憧れに近い認識だった。こんな特別な接点があったことは、きっと思い足す度にくすぐったい、一生の思い出になるだろう。そんな関係性。
「わっ!」
 余計なことを考えていたせいだろうか。戻る足がまた何かに引っかかり、咄嗟につかまろうとした手が派手に机の上のペン立てをひっくり返してしまった。バラバラと散らばったペンの上に、体幹が堪えきれず腰から転がる私。何これ、恥ずかしい……。
「ちょ、大丈夫?」
 葛城は靴を脱ぎ捨てて私に駆け寄ると、膝をついて腕を差し出してきた。
「あー、うん……いたぁ……」
 後ろ手をついて体を起こすのを葛城は手伝ってくれ、それからライトで私をぐるりと照らしてから、ふっと安心したように吐息を漏らした。ライトの明かりが溢れ、微かに葛城の顔が浮かび上がる。優しそうな笑顔。……。
「あ、……あーあ、片付けないと」
 急に別の恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じ、私は散らばったペンを拾い始めた。黙って手伝ってくれる葛城の腕が揺れる度、光と闇の境界線も揺れ動く。不規則に光の世界と闇の世界を行ったり来たりしながら、私は葛城の膝下に転がった最後の1本に手を伸ばしかけ、……躊躇うように引っ込めた。まさか、そんなはず。
 闇に下がった私の手の代わりに、葛城の長い指が光の中に入り込む。そしてペンの上を通り過ぎ、闇の中の私の手を掴んだ。
「え……」
 反射的な呟きのほかは何も言えず、ただ葛城の指の温かさを感じていた。
「……いや?」
 葛城の声は優しかったけれど、少しばかりの苦しさを帯びていた。光が、また揺らぐ。徐々に闇が広がり、やがてコトリと小さく硬質な音が響くと、私達の姿はほぼ闇の中に溶けた。
「好き、だった。ずっと」
「え……」
「……春、体育で、女子の誰かが倒れた時、真っ先に近寄って看病してただろ?」
 ……あったっけ、そんなこと。記憶を辿り、やっと思い出す。そんな小さなことで?
「困ってる人がいると、いつもすぐ助けに行く。誰にでも同じ。だから、すごいなって思ってて。隣の席になったら、話してて、なんか落ち着くっていうか。俺、こう見えて、激しい会話の感じがあんまり好きじゃないんだけど、そういうの、ないから。言葉もきれいだし、話す内容も和むって言うか……いいなって……」
 葛城の告白。不思議と凪いでいく心。闇のせい、だろうか。住む世界が違うとわかっているのに、なぜかそんなことは小さなことに思えてくる。
「……俺じゃ、だめ?」
 葛城は闇の中で動かない。手の力を強めることさえしない。眩しくないこの世界で、私は葛城と重なる鼓動のほかに、同じように揺れる波長を感じ取っていた。和む。確かにそう。ゆっくりと口を開く。
「……だめじゃ、ない。ありがとう」
 私はそっと指先に力をかけた。
「でも、もう少し……」
 その先をどう繋げていいか迷うと、葛城はぎゅっと私の指を握った。
「もちろん。待つから」
 葛城はスマホを拾い上げ、ペン立てを戻した。やっと光が2人の姿を浮かび上がらせた。照れくさい笑みを交わしてから、私達は手を取り合って立ち上がった。光と闇の狭間で、穏やかに揺れ動く思いを抱えながら。

《光と闇の狭間で》

12/2/2024, 3:45:52 PM