Apollo

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 和也はよく物を忘れる。し、失くす。
 そのくせ直前まで支度しないから、こうしてバタバタする羽目になる。いや、バタバタさせられる羽目になる。知らぬ間に歯を磨きに行っていた和也を追って、オレはバスルームに乱入した。
「どこにも、ねーけどっ!」
 んんー?と不満気に返してから泡をペッと吐き出し、
「んなわけねーよ、よく探せって」
と睨みを利かせる和也。
 自分で探せ、とか。
 それが探してもらってる奴の態度か、とか。
 だから昨日のうちに……、とか。
 あれは簡単になくせるもんじゃない、とか。
 真っ当な反論をしてもいいのに、膨れっ面ながら引き下がるオレ。ちくしょう、これもあと1時間の辛抱だ。北海道なんていう遠すぎる北の大地に進学を決めやがって。都内に進学して家から通うってずっと言ってたから、すっかりその気になってたっていうのに。身の回りのものも、受験勉強も、とにかく準備不足で詰めが甘いんだよ、あいつ!
「もー……、どこだよ?どこ?」
 探し尽くしたはずのリビングの中心で腕を組み、ぐるりと回転してみる。当たり前の場所は全部見て回ったから、あとあるとすれば、思いがけない何かでどこかの隙間に入り込んだとか、そういう可能性なんだろう。けど、それをあと1時間で見つけ出すってのは難しい。
「おい、見つかったか?」
 口を拭きながら戻ってきた和也が、なんだか不機嫌そうに確認してきた。
「ねーよっ!もうオレ、知らねー!」
「諦めんじゃねーよ!オレの大事な時計だぞ?」
 刻々と進んでいくリアルな時間。なんのヒントもない宝探しに、オレはぐずぐずと泣きそうになってきた。こんなはずじゃなかったのに。もっとこう……、15年の思い出を振り返ったり、喜怒哀楽を新鮮に呼び起こしたりして、優しい感傷的な空気の中で静かに送り出すつもりだったのに……。
「和也、そろそろ。」
 伯父さんがリビングに来て、時計を親指で指した。
「はい。」
 伯父さんの前では行儀がよく、模範的な兄貴になる和也。
「じゃ、もういいや。行ってきます。」
 必死で探した時間は何だったのか、怒りすら覚えそうにあっさりした引き際。なのにオレの心には怒りなんてものは湧いてこなくて。ただただ、苦しさに似た焦燥感が胸を襲う。
「ま、待って、やっぱりオレも……」
「いいよ、説明会あるんだろ?行ってこい、高校に。合格取り消される前に。」
 玄関まで追い駆けたオレを肘でグイグイと押し返して、和也は振り向きもせず出ていった。
 ……なんでこんな日に出発すんだよっ!
 取り残されたオレは、そこで初めて涙を拭った。何もかもが悔しかった。今さらながら、顔もよく思い出せないくらい昔に亡くなった両親のことも、従兄弟たちに遠慮し続けてきた暮らしのことも、結局見つからなかったお父さんの形見の時計のことも。
 う、う、う、と玄関に座り込んで唸りながら泣いた。従兄弟たちは先に皆独立して、この家に残ったのは伯父さんと伯母さんとオレだけになった。寂しい。できれば北海道に付いていきたい。家事も勉強も頑張るから。和也に迷惑かけないように、オレ頑張るから……。
 伯母さんは仕事に出かけてる。好きなだけ泣いたオレは、軽いような重いような変な体を引きずって、自分の支度を始めた。顔を洗うくらいじゃどうにもならなそうに腫れた目が恥ずかしいけど、そんなことよりぽっかり空いた胸がオレの感情から現実味を奪ってる。
 行くかぁ……。
 くたびれたいつものスニーカーではなく、合格祝いに和也がバイト代で買ってくれたスニーカーを出してきて、重い足を突っ込んだ。
「んあ?」
 爪先に硬い感触。靴紐を縛って、すぐ履けるように整えておいたはずなのに。足を抜いて逆さに振ろうとして、……オレは思い直して手を突っ込んだ。
 見る前からわかったんだ。あの時計だって。
『おまえが泣くのいやだから
 頑張ろうな
 これからも』
 もう片方に突っ込まれてた付箋。
 頑張れ、じゃなく、頑張ろうな、の一言に胸が震えた。場所は違えど、心はいつも。
 重い時計にはお父さんの生きた証の大きな傷と、和也が生きてきた証の小さな傷が混在してる。ここにオレの人生がこれから重なってく。
「泣かねーよ。」
 指先でガラスを撫でて、オレはそのまま目尻を擦ると、泣き笑いで呟いた。
「……明日から。」

《どこ?》

3/20/2025, 5:05:46 AM