さっきまで冷たい雨が叩きつけていた道路にキラキラと反射する光たち。誘われるように目を上げると、街を彩るイルミネーションの灯りがあった。
そうか、もうそんな季節か……
長かったのか、短かったのか。7年半という月日はどうにも中途半端すぎて、自分の人生の半分という別の解釈をしてみても比重がよくわからない。
「それじゃあ、もう行きな」
モトキさんは腕時計をチラリと見ると、僕の背中にそっと手を添えた。
冬のはじまりと共に、僕とモトキさんの関係は全て終わる。凛とした空気の冷たさや、吹きつける乾いた風、クリスマスに年越しにバレンタイン、どっちかと言うと好きな季節だった冬を、これからは小さな胸の痛みを伴いながら迎えなければならないなんて。
「……」
少し感情的になってしまった僕の頭を、モトキさんは優しく撫でてくれた。出会った頃はモトキさんの胸くらいまでしかなかった僕の身長も、すっかり伸びてモトキさんにほぼ並んでいる。やっぱり7年半は長かったんだ。
「パパなんて呼ばなくていいよ。モトキさんでいい」
そう言って握手を求めたモトキさんは今よりずっと若くて、僕はこんな若いモトキさんがママと夫婦になったことが信じられなかった。よく知らないけどママに隠し財産があるんだろうかとか、モトキさんは騙されていないだろうかとか、最初の頃は始終心配していた。今日からモトキさんが家に帰ってこないかもしれないという不安も常に抱えていた。まあ、それは現実になったわけだけれど、予想した中では最も穏やかな別れだった。ママと並んでちゃんと報告してきたとき、僕は意見を求められてただ一言、
「僕とは終わらせないで」
とモトキさんにお願いをした。忙しいママに代わって家のことをよくしてくれたのはモトキさんだし、休みの日には遠いところまで連れていってくれもした。学校の行事も面談も堂々と来てくれて、悩みも聞いてくれて、アドバイスもしてくれて、バカ話で大笑いして、一緒にバイクをいじって、……本当のところはわからないけど、僕に対する愛情は十分に感じていたんだ。
「あったりまえだろ。友達なんだから」
あの時、モトキさんは僕にグータッチの拳を向けてきた。小さい頃、2人で作ったハンドシェイクだ。簡単な動きが揃うと、心が通じたようで気分がアガる。
僕はあの時のお返しのように拳を差し出した。力強いハンドシェイクを交わす。それから昔みたいに顔を合わせ、へへ、と笑い合うと、僕たちは別れた。僕は電車に、モトキさんは街に向かって歩を進めていく。
終わりじゃない。その約束を反芻すると目の奥が熱くなる。これから新しく始まる関係にモトキさんは友情という名を付けたけれど、そんな脆くて不安定な鎖では、僕たちを繋ぎとめることができないだろうと知っているから。モトキさんに新しい家族ができたら。僕が高校生になって、学校に来てもらえる機会がぐんと減ったら。ママが再婚したら。……続くわけがないんだ。僕たちの友情は。
今までありがとう、モトキさん。
言いたくて、言えなくて、結局飲み込んだままでいる一言。言えないままでいいんだろうか。……
点滅するイルミネーションの光が、ぼやけて滲んで見える。来年、同じように滲んだ光を見るのかと思ったら、僕は急に胸が痛んだ。
はじまる前に、ちゃんと終わらせないと。……モトキさんに伝えないと。
立ち止まり、踵で回って振り返る。雑踏の中でモトキさんも同じように振り向いていた。目が合う。僕は途端に溢れる思いと涙を抑えられなくなった。頭の中を駆け巡る7年半の思い出に背を押され、僕は大きく息を吸った。
「モトキさん……っ!」
う、う、と嗚咽が言葉を奪いそうになるのを、必死で押しとどめる。僕は叫んだ。
「今までありがとう!最っ高のパパだったよ!」
俯いて泣きじゃくる僕のもとに、あっという間に足音が近付いて、僕は強く抱き締められた。いまや同じくらいの身長のモトキさんに。
「ありがとう……」
モトキさんの声……。初めて聞くような、この震えた声も、苦しいくらいのハグも、頬を濡らす涙も、僕は忘れないだろう。終わりとはじまりの狭間で、ひたすらに思いを通わせたこの時を、冬が訪れる度に思い出すことだろう。
願わくば、モトキさんとの友情を積み重ねた1年を振り返る時間でありますように……。
僕は願いを繋ぎとめるように、強く強くモトキさんのセーターにしがみついた。
《セーター》
《夫婦》
《愛情》
《終わらせないで》
《冬のはじまり》
それは突然の出来事だった。思い思いにざわついていた休み時間、栗山が叩いた机の音はその雑音を一発で鎮圧した。
「うるせーよ!」
怒鳴り声に私はビクッと身を縮めた。栗山はいつもおどけていて、怒っても笑いに変えるようなやつだから、こんな姿は見たことがなかった。それになにより、これは私に向けられた怒りだということが、背中に冷たい風を吹かせた気がした。今まで私が栗山を本気で怒らせたことはない。だから調子に乗っていたんじゃないかと言われたらそれまでだけれど、……今はただ、数学の解き方を聞いていただけなのだ。
「なに、いきなり……」
恐る恐る聞きながら、妙に腹が立ってくる。なんなの、ガチで。意味わかんない。しかもみんなが見ている前で。恥をかかされた、という思いが、栗山を怒らせたショックを上回っていく。
「わかんないから、聞いただけじゃん!」
私も手元の問題集を机に叩きつけた。こえー、と呟く声がする。こんなことで私が悪く言われるようになるのは耐え難い。
「なんなの、急に怒ってさ!」
自分の無罪を表明するかのように声を張った。すると栗山は立ち上がり、つかつかとドアの方へ歩いていった。逃げるの?と引き留めたい気持ちが半分、このまま罪を背負って出ていってくれたら楽だと思う気持ちも半分。相反する思いに逡巡する間を突いて、栗山は振り向いた。私を睨む顔が悲しそうに見えたのはほんの一瞬。
「しつけーんだよ!」
すごい勢いで閉められた引き戸のドアは、跳ね返ってまた開いた。
涙は興奮からくるものだった。でも、友達はみんな、私を慰めた。栗山サイテー、と一方的になじる言葉が連発される。本当になにがなんだかわからない。
どうすればいいの?
心に浮かんだ言葉を反芻し、混乱しながらも思い出した。栗山がキレる直前の、私の最後の問いかけは、
「どうすればいいの?」
だった。
薄ら寒い会議室で、私と栗山は先生達に囲まれながら俯きがちに会話をした。
「……イライラしてて」
栗山は、そう言い訳をした。なににイラついていたのか、いつからイラついていたのか、そういった肝心なことは全て「よくわからない」と逃げたから、結局全てがまさに「よくわからない」。とりあえず思春期の不安定さが原因と結論づけられ、栗山は先生にしっかり諭されてから放免となった。お互いに言いたいことはなにもない、というのが表向き。私達はちがはぐのままそれぞれの居場所へ戻り、言葉を交わすことも顔を見合わせることもなく1日を終えた。
今年同じクラスになってから、栗山とは仲が良かった。むしろ他の女子より近い位置にいる気がしていたから、こんな形で離れるのは悔しい。でも、これはもう、だめなやつかもしれないな……。
盛りのイチョウも見上げることなく、とぼとぼと帰路を歩く。こんな日に限って一緒に帰る人もいない。深まる秋がどんどん気持ちを暗く染めていくようで、私はため息をついた。
公園の角を曲がり切ろうとした時だった。
「下田……」
ぶっきらぼうな呼び声に、私は足を止めた。
「……なに」
びっくりしたことも、待ち構えていてくれたことが嬉しかったことも、そう感じたのは栗山の表情が明らかに凹んでいたからだということも、私は表に出さなかった。意地?よくわからない。
「……ごめん」
小さく頭を下げる栗山。さっき、会議室で、すごく嫌そうに謝ったばかりなのに。ちょっと笑える。
「……いいよ、もう」
本当にどうでもいいと思った。これでまた元に戻れるなら、それでもう全てをチャラにしてやっていい。イラつくことは誰にだってある。たまたま、タイミングが悪かったんだ。いいよ、栗山。
だけど栗山は、公園の柵に沿うようにズルズルとしゃがみ込んだ。
「下田、よく俺に聞くじゃん。どうすればいいって」
「……そんなに?」
なんとなく隣に移動する。栗山は、うん、と頷いた。なにこれ、可愛いかも。
「なんか、嬉しいんだけど、いつも。でもさ、」
少し言い淀んでから、栗山は顔を背けた。
「わかんなかったんだ、あの問題」
……は?
「わかんねーって言うの、なんか無理で」
「負けず嫌い?」
今度はちゃんと笑った。栗山はさらに顔を背けた。
「俺、どうすればいい?」
知らないよ、そんなの。可愛すぎる反応に私はただただ笑った。すると栗山は怒ることもなく、斜め上に私を見上げた。
「下田には、よく思われたい」
「……思ってるよ」
「俺、どうすればいい?」
笑いでごまかす私。だけど、いつまでもそのままってわけにはいかない。
「いいよ、そのままで」
やっとそう返すと、栗山は恥ずかしそうに、これまたやっと、私を見上げた。イチョウの葉がくるくると1枚、2人の世界を彩るように舞い落ちていった。
《どうすればいい?》
「My treasure is...」
窓の外の荒天とは別世界のように長閑な空気に包まれた教室。この時間が終われば今日という日に何事もなく幕を下ろすことができる。早く過ぎ去らないだろうか。……なにもかも。
パチパチ……
心のこもらない拍手に、ハッと身を震わせる。慌てて頬杖を解くと、拍手はすでに消えかかっていた。
「Thank you〜」
ALTが1人テンション高くリアクションし、それから簡単な質問が繰り出された。スピーチを終えた学級委員は緊張が収まりきらない赤い顔でそれに応えている。自分の時は時間が足りないとかで質問が省略されたらいい。そんな後ろ向きな願いを胸に、また外を見る。誰もなにも言わなくても、季節はちゃんと進んでいく不思議。全てがプログラミングされているんじゃないかと思う。神様は信じてないけれど。
「Next!」
はい、と堂々たる日本語で返事をして立ち上がったのは、千早。スラックスの制服がよく似合う。男子と違ってウエストがゴム仕様なのがスタイルに悪影響だと嘆いていたけれど、背が高い千早はシュッとしていて十分かっこいい。
「My treasure is this one.」
手のひらを開いて見せる千早。人差し指に引っ掛けたリングからぶら下がっているのは、遠目にはよくわからないほど小さな飾りだった。ギリギリ判別が付けられそうな前の席の人達が少し身を乗り出したのが分かる。後席は諦めモードが漂っている中、……数人は体を硬直させていた。私も含めて。
「I love our team.I love members.」
千早が手のひらを再び握ったので、キーホルダーは見えなくなった。でも私達には鮮明に思い出せる。1人1人違う色で揃えられたアクリルのハートも、それをくれた時の美耶の顔も。
義理感満載の拍手に軽く頭を下げてから、千早は質問の受け答えに入った。バレーボールチームの話。ドクドクと異常な速さで脈を打つ私の体は、少し震えていた。
千早が堂々と席に戻るのを、私は直視できなかった。ズルい。私はズルい。それに対して、チームの全てに向けて一石を投じた千早の潔さ。口ばかりの私とは違う。子供の頃の写真は確かに「宝物」だ。だけど、今を逃したら私はもっと大きな宝物を失うことになる。
次のスピーチが始まるのも構わず、私は机の横に下げられたカバンに手を突っ込んだ。見えにくい内ポケットに、捨てることも下げることもできず入れっぱなしになっていたキーホルダー。私は薄い黄緑だ。千早は黄色。美耶は青。
久しぶりに直視するそれを、私は指先でそっと撫でた。
なんでこんなことになってしまったのか。なんでもない諍いが美耶を孤立させたこと、美耶と対立した数人の激化していく態度に物申せなかったこと。美耶とはその数人の陰口を叩きながら、チームに行くと美耶には近寄れなかったこと。
これもプログラミングされているのだとしたら、次のコードはきっとこれだ。ぎゅっとキーホルダーを握り締める。考えてきたスピーチの原稿は無駄になった。ほぼ即興で話す下手な英語で、私は一体なにを伝えられるだろう。でも、胸を張って伝えなければ。
My treasure.
私の宝物。
それはかつての、そしてこれからの私達のことだよって。
《宝物》
「な、見て見て」
佐藤くんが得意げに見せてきたのは、赤鼻が光るトナカイだ。おお、と男子たちからは低いどよめきが起こり、女子たちからは高い歓声が上がった。
「褒めて褒めて」
ドヤ顔がちょっと憎たらしいけど、上手いのは事実だ。思う存分得意になってもらおう。完成度の高さに気を良くした私は、改めて周囲を見回した。幸い、飽きた様子の人はいない。
「なあ、決勝どこ?」
「3年だろ、どうせ」
たまに繰り広げられる、クラスマッチについての会話。でも誰も大した熱意はもっていないらしい。それもそのはず、1年生はどこもさっさと負けてしまったから、おかげで皆が暇を持て余している。よほどの理由がなければ、混み合うギャラリーで先輩達を押しのけて観戦しようとは思わない。教室でお菓子をかじりながら適当に過ごすほうが、よほど気持ちいい。
「うわ、足立、エグ!」
誰かが私の手元を覗き込んで声を上げた。それが合図だったかのようにワッと近くの人が集まり、それにまた惹きつけられて人の輪が厚くなる。
「なにこれ、なんで3次元?」
「ああ、これ?簡単だよ。組み立てるだけだから」
私はパーツを1つ外してみせた。へえー、とか、おおー、とか、思い思いに感嘆の声を上げるクラスメイト達。今度は私が得意げになりながら胸を張る。と、1人だけ自分の席から離れない、筋肉質な背中を見つけた。皆がお互いの作品を見せ合う中から抜け出し、後ろから覗き込んでみる。
「……鉛筆?」
「うぉ!」
気配に気づかないほど集中していたのか、筋肉質な背中はビクッと揺れた。その拍子に、手元のピンセットがつかみ損ねたビーズが机にコロリと転がる。
「ちげーよ」
間違えられたのに、なぜか白井は少し嬉しそうに笑った。
「……なに?」
問いかけながら考える。形は、鉛筆と言うよりはガラスペンに近い。でも、白井がガラスペンを知っているとは思えない。……フードを被った人、とか……?いやいや、それじゃ不審者っぽい。……なんだ?
「まだ完成してねーから」
白井はまた作業に戻った。なんとなく後ろから見守っていると、ぽつり、ぽつり、人が集まり始める。
「なんじゃこりゃ」
「あれじゃね?秘密結社の人」
「あれ、白くないっけ?」
サッカー部の仲間は容赦ない。斜め上の予想をしてケラケラ笑っている。
白井は適当に相手をしながら、赤一色の本体からビーズを抜き始めた。崩すのかと思っていたら、抜いたところに透明のラメのビーズを選んで埋め込んでいく。なるほど、文字を入れたわけか。でも、それ……。
「HB?鉛筆?クリスマス関係ねーじゃん!」
どっと笑いが起きた。さっき鉛筆じゃないと言った白井は、完成したのか、細心の注意を払ってプレートを持ち上げた。
「あ、アイロンする?」
教室の隅のアイロンコーナーと化した机に目を向けると、白井は嬉しそうにプレートを持っていった。サッカー部がそれに続き、皆でワイワイ楽しそうにアイロンをかけていく。私はそれを見ながら、やれやれ、と心の中で呟いた。
保健室前に飾るクリスマスの飾りなんだけど……。でも、皆も面白半分で乗り気だとは言え、委員会の仕事を手伝ってもらってる形になるわけだし、まぁいいか、鉛筆でも。プレゼントで鉛筆をもらう子だって、世界中にはたくさんいるはずだ。
「沙希、見て見てー、サンタ!」
不意に呼ばれて振り返る。友達が捧げ持つサンタは後ろ姿で白い袋を担いだ力作だった。私はすぐに心惹かれ、そのまま友達の輪に戻っていった。
クラスマッチが私達の知らぬ間に終わった頃、作品の山を1つ作って作業は終了した。
「皆、ありがとうー!保健室前に下げるから、見に来てね!」
空き箱に収納しながら、白井の鉛筆がないことに気がついた。もしかしたら気に入って自分でもらったのかもしれないし、クリスマスの雰囲気に合わないことがわかって取り下げたのかもしれない。あるいは、アイロンが上手くいかなくて潰れてしまったのかも。大して気にすることなく箱の蓋を閉じた。
ホームルームは簡単に済んだけれど、飾り付けをするほどの時間はない。せめて借りた道具だけでも返そうと荷物をまとめていると、ロッカーに私物を取りに来たらしい白井が、なあ、と声をかけてきた。
「なに?」
「手伝うよ、それ」
アイロンビーズセットのプラケースが1つと、アイロン、アイロン台、作品が入った箱。移動距離は大したことがないけれど、1人で運ぶのは確かにちょっと大変だ。ありがたくお言葉に甘えることにし、私と白井は保健室まで斜め前後に並びながら歩いた。2人きりになったことはない気がするから、なんだか少し緊張する。こんなに肩幅広かったっけ。背も意外と高いんだ。髪、くせっ毛でちょっと可愛いかも。密かに観察してほくそ笑む。それにしても、あの鉛筆どうしたんだろう。2人きりだと無性に気になる……。
「あー、ありがとう。この辺でいいよ」
保健室横の掃除用具室に荷物を並べ、私はそのまま部屋を出ようとした。
「足立」
背後から呼び止める、白井の声。ギュッと胸の辺りが反応する。え、なに、……。
ゆっくり振り返ると、白井はウィンドブレーカーのポケットに手を突っ込み、あの鉛筆を取り出した。
「これ、もらって」
「え?」
あまりに思いがけない展開に、瞬きを連打した気がする。どういうこと?戸惑う私に、白井は鉛筆を押し付けてくる。
「あげる」
いりません、って言ったら失礼かな。豹変して怒り始めるかもしれないし、ここはおとなしくもらっといたほうがいい感じ?あ、それとも、私個人にと言うより委員会にくれるつもりなのかも。さっき入れ忘れたから、とかで。
頭の中でいろいろ考えていたら、白井はポンと鉛筆を投げてよこした。反射的に受け取ってしまい、妙に失敗した気持ちになる。
でも白井は、無邪気な笑顔で私の手の中の鉛筆を指さした。
「なんだと思う?」
「……鉛筆」
「だからぁー、違うって。形が違うじゃん」
「いや、だって、HBって」
白井にも見えるように持ち直すと、白井はドヤ顔になった。
「それ、キャンドル」
……あ、あー。なるほど。
言われてみれば。キャンドルも炎も赤だから、わからなかった。でも。
「え、じゃあ、HBは?」
素直な疑問をぶつける。白井はさらにドヤ顔になった。
「ハピバ」
……あ、あー。なるほど。なんでDを略したかな。教えてあげたい、けど、まぁいいか。
「キリストの誕生日だから?」
呆れた声にならないように気を付けた。白井は頷き、じゃあ、と唐突に別れの挨拶をした。
「あ、うん。じゃあね」
変なやつ。
手の中の鉛筆……じゃなくてキャンドルの扱いに少し困り、飾りの箱の中にしまおうかと考えていると、部屋を出ていきかけた白井が引き戸に手をかけたまま振り返った。平静を装ってるのが伝わってくる。なんなら、心臓の音まで聞こえそうだ。いや待って。どうしたの、白井。だって今まで私達、そんなにしゃべったことすらなかったじゃん。いやいやいやいや、ないでしょ。それはないから。
パニクる私に構わず、……違うな、きっと白井は白井でそんな余裕はなく、ただものすごく早口に、
「あ、そう言えばさ、足立ってクリスマスが誕生日なんだろ?じゃあそれ、足立にハピバってことで」
と言った。
嘘でしょ。告るにも、もうちょいマシなシチュがあるでしょ。くれるものだって、こんな中途半端な……引くでしょこれじゃ。これで喜ぶと思われてたとしたら、ちょっとなんていうか……。いやでも待って。別に告られてはないか。じゃあこれは、ただ単にお近づきの印、的な?え、どういうこと。どうしたら。
「じゃ!」
白井は全てをぶったぎるように去っていった。ぽかん、というオノマトペが頭に浮かぶ。
普通に考えたらあり得ない。だけどなぜか脳内に流れ始めるクリスマスソング。これは何かの魔法かもしれない。正気の沙汰じゃない。なのに、はっきり感じる啓示のような予感。私はきっと、白井を好きになる。もうすでに、運命は動き出している。好みのタイプでもなんでもないのに。話したこともほとんどないのに。でもわかるんだ。私はきっと、白井を……。
気がつくと私は、白井お手製のキャンドルを包む手を胸に当てていた。メリークリスマス。少し早いプレゼントをありがとう。今年のサンタからのプレゼントは、過去一不思議なものになりそうです。
※クリスマスはキリストの誕生日ではありません。
《キャンドル》
白い息を顔の周りに纏わせながら、翔真は急いでやって来た。
「ごめん、遅くなった!」
細く溶けてしまいそうな両の目が、いかにも優しい翔真らしい。こんなに細めて周りが見えないんじゃないかと、本人に尋ねたことがある。その時も翔真は目を細めていて、そのまま、
「見えるよー。ほら、佐々木、今ちょっと首傾けた」
と私の動作を指摘した。私がふざけて変顔をしたりウインクしたりするのを、翔真は細い目で嬉しそうに見てくるので、面白いのと同時に少し照れた。こんなに近くで男子にずっと注目されるのは初めてだったから。
少しずつだったんだと思う。これっていうドラマも何もなく、ただ気付けば翔真を目で追っていた。言葉を交わす時間が楽しみになった。
「緒方先生が、なかなか解放してくんなくて」
翔真は言い訳しながら私を校門の方へ促した。うん、と返事をして従う私。振り向かない。そんなことはしないんだ。
会話はいつも通り、他愛もないことばかり。隣に並ぶことに慣れ、名前で呼び合うことに慣れ、手をつなぐことにも慣れ……。
秋祭りにも2人で行った。頑張って浴衣を着た私が手を振ったら、翔真は真っ赤になって1歩下がった。それが初めて手を繋いだ日。今のところ、翔真との1番の想い出だと思う。
想い出……。
「ねえ、私との1番の想い出ってなに?」
ウザいこと聞いてるな、と自分でも思う。何を試しているんだろう。そして翔真は傾けた首に手を当てる。
「想い出?えー、何だろう。ちょっと待って」
選んでいるのか、思い出せずにいるのか。
そんな疑いの眼差しを向けたことに自分で驚く。ダメだって。
壊したいわけじゃない。なのに、頭も心も言うことを聞かないんだ。
「んーとね、やっぱ、あれじゃない?付き合った日」
人差し指を立てて、恥ずかしさをごまかすようにコミカルに言った翔真に、私は微笑み返した。
付き合った日がピークか。じゃあ、今は。
そんな呟きで胸が痛んでることなんて、翔真はきっと知らない。ヒュウ、と鳴る風に混じって、後ろから微かに笑い声が聞こえた。風を受けたふりをして、一瞬だけ目を閉じる。
1番ならいいと思ってた。翔真の人生を共有した時間の長さは叶わないけど、頂点が自分なら、裾野がどれだけ広くたっていいと思ってた。
だけど……。
醜さを自覚しながら、私はついに振り返った。
「あれ?牧野さん?」
後方を歩いて来る数人の影。翔真は振り向く前から気まずそうにして、振り向いてからはさらに気まずそうに咳払いをした。
2人の人生には10年も共有してきた時間がある。たくさんの想い出も。分かっていたことだ。それでも私を選んでくれたことが嬉しかった。なのに、翔真と時を過ごせば過ごすほど、私は2人の歴史に潰されそうになっていく。私の知らないたくさんの想い出に、勝手に白旗を上げたくなってくる。
「あ、ほんとだ」
細めた目を開けて、翔真は前に向き直った。
足音だけに包まれていく。もう、無理なのかな。
「あのさ……」
何かを言いかけた翔真は、ギリギリのところで飲み込んで、また目を細めた。他愛もない話が再開する。だけど、私達はもう、この瞬間が何でもない想い出として消えていくことを知っている。
濃くなっていく闇の中、私達はずっと何でもない話を消費しながら、ひたすらに時を引き延ばそうと歩を緩めることしかできずにいた。
《たくさんの想い出》