白い息を顔の周りに纏わせながら、翔真は急いでやって来た。
「ごめん、遅くなった!」
細く溶けてしまいそうな両の目が、いかにも優しい翔真らしい。こんなに細めて周りが見えないんじゃないかと、本人に尋ねたことがある。その時も翔真は目を細めていて、そのまま、
「見えるよー。ほら、佐々木、今ちょっと首傾けた」
と私の動作を指摘した。私がふざけて変顔をしたりウインクしたりするのを、翔真は細い目で嬉しそうに見てくるので、面白いのと同時に少し照れた。こんなに近くで男子にずっと注目されるのは初めてだったから。
少しずつだったんだと思う。これっていうドラマも何もなく、ただ気付けば翔真を目で追っていた。言葉を交わす時間が楽しみになった。
「緒方先生が、なかなか解放してくんなくて」
翔真は言い訳しながら私を校門の方へ促した。うん、と返事をして従う私。振り向かない。そんなことはしないんだ。
会話はいつも通り、他愛もないことばかり。隣に並ぶことに慣れ、名前で呼び合うことに慣れ、手をつなぐことにも慣れ……。
秋祭りにも2人で行った。頑張って浴衣を着た私が手を振ったら、翔真は真っ赤になって1歩下がった。それが初めて手を繋いだ日。今のところ、翔真との1番の想い出だと思う。
想い出……。
「ねえ、私との1番の想い出ってなに?」
ウザいこと聞いてるな、と自分でも思う。何を試しているんだろう。そして翔真は傾けた首に手を当てる。
「想い出?えー、何だろう。ちょっと待って」
選んでいるのか、思い出せずにいるのか。
そんな疑いの眼差しを向けたことに自分で驚く。ダメだって。
壊したいわけじゃない。なのに、頭も心も言うことを聞かないんだ。
「んーとね、やっぱ、あれじゃない?付き合った日」
人差し指を立てて、恥ずかしさをごまかすようにコミカルに言った翔真に、私は微笑み返した。
付き合った日がピークか。じゃあ、今は。
そんな呟きで胸が痛んでることなんて、翔真はきっと知らない。ヒュウ、と鳴る風に混じって、後ろから微かに笑い声が聞こえた。風を受けたふりをして、一瞬だけ目を閉じる。
1番ならいいと思ってた。翔真の人生を共有した時間の長さは叶わないけど、頂点が自分なら、裾野がどれだけ広くたっていいと思ってた。
だけど……。
醜さを自覚しながら、私はついに振り返った。
「あれ?牧野さん?」
後方を歩いて来る数人の影。翔真は振り向く前から気まずそうにして、振り向いてからはさらに気まずそうに咳払いをした。
2人の人生には10年も共有してきた時間がある。たくさんの想い出も。分かっていたことだ。それでも私を選んでくれたことが嬉しかった。なのに、翔真と時を過ごせば過ごすほど、私は2人の歴史に潰されそうになっていく。私の知らないたくさんの想い出に、勝手に白旗を上げたくなってくる。
「あ、ほんとだ」
細めた目を開けて、翔真は前に向き直った。
足音だけに包まれていく。もう、無理なのかな。
「あのさ……」
何かを言いかけた翔真は、ギリギリのところで飲み込んで、また目を細めた。他愛もない話が再開する。だけど、私達はもう、この瞬間が何でもない想い出として消えていくことを知っている。
濃くなっていく闇の中、私達はずっと何でもない話を消費しながら、ひたすらに時を引き延ばそうと歩を緩めることしかできずにいた。
《たくさんの想い出》
11/19/2024, 9:57:46 AM