それは突然の出来事だった。思い思いにざわついていた休み時間、栗山が叩いた机の音はその雑音を一発で鎮圧した。
「うるせーよ!」
怒鳴り声に私はビクッと身を縮めた。栗山はいつもおどけていて、怒っても笑いに変えるようなやつだから、こんな姿は見たことがなかった。それになにより、これは私に向けられた怒りだということが、背中に冷たい風を吹かせた気がした。今まで私が栗山を本気で怒らせたことはない。だから調子に乗っていたんじゃないかと言われたらそれまでだけれど、……今はただ、数学の解き方を聞いていただけなのだ。
「なに、いきなり……」
恐る恐る聞きながら、妙に腹が立ってくる。なんなの、ガチで。意味わかんない。しかもみんなが見ている前で。恥をかかされた、という思いが、栗山を怒らせたショックを上回っていく。
「わかんないから、聞いただけじゃん!」
私も手元の問題集を机に叩きつけた。こえー、と呟く声がする。こんなことで私が悪く言われるようになるのは耐え難い。
「なんなの、急に怒ってさ!」
自分の無罪を表明するかのように声を張った。すると栗山は立ち上がり、つかつかとドアの方へ歩いていった。逃げるの?と引き留めたい気持ちが半分、このまま罪を背負って出ていってくれたら楽だと思う気持ちも半分。相反する思いに逡巡する間を突いて、栗山は振り向いた。私を睨む顔が悲しそうに見えたのはほんの一瞬。
「しつけーんだよ!」
すごい勢いで閉められた引き戸のドアは、跳ね返ってまた開いた。
涙は興奮からくるものだった。でも、友達はみんな、私を慰めた。栗山サイテー、と一方的になじる言葉が連発される。本当になにがなんだかわからない。
どうすればいいの?
心に浮かんだ言葉を反芻し、混乱しながらも思い出した。栗山がキレる直前の、私の最後の問いかけは、
「どうすればいいの?」
だった。
薄ら寒い会議室で、私と栗山は先生達に囲まれながら俯きがちに会話をした。
「……イライラしてて」
栗山は、そう言い訳をした。なににイラついていたのか、いつからイラついていたのか、そういった肝心なことは全て「よくわからない」と逃げたから、結局全てがまさに「よくわからない」。とりあえず思春期の不安定さが原因と結論づけられ、栗山は先生にしっかり諭されてから放免となった。お互いに言いたいことはなにもない、というのが表向き。私達はちがはぐのままそれぞれの居場所へ戻り、言葉を交わすことも顔を見合わせることもなく1日を終えた。
今年同じクラスになってから、栗山とは仲が良かった。むしろ他の女子より近い位置にいる気がしていたから、こんな形で離れるのは悔しい。でも、これはもう、だめなやつかもしれないな……。
盛りのイチョウも見上げることなく、とぼとぼと帰路を歩く。こんな日に限って一緒に帰る人もいない。深まる秋がどんどん気持ちを暗く染めていくようで、私はため息をついた。
公園の角を曲がり切ろうとした時だった。
「下田……」
ぶっきらぼうな呼び声に、私は足を止めた。
「……なに」
びっくりしたことも、待ち構えていてくれたことが嬉しかったことも、そう感じたのは栗山の表情が明らかに凹んでいたからだということも、私は表に出さなかった。意地?よくわからない。
「……ごめん」
小さく頭を下げる栗山。さっき、会議室で、すごく嫌そうに謝ったばかりなのに。ちょっと笑える。
「……いいよ、もう」
本当にどうでもいいと思った。これでまた元に戻れるなら、それでもう全てをチャラにしてやっていい。イラつくことは誰にだってある。たまたま、タイミングが悪かったんだ。いいよ、栗山。
だけど栗山は、公園の柵に沿うようにズルズルとしゃがみ込んだ。
「下田、よく俺に聞くじゃん。どうすればいいって」
「……そんなに?」
なんとなく隣に移動する。栗山は、うん、と頷いた。なにこれ、可愛いかも。
「なんか、嬉しいんだけど、いつも。でもさ、」
少し言い淀んでから、栗山は顔を背けた。
「わかんなかったんだ、あの問題」
……は?
「わかんねーって言うの、なんか無理で」
「負けず嫌い?」
今度はちゃんと笑った。栗山はさらに顔を背けた。
「俺、どうすればいい?」
知らないよ、そんなの。可愛すぎる反応に私はただただ笑った。すると栗山は怒ることもなく、斜め上に私を見上げた。
「下田には、よく思われたい」
「……思ってるよ」
「俺、どうすればいい?」
笑いでごまかす私。だけど、いつまでもそのままってわけにはいかない。
「いいよ、そのままで」
やっとそう返すと、栗山は恥ずかしそうに、これまたやっと、私を見上げた。イチョウの葉がくるくると1枚、2人の世界を彩るように舞い落ちていった。
《どうすればいい?》
11/22/2024, 9:56:48 AM