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11/11/2024, 12:42:23 PM

 ぽつり、ぽつり。
 樋の裂け目から滴り落ちる雫を眺め、胸の内でリズムを合わせる。降水確率30%とは思えないほど堂々たる降り。これは線状降水帯が到来した場合をMaxとしての数値なんだろうか。天気予報が何と言ったところで結果は変わらないのだから、責めるべきはそこじゃない。分かってはいるけれど、今日は先週から待ち焦がれていた日だってのに。朝から期待させておいてこれかよ、と今朝のお天気キャスターに文句の1つもぶつけたくなる。
「おーい、アップさぼんなよ」
 振り向くと、体から湯気が立ってそうなトラと目が合った。
「終わったんだよ」
 我ながら不機嫌丸出しだなと呆れる。でも、仕方ないよな。トラなら分かってくれるはず。
「速すぎね?考えろよ」
 ホールの出窓に放り投げてあったタオルを拾い、トラはガシガシと顔を拭いた。ついでに頭も。切り過ぎたって恥ずかしそうにしてたけど、トラは短髪が似合う。
「あー、晴れねーかな」
 恨めしく空を見上げる俺のケツをトラが蹴りつけた。特に意味なんかない。目の前にケツがあったから蹴っただけ。俺達のコミュニケーションスキルなんて、この程度だ。
「次の記録会は出れるんだろ?」
 俺の反撃を身軽にかわしたトラが、ファイティングポーズをとってみせる。俺は自分のタオルで適当に攻撃を仕掛けながら、出るよ、と清々しく答えた。やっと言えた。ほんとにさ、こんなに長くなるなんてな。
「無理すんなよ。逆足切るとか笑えねーから」
 トラはそう言って笑ったけど、俺がアキレス腱をぶっちぎってから今まで、トラは1度もそのことを笑わなかった。むしろちょっと泣いてた。
 ズン、と腹の辺りが重くなる。それは、俺を笑った顔を思い出したからだ。あの日から俺は、あいつと口をきいてない。でも、もう逃げられない。委員会で遅れてくるらしいあいつは、そろそろこのホールに来るはずだ。
「あ……」
 トラがファイティングポーズをやめた。すうっと俺の後ろに流れる視線。振り向かなくても分かる。
 優しいトラは俺の肩をポンと叩いてから、あいつの方へ駆けていった。たぶんまたケツを蹴りに行ったんだろうけれど、その結果は分からない。ただじゃれ合う声だけが聞こえていた。
 あの時、あの声で、あいつは俺を笑った。ギプスの足をぶら下げながら登校した俺を指さして、
「飛べない翼」
 って笑ったんだ。
 ふざけたつもりだったんだろ。「卜部」っていう俺の名字は小学生の時から「とべ」ってあだ名に変えられていて、高跳びにハマって以来、下の名前と合わせて「飛べ翼」って上手い具合に呼ばれてたから。
「飛べない翼」
 背が高くて、練習しなくても俺と張るくらいに跳べるあいつが、俺を指さして爆笑したのが許せなかった。ぶっ飛んだ松葉杖はあいつの額にアザを作り、俺達は口をきかなくなった。
「とべっち、ほら見ろよ、捕獲成功ー」
 チャンスをくれるトラ。トラに免じて……俺は、ゆっくり、振り向いた。
 トラにガッチリ押さえ込まれたあいつ。俺と目が合うと、あいつはスッと口角を下げた。あれ?と違和感に眉が寄る。それが何なのか、数秒経って気がついた。背が高いと思っていたあいつが、トラとほとんど変わらない。ってことは、俺ともきっと……。追いついてたんだ、離れていたうちに。
 そして瞬時に理解する。あの時、トラが「飛べない翼」って笑ったって、俺はキレたりしなかったはず。でも、あいつが心配そうな顔で手を差し伸べてきたって、俺は松葉杖を投げたかもしれない……。見上げなきゃいけないあいつのことが気に入らなかったんだ。「飛べない翼」は言い訳でしかなくて。
「……とべっち……」
 あいつはトラを引き剥がし、俺の前までやって来た。やっぱり目線はほとんど同じ。
 ごめん、を言い出せない俺達はしばらく向かい合ったままでいた。呆れるコミュニケーションスキル。でも、ここで終わりにしないとな。
「飛べない翼、じゃねーからな。もう。」
 言えてしまったら、気恥ずかしさの混じる苦笑いが浮かんだ。あいつも同じ。
「……飛べ翼」
 ごめんも言い訳もどうでもいい。どうしようもなく低いコミュニケーションスキル。俺達はさっきのトラとあいつみたいに組み合ってから、雨のグラウンドに駆け出していった。そして、あっという間にずぶ濡れにしていく雨に心から感謝しながら、互いのケツを狙って大騒ぎで転げ回った。

《飛べない翼》

11/10/2024, 7:26:21 AM

「……その姿が、のううらに焼きついています。」
 ん?のううら?
「ちょ、ストップ!」
 片手を上げると、高遠のスピーチは止まった。ミスの心当たりがないらしく、手元の原稿を確認しながら首を傾げている。
「なんつった?さっきの1文」
「え?どこの?」
 数歩の距離を詰め、原稿を指さすと、高遠は低く抑揚を消した早口でミスの上塗りをした。お得意のボケの可能性も捨てきれなかったけど、ガチで間違えてたのか。
「のううらじゃねーよ」
「え?そうなの?」
「の う り」
 高遠は、へぇー、と感心したふうに胸ポケットからシャーペンを取り出し、ふりがなを振った。
「その姿が、脳裏に焼きついています。その姿が、脳裏に焼きついています。その姿が、脳裏に焼きついています。脳裏、脳裏」
 2度目からは目を閉じ、高遠は頭に叩き込むように繰り返した。そして小さく、よし、と呟くと顔を上げた。
「おっけ。覚えた」
 サムズアップ。大丈夫かな。お調子者の高遠をイマイチ信じきれないまま、俺はその先の練習を最後まで見届けた。
「間に合いそうじゃん。いけるいける」
 のううら以外は大きなミスはなかった。通学カバンに原稿と筆記用具を突っ込んで高遠を見ると、案外ていねいに原稿をファイルにしまい込んでいるところだった。
「だっろー?お任せください」
 また、サムズアップ。昔から、高遠のトレードマークみたいになってる。
「演説会までに暗記完成してればいいんだろ?余裕ですから」
 残りの日数を指折り数えて頷く高遠の笑顔は明るい。普段はお調子者だけど、ココという所は外さない。高遠はそんな男だ。この演説会は高遠にとってココの1つなんだろう。ありがたい。
「田代、今日は歩き?」
 なんとなく早足で玄関に向かっていると、高遠が聞いてきた。
「おー」
 珍しく不自然に途切れる会話。妙な感覚を打ち消したくて、自分から次の手を出した。
「高遠は?」
「歩き」
 高遠は家が近いと言っていたから、歩きだということは知っていた。でも、人のことを気にするのだから自分は特別なことでもあるのかと思ったんだ。ねーのかよ、何にも。
「あ、じゃ、一緒に行こう。お前んち、どっち?」
 高遠の家のギリギリ近くまで経路が被ることを確認し、俺達は日の暮れた田舎道に並んで踏み出した。
 しばらくは、どうでもいい雑談が続いた。高遠とはなかなかに趣味が合う。学校で面白いと思った瞬間も、家で楽しく見ている動画も、気持ちよく重なる部分が少なくないのだ。こんなことになるまで個人的に付き合ったことはあまりなかったけど、それが惜しくさえ思われた。
「あー、あの角。あそこで、そっち。俺んち」
 高遠が数ブロック先の角を指さす。また、妙な感覚。終わりを示して何かを準備したいんじゃないかって……考えすぎだろうか。
「すっげ近いな。うらやましい」
 俺の家はこの倍以上の距離の先にある。これだけ近かったら忘れ物も取りに来れそうだ。うらやましい、は本音だったけど、なんとなく今は、もう少し遠くてもいいように感じている。高遠も、きっと同じはず。
「あー、あのさ」
 来た。高遠が仕掛けてきたのを、俺は小さく深呼吸して受け止めた。
「俺、田代のために頑張る」
 健気な決意表明。不覚にも喉が詰まる。
「先生に言われたからとかじゃないんだ。あ、言われはしたんだけど。言われなくても、自分からそうしようって決めてて。田代の応援、したかったんだ、俺が」
 お調子者だけどお人好しの高遠のことだから、断れなかったんじゃないかと思っていた。自分から思ってたなんて意外だった。
「ほんとのことが何なのか、俺、バカだからあんまりよくわかんないんだけど、でも、田代は皆が言うような、すげーヤバいやつじゃないと俺は思ってるし」
 軽くディスったことには気が回らないらしい。でも不思議と嫌な気にはならなかった。
「それに……俺も合唱は田代と同じ気持ちだった。もっとできたと思う。悔しかった。結果じゃなくて、経緯が。田代が勇気出して言った時、俺、なんか、すげーカッコいいなって思った。だから、ほんとは最初から、田代の応援したかった。声かけてくれるわけないって思ってたから、それも悔しくて。だから、こんなことになっちゃったけど、俺、嬉しいんだ。田代には悪いんだけど」
 へへ、と高遠は照れくさそうに笑った。俺が皆から切られるきっかけになった学活での合唱批判事件。高遠の心には響いていたなんて。
「選挙、頑張ろう。俺が応援するって言ったらさ、あつしとか、もっちんとか、あぁバスケ部の奴らね?田代のこと応援するって言ってたし。吹奏楽も、俺が演説でミスるの楽しみにしてるって言ってくれたし、2組の人たちも、1年生もさ……なんか、そんな惨敗ってわけにもならないかも」
 かなりディスってるけど、気づいてねーんだろうな。でも、本当に、不思議と嫌な気にならない。できそうな勇気すら湧いてきた。
「ありがとう」
 言ってから思った。俺、ありがとうとか言ってきたかな。言いたいことだけ言って、感謝とか労いとかは二の次で。なのにまた、やりたいことだけやろうとしている。人のためとか偉そうに語るつもりだけど、そんな資格ないのかも。人のせいにしてきたのは、俺だ。合唱だって、指揮者の俺が、もっと皆の気持ちを引っ張ってかなきゃいけなかったんだ。
「あつしとか、もっちんとか、ありがとうって伝えといて。……いや、俺、直接言いたいな」
 高遠の顔が一気に明るくなった。
「もちろん!バスケ部、全員バカだけど、すげーいいやつらだから!明日一緒に、昼休みバスケしない?」
 角に着いたけれど、俺達は名残惜しくて長々と粘った。俺の塾の時間に間に合わなそうで、やっと手を振り合って背を向けてから、俺はまた振り返った。後ろ向きに歩きながら。
「高遠!覚えてる?間違えたところ!」
「えーとね、脳裏!任せろ!」
 サムズアップ。闇の中で朧気なその形を脳裏に焼きつけた。でもさ、間違えてもいいのかもしれないな。吹奏楽の子達が楽しみにしてるなら。
 暗闇で俺達はもう1度、大きく手を振った。

《脳裏》

11/9/2024, 5:24:05 AM

うーん、と唸り声を上げ、僕は顔を上げた。
「meaninglessとpointlessの違いってなに?」
「ん?んーー……」
 僕と同じように唸り声を上げたあきにいは、さっきからニヤニヤ眺めていたスマホを少し神妙な顔で見つめ直した。
「んーと……meaninglessは行動自体に意味がなくて無駄な感じ?pointlessは目的とか結果につながらないから意味がない感じ、かな」
「へえー。ありがとう、グーグル様」
「なんだよ、かわいくねーな。最初から自分のグーグル様に聞けよ」
 あきにいは悪態をつきながら、またニヤニヤに戻った。なに見てんのかな。気になるけど、とりあえず意識を英作文に戻す。
「どんな文、書きたいの?」
「僕は意味がないことを続けています」
 はははっ、とあきにいが笑った。
「なにそれ!英作文ってもっと無難なこと書くもんなんじゃねーの?」
 そうかもしれないけど、課題は「継続していること」だから間違ってはいないはず。確かに友達は野球とか無難な感じで書こうとしてたけど。
「いいんだよ」
 ちょっとムキになった僕に、あきにいは食いついてきた。
「なにを続けてんだよ、お前はさ」
「言わない」
 さらにムキになったら、あきにいはスマホを置いた。頭を上げて片肘で横向きに支える。
「お前、絶賛恋愛中だろ」
 ……
「わかりやす!耳、真っ赤!」
 笑い声が頭に響く。うるさいな。
「誰?クラスの子?それとも塾?」
 いよいよあきにいはソファーをおりた。スマホより面白い娯楽を見つけたって感じなんだろう。
「知らない」
「なにそれ?一目惚れ的な感じ?」
 胸の奥がチリッと痛む。と同時に、この痛みをあきにいにも与えたいという思いが急に心の奥から湧き出した。それこそ意味がないことなのに。
「……ななさん」
 言ってしまってから全身にぶわりと鳥肌が立った。なんてことを。心臓が肋骨を突き破って出てきそうに激しく脈打つ。違うって言わなきゃ。焦れば焦るほど、凍りついた体が動かなくなっていく。
「……おい」
 冷たく重い、あきにいの声。当たり前だ。自慢のななさん。怒るに決まってる。なのに、あきにいの声はむしろ優しくトーンダウンした。
「……おい」
 泣いてごまかすみたいで情けない。だけど、涙は次から次へと溢れてくる。なんの涙なのか説明しろと言われてもできそうにない。止まれ止まれ、と祈りながら、心の一部はそんな自分自身を理解していた。今じゃなくても、この瞬間は訪れるはずだったことも。
「なんか、……ごめん」
 謝んないで。もっと情けなくなるから。
「あ、えーと、アイス買ってきてやろうか。なんだっけ、お前の好きなやつ」
「もういい」
 僕は無様に退散することにした。情けない。本当に。駆け込んだ部屋で、ドアにもたれながら俯く。僕のこの思いはmeaninglessなんだろうか。それともpointless?恋心に意味なんかない。時間や感情の無駄遣いなのかも。だけど、恋愛の終着点はたぶん、生物の本能としての繁殖なはず。だとしたら、この恋は目的も結果もない。pointless?
 せめて意味のある恋をしたい。この思いに意味を持たせたい。結果なんか、実ることなんか望んでないけど、無駄に終わらせたくはない。今は無理でも、いつか。
 ごめん、あきにい。今はまだ。
 僕は意味がないことを続けています。

※英単語の意味は2人の独自の解釈です

《意味がないこと》

11/7/2024, 1:47:23 PM

 底砂の上でモゾモゾ動く個体は、眺めているだけで幸せを感じる。薄ピンクが1匹と黒の斑模様が1匹。たぶん、番ではない。2年半飼育していて1度も繁殖しなかったから。来たばかりの頃はカレカノ設定だった2匹は、いまやすっかり友達同士に設定を変えられ、部員がアテレコで遊ぶ際にも甘い言葉ではなく毒舌のツッコミを掛け合う仲になっていた。
 ただ、当初の名残が2匹の名前に残っている。
「幸せになるんだよ」
 水槽に目線を合わせて覗き込んだら不覚にも泣きそうになった。美術部でありながら生体を飼育するなんて、まともに考えたらおかしいことなわけで。最初に連れてきてしまった私たちの代と一緒に、この子達は部活を引退することになったのだ。本当は私が連れて帰りたかった。でも、家には3匹の猫がいる。万が一を思うと決断できなかった。
 他の部員は私ほどにはこの子達に執着がないらしく、里親探しは部外に広げられた。そして今日、無事に2匹揃って引き取られていく。
 里親探しが難航した理由の1つに、2匹揃ってという条件が挙げられる。寂しいという感情があるかどうかは別として、私の感覚がどうしても2匹を引き離すことを許さず、この条件は譲れなかった。おかげで、1匹なら、という申し出はいくつかあったけれど、全て断ってしまっていた。2匹まとめて引き取ってくれるという慈悲深い生徒は、たぶんもうすぐやってくる。待ち合わせに先駆け、私は最後の餌やりをしに来たのだ。
 吸い込みながら餌を食べる姿がまた愛らしい。ほのぼのと眺めていると、廊下からざわめきが聞こえ始めた。待ち合わせの時間ぴったり。約束を守る人なら、きっと大事に飼ってくれるはず。すん、と鼻を鳴らし、私は腰を上げた。お別れは、笑顔じゃないと。
「こんにちはぁー」
 美術部員に連れられて入ってきた里親は、やたら爽やかな男子生徒だった。男子だとは聞いていたけれど「食べるのが好きだから食用にするつもりかなあ」なんて冗談交じりの情報も提供されていたから、もっと違うタイプを想像していた。ウーパールーパーなんかに全く興味はなさそうだ。途端に心の中に不安が渦巻く。連れてきた部員仲間は可愛い子だし、もしかして彼女狙いで引き受けたとか……。
 いやいや、疑うなんて申し訳ない。きっとこう見えて水生動物好きなんだ。安心して任せよう。
「あ、これ?へぇー、思ってたより小さい感じ」
 水槽を覗く顔も爽やかだ……けど、……。
「うわぁ、口でか!食ってる!なんか食ってる!」
 ……。
 連れてきた美術部員の手を引き、少し後ろに連れていく。
「ね、大丈夫?あの人、ウーパールーパー、知ってる?」
 私に腕をつかまれたままの部員は整った顔を可愛らしく綻ばせた。
「知らなかったみたい。でも、頑張って飼うって言ってたよ」
 これは……。
 断りたい。でも、この空気で私が騒ぎ出したら……。いろんなものをぶち壊すことになる気がする。失うものも大きいかもしれない。……でもでも、命は何よりも重いはず……。
「あ、そうだ。名前とかあるの?」
 爽やかな顔が振り向く。私は取り繕った笑顔を作った。
「あなたとわたし、です」
「え?」
「黒が、あなた。ピンクが、わたしです。」
「ん?」
 爽やかな笑顔に戸惑いが混じる。カレカノ設定でアテレコをして遊んでいた頃、ピンク目線の寸劇が得意な先輩部員が「あなた」と「わたし」を使っていたせいで、それがそのまま名前として定着してしまった経緯を、私は全力で伝えた。
「ははっ、面白っ!」
 爽やかさを取り戻した笑顔がウーパールーパーに向けられる。
「あなたとわたし、かぁ。よろしく」
 ……やっばり、ちょっといい人かも……。
 いや、私、チョロすぎないか……。
 悶々とする私の前で、爽やかな彼と可愛い部員仲間は協力して2匹を小さなケースに入れ、水槽の水を抜いた。
「それじゃ、連れて行くね」
「あ、はい……」
「ほら、お別れだぞ」
 ケースを持ち上げて私の顔の前に差し出してくれるこの人は、たぶん、すごくいい人だ。もう信じるしかない。見慣れたピンクと黒の顔を見たら、じわりと涙が滲んだ。さよなら、あなたとわたし。幸せにしてもらうんだよ。お別れは笑顔じゃないと。無理に微笑んでみる。あなたもわたしも、私の顔なんて見えていないだろうけど。
「たまに、見にきなよ」
 爽やかな彼は優しい声で思い切った提案をしてきた。私が涙ぐんだから同情したんだろうか。
「いえいえ、元気でいてくれれば、私は別に」
 顔の前でブンブンと手を振る私に、爽やかなまなじりがさらに優しく緩んだ。
「おれんち、田島屋。学校前の」
 ああ、田島屋と言えば先生達御用達の定食屋さん。入ったことはないけど、なるほど、おそらくお店の中で飼うつもりなのだろう。妙に安堵する。定食屋さんのアイドルになれるなら、美術室の隅でひっそり飼われるよりずっと幸せになれそうだ。
「あ、じゃ、じゃあ、たまに……」
 ふふ、と彼は笑った。
「ほんとに、おいでよ。大事に飼ってたんだから、ほんとはすごく寂しいでしょ?あなたとわたしも寂しいと思うし…会いに来て」
 その瞬間、なにかに撃ち抜かれた。生まれて初めて。あなたとわたし、が私と彼のことに聞こえてしまったせいもあるのかもしれない。彼と部員仲間の関係はどうなのよ、とか、冷静に考えてこの人のことなにも知らんでしょ私、とか、そういう真っ当な疑問は浮かんでも消えていくばかりだ。なんだか分からないパワーが胸の奥からムクムクと湧いてくる。怖いほどの無敵感。
 さよならじゃないよ、あなたとわたし。今から第二章が始まるから。私は胸の中に熱い決意を抱いたまま、遠ざかる彼と部員仲間、あなたとわたしを見送った。

《あなたとわたし》

11/7/2024, 8:42:24 AM

 なんか寒すぎると思ったんだよなぁ。今季1番の冷え込みだってパパが呟いてたから、そんなもんかと思ってたけど。まさか熱が出るなんてなぁ。ついてないなぁ。今日は調理実習があって、ポテトサラダを作るはずだったのに。あーあ。
「未華ー、お待たせー」
「顔また赤くなってない?」
「よしよし、かわいそうに。ゆっくり休むんだよ」
 賑やかに荷物を運んでくれたのは、いつもの仲間たち。しおれそうな気持ちがヒュンと戻りかけたところで、敷居の上に所在なさげに立つ人影に気が付いた。
「……はい」
 なにか言いたそうな顔だったから、なにも聞かれてないのに返事をしてしまった。仲間たちが一斉に振り向き、大げさに驚いて声を上げる。このノリが心地よい。
「これ、中村が持っていけって」
 原田は学ランの腕を差し出したけれど、そこからじゃ全然届かない。ちぐはぐな距離感に、私たちは高い笑い声を上げた。心なしか、原田のよく焼けた顔が少し赤らんだ気がした。
 原田は抜群に頭がいいやつだけど、みんなの先頭に立って騒ぐようなタイプではない。もちろん一目置かれる存在ではあるものの、女子の前でぶっきらぼうになるところなんかは、むしろからかわれがちでもあった。
「なんで、原田?」
 1番近くにいた友達が、受け取りがてら質問したのにも、原田は口を軽く尖らせただけで言葉を返さなかった。
「日直?」
 もう戻ろうとしていた原田に、別の友達が質問を重ねる。原田は首を振り、
「たまたま」
 とだけ言った。そして、こっちのリアクションを確認する間もなく保健室を出ていった。
「原田って感じ」
 友達の評価に、また皆で笑う。なにが原田って感じなのか、全員が基準を共通認識しているわけではないのかもしれない。ただ、私たちはこういう小さな遊びを通して空気感を共有したいだけなのだ。
「あら、ありがとうね」
 保健の先生が戻ってきたことで、私たちの空気感はまた変容する。素直な良い子感をにじませながら、平和な雑談をちょっと楽しみ、やがておとなしく解散の流れになった。演じている気がする。求められている自分を。嫌ってわけじゃないけれど。
 パパの迎えを待つ間、ぼんやり鈍い頭で外を眺めるのにも飽き、私はなんとなくプリントの束を捲ってみた。他に暇つぶしできそうなものがなかったから。
 下の方に、返却されたらしい美術の作品が混ざっていた。校舎周りの風景画を鉛筆デッサンしたもので、にわか雨の粒を描き入れたところが我ながら気に入っていた。絵は好きな方だ。これも提出した時点で先生に褒められていたし、仲間たちからも散々うまいともてはやされていたから、見返すと気分が上がるアイテムだった。
 裏返す。自分の書いた鉛筆のコメントが目に入る。
「タイトルが浮かびません!」
 タイトルを付けるように言われてたけど、言葉のセンスはあまり良くないからいいものが浮かばなかった。深く考えるのも面倒くさくて、これで許してもらおうと殴り書きした乱雑な字だ。
 なんだろな。雨の校舎?フツー。
 ほどなくしてパパが到着し、私は家で少し眠った。温かいベッド。調理実習の夢を見た気がした。詳しくは覚えていないけれど。
 さっきより完全にぼんやり度が増した頭で、スマホを手繰り寄せる。ラインの通知。開くと、ポテトサラダの画像が送られていた。実習の記録として各自がタブレットで撮影するのに紛れて、わざわざ私に送信する用に撮影したらしい。私への簡単なメッセージが書かれた色とりどりのメモが周囲を飾っている。
「あれ?」
 隅っこに半ば追いやられた感じの、異質な1枚。
『タイトル 柔らかな雨』
 何この気持ち悪いコメント……。誰の字?
 訝しんで画面の文に目を通す。
「雨は原田 キモくない?」
 え、と声が出かかった。
 この顔の熱さは熱のせいじゃない。そして原田のコメントはキモくない。いつもなら一緒になってキモイキモイと笑い転げるところだけど。原田ってやっぱり…って言っちゃうところだけど。
 柔らかな雨。
 慌てて鉛筆のデッサンを机の上から拾い上げる。そう言えば、原田は絵が苦手だった。この時も独特な画風を仲間がからかって、原田は顔を赤くしていたんだった。なのに、…。
 熱のせいかな。呆気なく決壊した涙腺。ぽとり、と涙の粒が膝に落ちた。まるで柔らかい雨のように。

《柔らかな雨》

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