Apollo

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 底砂の上でモゾモゾ動く個体は、眺めているだけで幸せを感じる。薄ピンクが1匹と黒の斑模様が1匹。たぶん、番ではない。2年半飼育していて1度も繁殖しなかったから。来たばかりの頃はカレカノ設定だった2匹は、いまやすっかり友達同士に設定を変えられ、部員がアテレコで遊ぶ際にも甘い言葉ではなく毒舌のツッコミを掛け合う仲になっていた。
 ただ、当初の名残が2匹の名前に残っている。
「幸せになるんだよ」
 水槽に目線を合わせて覗き込んだら不覚にも泣きそうになった。美術部でありながら生体を飼育するなんて、まともに考えたらおかしいことなわけで。最初に連れてきてしまった私たちの代と一緒に、この子達は部活を引退することになったのだ。本当は私が連れて帰りたかった。でも、家には3匹の猫がいる。万が一を思うと決断できなかった。
 他の部員は私ほどにはこの子達に執着がないらしく、里親探しは部外に広げられた。そして今日、無事に2匹揃って引き取られていく。
 里親探しが難航した理由の1つに、2匹揃ってという条件が挙げられる。寂しいという感情があるかどうかは別として、私の感覚がどうしても2匹を引き離すことを許さず、この条件は譲れなかった。おかげで、1匹なら、という申し出はいくつかあったけれど、全て断ってしまっていた。2匹まとめて引き取ってくれるという慈悲深い生徒は、たぶんもうすぐやってくる。待ち合わせに先駆け、私は最後の餌やりをしに来たのだ。
 吸い込みながら餌を食べる姿がまた愛らしい。ほのぼのと眺めていると、廊下からざわめきが聞こえ始めた。待ち合わせの時間ぴったり。約束を守る人なら、きっと大事に飼ってくれるはず。すん、と鼻を鳴らし、私は腰を上げた。お別れは、笑顔じゃないと。
「こんにちはぁー」
 美術部員に連れられて入ってきた里親は、やたら爽やかな男子生徒だった。男子だとは聞いていたけれど「食べるのが好きだから食用にするつもりかなあ」なんて冗談交じりの情報も提供されていたから、もっと違うタイプを想像していた。ウーパールーパーなんかに全く興味はなさそうだ。途端に心の中に不安が渦巻く。連れてきた部員仲間は可愛い子だし、もしかして彼女狙いで引き受けたとか……。
 いやいや、疑うなんて申し訳ない。きっとこう見えて水生動物好きなんだ。安心して任せよう。
「あ、これ?へぇー、思ってたより小さい感じ」
 水槽を覗く顔も爽やかだ……けど、……。
「うわぁ、口でか!食ってる!なんか食ってる!」
 ……。
 連れてきた美術部員の手を引き、少し後ろに連れていく。
「ね、大丈夫?あの人、ウーパールーパー、知ってる?」
 私に腕をつかまれたままの部員は整った顔を可愛らしく綻ばせた。
「知らなかったみたい。でも、頑張って飼うって言ってたよ」
 これは……。
 断りたい。でも、この空気で私が騒ぎ出したら……。いろんなものをぶち壊すことになる気がする。失うものも大きいかもしれない。……でもでも、命は何よりも重いはず……。
「あ、そうだ。名前とかあるの?」
 爽やかな顔が振り向く。私は取り繕った笑顔を作った。
「あなたとわたし、です」
「え?」
「黒が、あなた。ピンクが、わたしです。」
「ん?」
 爽やかな笑顔に戸惑いが混じる。カレカノ設定でアテレコをして遊んでいた頃、ピンク目線の寸劇が得意な先輩部員が「あなた」と「わたし」を使っていたせいで、それがそのまま名前として定着してしまった経緯を、私は全力で伝えた。
「ははっ、面白っ!」
 爽やかさを取り戻した笑顔がウーパールーパーに向けられる。
「あなたとわたし、かぁ。よろしく」
 ……やっばり、ちょっといい人かも……。
 いや、私、チョロすぎないか……。
 悶々とする私の前で、爽やかな彼と可愛い部員仲間は協力して2匹を小さなケースに入れ、水槽の水を抜いた。
「それじゃ、連れて行くね」
「あ、はい……」
「ほら、お別れだぞ」
 ケースを持ち上げて私の顔の前に差し出してくれるこの人は、たぶん、すごくいい人だ。もう信じるしかない。見慣れたピンクと黒の顔を見たら、じわりと涙が滲んだ。さよなら、あなたとわたし。幸せにしてもらうんだよ。お別れは笑顔じゃないと。無理に微笑んでみる。あなたもわたしも、私の顔なんて見えていないだろうけど。
「たまに、見にきなよ」
 爽やかな彼は優しい声で思い切った提案をしてきた。私が涙ぐんだから同情したんだろうか。
「いえいえ、元気でいてくれれば、私は別に」
 顔の前でブンブンと手を振る私に、爽やかなまなじりがさらに優しく緩んだ。
「おれんち、田島屋。学校前の」
 ああ、田島屋と言えば先生達御用達の定食屋さん。入ったことはないけど、なるほど、おそらくお店の中で飼うつもりなのだろう。妙に安堵する。定食屋さんのアイドルになれるなら、美術室の隅でひっそり飼われるよりずっと幸せになれそうだ。
「あ、じゃ、じゃあ、たまに……」
 ふふ、と彼は笑った。
「ほんとに、おいでよ。大事に飼ってたんだから、ほんとはすごく寂しいでしょ?あなたとわたしも寂しいと思うし…会いに来て」
 その瞬間、なにかに撃ち抜かれた。生まれて初めて。あなたとわたし、が私と彼のことに聞こえてしまったせいもあるのかもしれない。彼と部員仲間の関係はどうなのよ、とか、冷静に考えてこの人のことなにも知らんでしょ私、とか、そういう真っ当な疑問は浮かんでも消えていくばかりだ。なんだか分からないパワーが胸の奥からムクムクと湧いてくる。怖いほどの無敵感。
 さよならじゃないよ、あなたとわたし。今から第二章が始まるから。私は胸の中に熱い決意を抱いたまま、遠ざかる彼と部員仲間、あなたとわたしを見送った。

《あなたとわたし》

11/7/2024, 1:47:23 PM