「……その姿が、のううらに焼きついています。」
ん?のううら?
「ちょ、ストップ!」
片手を上げると、高遠のスピーチは止まった。ミスの心当たりがないらしく、手元の原稿を確認しながら首を傾げている。
「なんつった?さっきの1文」
「え?どこの?」
数歩の距離を詰め、原稿を指さすと、高遠は低く抑揚を消した早口でミスの上塗りをした。お得意のボケの可能性も捨てきれなかったけど、ガチで間違えてたのか。
「のううらじゃねーよ」
「え?そうなの?」
「の う り」
高遠は、へぇー、と感心したふうに胸ポケットからシャーペンを取り出し、ふりがなを振った。
「その姿が、脳裏に焼きついています。その姿が、脳裏に焼きついています。その姿が、脳裏に焼きついています。脳裏、脳裏」
2度目からは目を閉じ、高遠は頭に叩き込むように繰り返した。そして小さく、よし、と呟くと顔を上げた。
「おっけ。覚えた」
サムズアップ。大丈夫かな。お調子者の高遠をイマイチ信じきれないまま、俺はその先の練習を最後まで見届けた。
「間に合いそうじゃん。いけるいける」
のううら以外は大きなミスはなかった。通学カバンに原稿と筆記用具を突っ込んで高遠を見ると、案外ていねいに原稿をファイルにしまい込んでいるところだった。
「だっろー?お任せください」
また、サムズアップ。昔から、高遠のトレードマークみたいになってる。
「演説会までに暗記完成してればいいんだろ?余裕ですから」
残りの日数を指折り数えて頷く高遠の笑顔は明るい。普段はお調子者だけど、ココという所は外さない。高遠はそんな男だ。この演説会は高遠にとってココの1つなんだろう。ありがたい。
「田代、今日は歩き?」
なんとなく早足で玄関に向かっていると、高遠が聞いてきた。
「おー」
珍しく不自然に途切れる会話。妙な感覚を打ち消したくて、自分から次の手を出した。
「高遠は?」
「歩き」
高遠は家が近いと言っていたから、歩きだということは知っていた。でも、人のことを気にするのだから自分は特別なことでもあるのかと思ったんだ。ねーのかよ、何にも。
「あ、じゃ、一緒に行こう。お前んち、どっち?」
高遠の家のギリギリ近くまで経路が被ることを確認し、俺達は日の暮れた田舎道に並んで踏み出した。
しばらくは、どうでもいい雑談が続いた。高遠とはなかなかに趣味が合う。学校で面白いと思った瞬間も、家で楽しく見ている動画も、気持ちよく重なる部分が少なくないのだ。こんなことになるまで個人的に付き合ったことはあまりなかったけど、それが惜しくさえ思われた。
「あー、あの角。あそこで、そっち。俺んち」
高遠が数ブロック先の角を指さす。また、妙な感覚。終わりを示して何かを準備したいんじゃないかって……考えすぎだろうか。
「すっげ近いな。うらやましい」
俺の家はこの倍以上の距離の先にある。これだけ近かったら忘れ物も取りに来れそうだ。うらやましい、は本音だったけど、なんとなく今は、もう少し遠くてもいいように感じている。高遠も、きっと同じはず。
「あー、あのさ」
来た。高遠が仕掛けてきたのを、俺は小さく深呼吸して受け止めた。
「俺、田代のために頑張る」
健気な決意表明。不覚にも喉が詰まる。
「先生に言われたからとかじゃないんだ。あ、言われはしたんだけど。言われなくても、自分からそうしようって決めてて。田代の応援、したかったんだ、俺が」
お調子者だけどお人好しの高遠のことだから、断れなかったんじゃないかと思っていた。自分から思ってたなんて意外だった。
「ほんとのことが何なのか、俺、バカだからあんまりよくわかんないんだけど、でも、田代は皆が言うような、すげーヤバいやつじゃないと俺は思ってるし」
軽くディスったことには気が回らないらしい。でも不思議と嫌な気にはならなかった。
「それに……俺も合唱は田代と同じ気持ちだった。もっとできたと思う。悔しかった。結果じゃなくて、経緯が。田代が勇気出して言った時、俺、なんか、すげーカッコいいなって思った。だから、ほんとは最初から、田代の応援したかった。声かけてくれるわけないって思ってたから、それも悔しくて。だから、こんなことになっちゃったけど、俺、嬉しいんだ。田代には悪いんだけど」
へへ、と高遠は照れくさそうに笑った。俺が皆から切られるきっかけになった学活での合唱批判事件。高遠の心には響いていたなんて。
「選挙、頑張ろう。俺が応援するって言ったらさ、あつしとか、もっちんとか、あぁバスケ部の奴らね?田代のこと応援するって言ってたし。吹奏楽も、俺が演説でミスるの楽しみにしてるって言ってくれたし、2組の人たちも、1年生もさ……なんか、そんな惨敗ってわけにもならないかも」
かなりディスってるけど、気づいてねーんだろうな。でも、本当に、不思議と嫌な気にならない。できそうな勇気すら湧いてきた。
「ありがとう」
言ってから思った。俺、ありがとうとか言ってきたかな。言いたいことだけ言って、感謝とか労いとかは二の次で。なのにまた、やりたいことだけやろうとしている。人のためとか偉そうに語るつもりだけど、そんな資格ないのかも。人のせいにしてきたのは、俺だ。合唱だって、指揮者の俺が、もっと皆の気持ちを引っ張ってかなきゃいけなかったんだ。
「あつしとか、もっちんとか、ありがとうって伝えといて。……いや、俺、直接言いたいな」
高遠の顔が一気に明るくなった。
「もちろん!バスケ部、全員バカだけど、すげーいいやつらだから!明日一緒に、昼休みバスケしない?」
角に着いたけれど、俺達は名残惜しくて長々と粘った。俺の塾の時間に間に合わなそうで、やっと手を振り合って背を向けてから、俺はまた振り返った。後ろ向きに歩きながら。
「高遠!覚えてる?間違えたところ!」
「えーとね、脳裏!任せろ!」
サムズアップ。闇の中で朧気なその形を脳裏に焼きつけた。でもさ、間違えてもいいのかもしれないな。吹奏楽の子達が楽しみにしてるなら。
暗闇で俺達はもう1度、大きく手を振った。
《脳裏》
11/10/2024, 7:26:21 AM