寒いし。雨だし。北海道で雪がどうとか朝のニュースで言ってたし。断言するけど、こんな中で傘までさして花火しようとか言ってるの、たぶん私達だけだと思う。写真上げたら面白くない?って言われて、確かにウケそうだなぁって思っちゃって、勢いでOKしちゃったようなもんだけど。こんなことなら断って、家でまったりしとくんだった。明日は誕生日なのに、こんなことで風邪なんかひいたらバカらしい。
「これじゃ、バケツ、いらないね」
若干の嫌味を込めて言ってみる。でも、能天気なメロは、
「ゴミ捨て用に置いとこう」
と無邪気にガレージからバケツを探し出してきた。変なとこ真面目なんだよね。
「どんなの?見せて」
メロが抱えている花火のパックを覗き込むと、メロは嬉しそうに傘の中で掲げてみせた。さすがに実物を見れば少しずつテンションが上がってくる。玄関の軒下にロウソクを立てる頃には、2人で試行錯誤しながら風や雨を避けるのがすっかり楽しくなっていた。
「どれからやる?」
メロと1本ずつ取り、奪い合うように火を付ける。シュウ、という懐かしい音を立て、花火は原色の炎を吐いた。甘い火薬の匂いが鼻を突く。
傘に煙がこもり、私とメロは涙目になってむせながら花火を消費していった。写真を撮るのがメインだったはずなのに、いつしかただ炎の軌跡を眺めることに没頭し始める。赤や緑やピンクに彩られる狭い空間に、ただ2人だけ。どきりと弾む胸。
派手な手持ち花火が尽き、私とメロは最後に残った線香花火を手に持った。
「懐かしいね」
メロは少し遠い目をして言った。小学生の頃、どちらかの家の前で、みんなで輪になり線香花火をしたことがあった。メロのお兄ちゃんと私のお兄ちゃんは中学と高校の部活が同じで、事あるごとに集まって過ごしていたから。
「競争、する?」
メロの提案は、不自然なほど自然だった。過去をなぞる度に生まれる、胸の奥のくすぐったい感覚。そういうことか。いつしか安定してしまった2人の関係に、メロはどうやら亀裂を入れたいらしい。
「いいよ」
メロがそう決めたなら、受けて立つに決まってる。あの日、1番に光の玉を落としたメロは、私の名前を言ったんだ。すきなひと。お兄ちゃん達のふざけたお題を真に受けて、私の名前を言ったんだ。
「お題は?」
あの時のように、メロは真っ直ぐに私を見て言った。
「好きな人」
私も真っ直ぐに答える。
ふ、と息が漏れたのは、笑ったんじゃない。全身に漲る力が収まりきらなかったから。真剣勝負だよ、メロ。
大事に大事に火をともした先から、一筋の光が弧を描いて流れた。
《一筋の光》
「ここ、ここなんですよ!」
決して大きくはないけれど丸く愛嬌のある目を興奮気味に見開き、夏木は丸めたプリントを握り締めた。それ、多田がさっきわざわざ持ってきてくれた部活の計画表じゃなかったっけ?まあ、関係ないから別にいいけど。
感傷的なメロディーが俺と夏木の間の空間をゆったりと染めていく。こんなの、夏木が覚えてくるなんて。少し前まで海外のボーイズグループに夢中で、スマホケースの中ではAIが作ったみたいに整った男が笑ってたし、インスタもTikTokもそいつで溢れかえってたのに。
「くぅ〜、沁みる!」
今度は目を閉じ、夏木は大げさに頭を振った。夏木の口から「しみる」なんて言葉が出てくる違和感。たぶん、擦りむいた膝に水かけた時にしか聞いたことない気がする。
「あー、まあ、いい曲ですね」
パンをかじったまま棒読みで応じると、なんかの枝みたいに姿形を変えたプリントが俺の頭を叩いた。
「真面目に聴きなさいって!」
聴いてるよ、いつも。お前が聴いてるものは、必ず聴いてる。お前が見てるものも、食べてるものも、外したことなんかない。だから、つい最近までお前が推してたあのAI面の誕生日も、出身高校も、家族構成も、なんならペットの名前まで、俺は暗記してしまった。
なのに、なんだこれは。予想外どころの話じゃない。ガチでこんなの、どこで覚えてきたんだよ。
「どこ…が好きなの?」
どこで、と聞く勇気がなく、俺は自分をごまかした。だって、夏木と最近よく話してる世界史の小野田はクラシックが好きだって言ってたから。分かりやすすぎる。そんな簡単な問題を間違える俺じゃない。だから、答え合わせはしたくなかった。
「え?この曲?だから、さっきのとこ!なんかさぁ、すごく、その、ん〜、」
人の気も知らず興奮したままの夏木はプリントの枝を宙に彷徨わせた。ビギナーでこの曲の良さをどう表現するのか、意地悪な興味が湧いた俺は助け舟を出さずにパンをかじり続けた。すると夏木は頭の中で言葉を手繰り寄せたらしく、得意げに枝を机にポン、と当てた。
「そうだ、哀愁を誘う感じ、かな!こういうの、好き!」
哀愁……
思いがけずしっくりくる言葉選びに面食らいつつ、俺は目の前の夏木にその哀愁を感じずにいられなかった。
いいか夏木。小野田はな、派手な曲が好きなんだよ。こんなプーランクのメランコリーみたいな、いかにも悲哀に満ちた曲は好みじゃないんだよ。残念だけど、まだまだ勉強不足。
「哀愁なぁ〜、ふ〜ん」
「なにその、バカにした感じ。サイテー」
見慣れた夏木の顔が、妙に大人びて見える気がした。2次元のアニメキャラとアイドルで安心してた俺の世界が壊れてく。分かってたけど、いつか終わりが来ることなんか。何度も聞いてきた「サイテー」がこんなに「沁みる」なんて。
「もっといい曲、教えてやろうか」
なんでそんな気になったのか自分でもよく分からない。幼馴染の余裕を見せたかったのかもしれないし、知ったかぶりの夏木に嫌味を言いたかったのかもしれないし、……違うな。やっぱり俺は夏木に笑顔でいてほしいんだ。だから、俺は教えてやった。小野田が好きだって言ってた、派手でお花畑な、きらきらした曲を。
夏木は俺が共有してやった曲を難しい顔で必死に聴き始めた。この曲は、もっと明るく幸せな顔で聴くもんなんだって、そう言ってやりたいくらいに険しい顔で。真剣、なんだろな。自分で教えてやったくせに、俺はそんな夏木を見ているのが苦しくて、すぐにこの地獄から逃げ出したくなってしまった。
「あ、やべ。俺、宿題忘れてたんだった」
「え?」
「またな」
下手な嘘だったけど、夏木はきっと、俺が飽きたと思ったんだろう。モーツァルトに派手に見送られながらの退場は、引き止められることはなかった。昼休みの喧騒の中を漂うように歩く俺の脳内BGMのモーツァルト。俺はもう2度とモーツァルトを聴かないと誓った。
「ちょっと、センセー!」
社会科教員室に音高く駆け込んだ夏木は僕を涙目で睨み、手に持っているプリントの残骸のようなもので殴りかかってきた。
「なに、どうしたの」
苦笑いしながら軽く払ってやる。
「ハズレ!センセーの教えてくれた曲、全っ然ハズレ!」
「あ、そうだった?」
おかしいな。彼と話した感じで、プーランクのメランコリーは絶対に好きだと思ったんだけど。ああ見えて官能的で美しい旋律の曲を好んで聴いているなんて、侮れないやつだと思ったんだけどなあ。
「ムチャクチャ明るい曲、オススメされた!つまんねーやつ、みたいな顔でいなくなっちゃったし!ねえ、責任取って!」
そう言われても……。
「んー、まあ、じゃあ、それ聴いてたらいいじゃない」
僕の適当な助言に不満を奏でる夏木を、ため息混じりにあしらい続ける。頼むから早く気付いてやってくれないかな。今時、幼馴染の両片想いなんて流行らないんだから。
「分かりました。もう1曲教えるから、それで許してください」
「ほんとに?ほんとにこれでいい?」
僕のスマホを奪うようにして夏木は画面を凝視した。曲名を暗記しているんだろう。あぁ、青春って美しい。僕にもこんな頃があった。実らなかった片想いを久しぶりに思い出すと、胸の内が甘く痛む。なんだろうな、この感傷的な感覚は。そう、あれだな。哀愁ってやつだ……。
再びこっそり放ったため息は、口元で笑み混じりの吐息に変わっていた。
《哀愁を誘う》
右と左がいまだに分からない。いや、時間をかければ思い出せるし左右の概念は理解している。でも、「右を向いて」「左のを取って」と指示されると瞬時に対応できない。どうしても、もたついてしまう。
いつも頭に浮かぶのは、幼い頃の夕食の光景。「箸を持つのが右、茶碗を持つのが左」という呪文のような祖母の声。ただ、俺は左利きだから皆とは逆になる。「箸を持つのは右だから俺は左、茶碗を持つのは左だから俺は右」といちいち記憶を辿るせいで時間がかかるのだ。思考をショートカットさせればいいだけの話なのに、俺の脳の電気信号はどうも通い慣れた進路を丁寧に遠回りしたいらしい。
汗を流そうとシャツを脱ぎながら、ふと鏡の中の自分と目が合った。左右が反転した世界の俺。
お前も右と左が分かんねえのか。
同情の眼差しをお互いに向け合い、同時にため息をついた。鏡の向こうに広がるあっちの世界で、俺は同じようにミスを犯したんだろうか。よりによって、あいつの前でやらかすなんて。
「おっまえ、右と左、分かんねーの?何歳?」
けたたましい笑い声が脳裏にこびりついている。畳み掛けるように浴びせられた問いに、俺は完全に焦って何度も失敗を重ねた。珍しいものでも見るかのような周囲の視線。中でも、いつも俺に柔らかい光を向けていたはずの彼女の目の色に、俺は耐えられなかった。
「あー、くそっ!」
鏡の向こうにいたら俺は右利きで、忌まわしい呪文に心乱されることもなかったんだ。お前はいいよな、なんて拗ねた言いがかりをつけたくもなる。
シャワーを浴びながら、俺は何回も左手を握り締めた。こっちが左。いいか、こっちが左。俺は左利きだから、こっちが左なんだぞ。新しい回路を開くために体に覚え込ませたつもりだったけれど、夕食の席でまた呪縛に取り憑かれてしまった。箸を持つのが、……右だけど、俺は左……。ああ、ダメだ。
「……どうしたの?」
いっそ右で箸を持ったらいいんじゃないかとヤケクソで持ち替えたのを、母親が心配そうに覗き込んできた。
「……別に。」
不器用な右手で肉を食らう。超絶カッコ悪。見られたくない、こんな俺。あの曇った視線じゃなくて、いつもの柔らかい光を向けて欲しい。彼女の前では輝いた自分になれる気がするんだ。こんな右も左も分からない俺じゃなくて。……
左。左。左。
朝日の中、左足を踏み込むタイミングで左手を握る。
左。左。左。
スープのスプーンを握ったのは右。ああ、余計なことを思い出すなって。
左。左。左。
トン、と肘を突かれ、俺は体の緊張を解いた。
「おはよ。」
柔らかい光。眩く白んだ朝日の波長を暖色に変えて、いつものように俺を包む優しい光。
「……おはよう。」
引きつってないかな。自然に笑えてるかな。クールを気取りながら鼓動が激しくなっていく。カッコ悪くないかな、俺……。
「あのね、ちょっと、手首貸して?」
「え?」
突然の依頼に呆ける俺の手……箸を持つ方だから、皆は右だけど俺は逆で、つまり左手を彼女は少し持ち上げた。
「作ったんだ。おまじない?魔除け?左利きなのに、左につけたら邪魔かな?」
「え?」
いわゆるミサンガってやつを俺の手首にくくりつけ、彼女は思いきり元気な笑顔を俺に向けた。けど、ミサンガを巻く彼女の手は震えていたし、今も頬が不自然に硬くなっている。
「……ありがと。」
祖母の呪文が急激に小さくなり、「左につけた」という彼女の高い声が上書きしていく。左。このミサンガがある方が左。大丈夫。もう大丈夫だ。
「ありがとう。」
もう一度言った。そして俺は、ミサンガの手を彼女に差し出した。
いつもの通学路。ミサンガのついた手を彼女と繋いで、いかにも幸せそうな俺が店のガラスに映る。お前は右、俺は左。このミサンガも、温もりも、もう忘れない。お前もそうだろ?
良かったな。
そんな自分の声が聞こえた気がした。
《鏡の中の自分》