「ここ、ここなんですよ!」
決して大きくはないけれど丸く愛嬌のある目を興奮気味に見開き、夏木は丸めたプリントを握り締めた。それ、多田がさっきわざわざ持ってきてくれた部活の計画表じゃなかったっけ?まあ、関係ないから別にいいけど。
感傷的なメロディーが俺と夏木の間の空間をゆったりと染めていく。こんなの、夏木が覚えてくるなんて。少し前まで海外のボーイズグループに夢中で、スマホケースの中ではAIが作ったみたいに整った男が笑ってたし、インスタもTikTokもそいつで溢れかえってたのに。
「くぅ〜、沁みる!」
今度は目を閉じ、夏木は大げさに頭を振った。夏木の口から「しみる」なんて言葉が出てくる違和感。たぶん、擦りむいた膝に水かけた時にしか聞いたことない気がする。
「あー、まあ、いい曲ですね」
パンをかじったまま棒読みで応じると、なんかの枝みたいに姿形を変えたプリントが俺の頭を叩いた。
「真面目に聴きなさいって!」
聴いてるよ、いつも。お前が聴いてるものは、必ず聴いてる。お前が見てるものも、食べてるものも、外したことなんかない。だから、つい最近までお前が推してたあのAI面の誕生日も、出身高校も、家族構成も、なんならペットの名前まで、俺は暗記してしまった。
なのに、なんだこれは。予想外どころの話じゃない。ガチでこんなの、どこで覚えてきたんだよ。
「どこ…が好きなの?」
どこで、と聞く勇気がなく、俺は自分をごまかした。だって、夏木と最近よく話してる世界史の小野田はクラシックが好きだって言ってたから。分かりやすすぎる。そんな簡単な問題を間違える俺じゃない。だから、答え合わせはしたくなかった。
「え?この曲?だから、さっきのとこ!なんかさぁ、すごく、その、ん〜、」
人の気も知らず興奮したままの夏木はプリントの枝を宙に彷徨わせた。ビギナーでこの曲の良さをどう表現するのか、意地悪な興味が湧いた俺は助け舟を出さずにパンをかじり続けた。すると夏木は頭の中で言葉を手繰り寄せたらしく、得意げに枝を机にポン、と当てた。
「そうだ、哀愁を誘う感じ、かな!こういうの、好き!」
哀愁……
思いがけずしっくりくる言葉選びに面食らいつつ、俺は目の前の夏木にその哀愁を感じずにいられなかった。
いいか夏木。小野田はな、派手な曲が好きなんだよ。こんなプーランクのメランコリーみたいな、いかにも悲哀に満ちた曲は好みじゃないんだよ。残念だけど、まだまだ勉強不足。
「哀愁なぁ〜、ふ〜ん」
「なにその、バカにした感じ。サイテー」
見慣れた夏木の顔が、妙に大人びて見える気がした。2次元のアニメキャラとアイドルで安心してた俺の世界が壊れてく。分かってたけど、いつか終わりが来ることなんか。何度も聞いてきた「サイテー」がこんなに「沁みる」なんて。
「もっといい曲、教えてやろうか」
なんでそんな気になったのか自分でもよく分からない。幼馴染の余裕を見せたかったのかもしれないし、知ったかぶりの夏木に嫌味を言いたかったのかもしれないし、……違うな。やっぱり俺は夏木に笑顔でいてほしいんだ。だから、俺は教えてやった。小野田が好きだって言ってた、派手でお花畑な、きらきらした曲を。
夏木は俺が共有してやった曲を難しい顔で必死に聴き始めた。この曲は、もっと明るく幸せな顔で聴くもんなんだって、そう言ってやりたいくらいに険しい顔で。真剣、なんだろな。自分で教えてやったくせに、俺はそんな夏木を見ているのが苦しくて、すぐにこの地獄から逃げ出したくなってしまった。
「あ、やべ。俺、宿題忘れてたんだった」
「え?」
「またな」
下手な嘘だったけど、夏木はきっと、俺が飽きたと思ったんだろう。モーツァルトに派手に見送られながらの退場は、引き止められることはなかった。昼休みの喧騒の中を漂うように歩く俺の脳内BGMのモーツァルト。俺はもう2度とモーツァルトを聴かないと誓った。
「ちょっと、センセー!」
社会科教員室に音高く駆け込んだ夏木は僕を涙目で睨み、手に持っているプリントの残骸のようなもので殴りかかってきた。
「なに、どうしたの」
苦笑いしながら軽く払ってやる。
「ハズレ!センセーの教えてくれた曲、全っ然ハズレ!」
「あ、そうだった?」
おかしいな。彼と話した感じで、プーランクのメランコリーは絶対に好きだと思ったんだけど。ああ見えて官能的で美しい旋律の曲を好んで聴いているなんて、侮れないやつだと思ったんだけどなあ。
「ムチャクチャ明るい曲、オススメされた!つまんねーやつ、みたいな顔でいなくなっちゃったし!ねえ、責任取って!」
そう言われても……。
「んー、まあ、じゃあ、それ聴いてたらいいじゃない」
僕の適当な助言に不満を奏でる夏木を、ため息混じりにあしらい続ける。頼むから早く気付いてやってくれないかな。今時、幼馴染の両片想いなんて流行らないんだから。
「分かりました。もう1曲教えるから、それで許してください」
「ほんとに?ほんとにこれでいい?」
僕のスマホを奪うようにして夏木は画面を凝視した。曲名を暗記しているんだろう。あぁ、青春って美しい。僕にもこんな頃があった。実らなかった片想いを久しぶりに思い出すと、胸の内が甘く痛む。なんだろうな、この感傷的な感覚は。そう、あれだな。哀愁ってやつだ……。
再びこっそり放ったため息は、口元で笑み混じりの吐息に変わっていた。
《哀愁を誘う》
11/4/2024, 12:42:36 PM