Apollo

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 ズゴ……
 派手な音を立ててドリンクを吸い込んだら、リュウガが鼻にシワを寄せた。
「もう捨ててこいよ、それ」
 顎で示されたアイスコーヒーは、もう飲みきってしまって氷しか残っていない。溶けた分を未練がましくチョビチョビ飲んでいるのが、リュウガは嫌で仕方ないらしい。その度に文句を言われている。
「やだ」
「じゃあ俺が捨ててくる」
 あ、と手を伸ばしたが間に合わず、リュウガはカップを持ってゴミ箱の方へ行ってしまった。これでテーブルに残されたのは英検の問題集だけ。タイムアップか。
「ほら、帰るぞ」
 戻ってきたリュウガはイスに座らなかった。カバンを持ち上げ、また顎で私を促す。偉そうだからやめてと頼んでも、どうもクセらしくてやめてくれない。いつも何でも顎で指示する。付き合ったりしたらこういう小さい1個1個が許せなくなるんだろうと思うと、どうしても彼氏を作る気になれない。世の中のカップルは、どうやって解消しているんだろう……。
「ほらって」
 問題集を勝手に閉じられ、やっと観念した。仕方ない。いつまでも帰らないわけにはいかないんだから。
 外は思いのほか暖かかった。日中しっかり晴れたおかげだろう。それでもリュウガは、手に持っていたパーカーを差し出した。黙って受け取り、羽織る私。寒がりの私を気遣ってくれるリュウガの優しさを特別だと勘違いしてはいけない。こいつは誰にでも優しい。
「おいー、遅いって」
 ふざけてるくらいに足を進めない私の方へ振り向いて、リュウガは数歩戻ってきた。
「ほら、行くぞ」
 ぎゅっと握られる手。あまりに驚いて振りほどこうとしたけど、リュウガのいつもと変わらない顔を見たら恥ずかしくなってやめた。ただ本当に急かしたかっただけなんだろうから。慌てたらみっともない。
「指、冷たっ」
 リュウガは私の指先を確かめるみたいに握り直し、そのまま自分のブレザーのポケットに突っ込んだ。
 え。
 優しさにしては行き過ぎてませんか。
 狼狽える私をよそに、リュウガは反対の手でスマホを操り、明日の模試の日程を確認し始めた。何時に起きなきゃいけないとか、昼休みは何分だからパンをサッと食べるのがいいとか、帰りは何時になるとか。しまいには明日の天気と気温まで。
「今日は早く寝ないとな」
 やっとポケットにしまわれるスマホ。こっちのポケットに収納された手をどうしたらいいのか、確認すらできないまま私はいつも通りに相槌を打つ。
 いやでもこれ普通……ではないですよね。
 数学の大西の自虐ネタについて語ってる場合ではない気がしつつ、2人で爆笑する。
 ……普通?優しさ?あり得る?いや、……でも。
 リュウガと恋愛の話をしたことはない。部活を引退しても帰る方向が同じなことが変わらないだけで、元選手と元マネージャーという肩書を外れない仲を継続してきたつもりだった。
 ポケットに手……。もしもこれがそういうことだとしたら、いつどの瞬間からなのか謎でしかない。お互いに付き合ってる人がいるのか、好きな人がいるのかさえ話したことがないのに。私に彼氏がいたら、こいつどうするつもりなんだろう。
 ぐるぐる回る頭の中。
 温い風が優しく頬を撫でていき、リュウガのリードに引っ張られるようにして私達は目的地に辿り着いてしまった。
「……」
 足元を見つめる私。
「俺も見に行こうかな」
 リュウガが私の手をそっとポケットから出して言った。温もりを失った指先には冷たく感じられる風。名残惜しさに握る手のひらに、みぃのふわふわの感触がよみがえる。
「……犬派のくせに」
「どっちかならね。でも別に、猫も嫌いじゃないし」
 カバンを担ぎ直し、リュウガは玄関の方に顎をクイと向けた。偉そうなんだから、ほんとに。
 みぃがいなくなって半年。新しい猫なんて欲しくないのに、ママが勝手に貰ってくると決めてしまった。見せられた写真はまだ小さなぽわぽわの子猫だった。きっと夢中になってしまう。でもそれは、みぃにすごく申し訳ない気がして。会いたくないんだ、あの子猫に。
「んー、可愛いんだろうな」
 項垂れて最後の粘りを見せる私。
「じゃあ俺が」
 リュウガはまたサッと手を伸ばし、インターホンを勝手に押した。
 え、ちょっと待って。普通にママと話してるんだけど。緊張とか遠慮とかないもんなの?
「ほら、行くぞ」
 また顎で。
 開いてしまったドア。リュウガに引きずられるようにして連れ込まれる。
「ほらー、可愛いでしょう」
 ママは胸に小さな子猫を抱いていた。みぃとは違う毛色。みぃよりずっとか細くて不安そうな鳴き声。しっぽを精一杯太くして、全力でリュウガと私を威嚇してる。リュウガが屈んで指を出すと、シャッと手を出して引っ掻こうとするのが、可愛くて可哀想で。よしよし、大丈夫だよって抱き締めてあげたくなった。
「はは、似てるー。すげー可愛い」
 みぃのことはよく話してたし、いなくなった時は散々泣いて画像も見せたから知ってるはず。
「似てないよ。全然違うじゃん」
 キッと睨んだら、リュウガは顎で私を示した。
「ほら。似てる」
 ……
 リュウガは事も無げにまた子猫に指を差し出す。唸り声を上げられても、引っ掻かれても、リュウガはニコニコと子猫を構った。
「じゃ、帰ります」
 子猫のストレスが気になり始めた頃、リュウガはそう言って外に顎をクイとやった。言われなくても見送るってば。カバンを玄関に置いて外に出ると、リュウガは静かにドアを閉めた。
「可愛いな。やっぱ好きだわ」
 そう言って私を見つめる目。
「猫……のこと?」
 間の抜けた質問にリュウガは目を見開いた。
「お前、大丈夫?」
「いや、だってさ……」
「だって、なんだよ?」
 なんだよって、なんなのか私にも分からない。焦って絞り出す、さらに間の抜けた返答。
「……犬派のくせに」
 でもリュウガは、ニッと笑ってくれた。
「言ったろ?猫も嫌いじゃない」
「……いつから?」
「んー。……はっきり思ったのは半年前、かな」
 急にドキドキと激しく高鳴る胸。こういうのって、もっとなんかこう、……よくわかんないけど想像と違う展開に理解が追いつかない。どうしよう。
「みぃの時?」
「そう」
 きゅう、と胸が痛んだ。柔らかくて温かかったみぃ。新しい猫なんか飼ったら、みぃの居場所はなくなっちゃうのかな。
「みぃちゃん、見つかるといいな。あの子と仲良くなるかも」
 リュウガ……。みぃを忘れなくていいんだって、そう言われたみたいだった。
「で?嫌なら、諦めるけど。嫌じゃないだろ?」
 ……また。優しいくせに偉そうだ。だけど、分かった。小さな1個なんかどうだっていいよ。きっとそんなものは乗り越えていける。1個を難なく超えていく、他の1個。このドキドキがそれを証明してる。理屈じゃないんだ、これはきっと。
「嫌じゃない」
「じゃあ笑ってよ」
 リュウガの声に、私はプイと後ろを向いた。なんとなく素直になれなくて。
「猫だな」
 少し呆れたようなリュウガのからかいがくすぐったくて気持ちいい。猫か。そう言えばあの子猫をまだ撫でてない。ふわふわの感触を思い出したかったけれど、手に残るのはリュウガの温もりだった。私はそれを慈しむように、そっと両手を握り締めた。やっと冷えてきた風が、火照る頬を冷ますように駆け抜けていった。

《子猫》

11/16/2024, 9:06:44 AM