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「君待つと 吾が恋ひ居れば 我が屋戸の 簾動かし 秋の風吹く」
 教わったばかりの和歌を無意識に音読していた。飛鳥時代の気候は知らないが、現代の異常気象と張るほど酷暑の夏があったとは思えない。つまり秋も今よりずっと早かったんだろう。
 生きた時代も暮らした場所も、歌を詠んだ時期も性別も立場も、何もかもが違う額田王と自分をシンクロさせるのは不可能としか思えない。それなのに、俺は今、額田王の気持ちが理解できる。タイムリープできたとして、共に秋風を受けながら語り合える自信がある。
 残念ながら俺の家は気密性が高いつくりになっており、隙間風はおろか、台風の時ですら風の音に恐怖を感じることはない。簾を揺らす風音に恋人の来訪を感じ取れるような環境的要素はない。だが代わりに俺は現代の文明の利器を手にしている。その文明の利器に、恋人のメッセージの到着を知らせる通知が全く届かないのだ。ポイント欲しさに友だち登録してしまった公式さんや、学校の仲間たちからの通知はひっきりなしに届くというのに……。
 終わりか。終わりなのか。
「秋風」は「秋」を「飽き」と掛けることで別れの隠喩表現にもなる。寒々しい秋風と別れ……音だけでなく雰囲気そのものがしっくり来る。もっとも、額田王の歌の秋風は別れとは無関係らしいから、その点は俺と額田王で思いを共有することができない。胸躍らせながら恋人を待つ額田王、くっそー、うらやましい。
 恋多き女性だったらしい額田王に、ぜひ聞いてみたい。俺の何がダメだったのか。この恋は終わるしかないのか。
「何かあった?」
 何度も送信しかけては挫けているメッセージ。また指先で打ち込み、しばらく眺めてから削除する。いっそ何もしなければフェイドアウトするだけで、傷は浅いのかもしれない。ただしモヤモヤを抱え続けていくことになる。何がいけなかったのか。この思いを永遠にリピートするのは苦しいように思える。かと言って再起不能の傷を負いたくはないし、最後に決定的に憎み合うのも美しくない。
 どうしたものか……。
 スマホをテーブルに置き、俺は静かに腕を組んだ。俺が年下だからつまらなかった?大学が忙しい?バイトで毎日夜遅いとか?具合が悪い?実家で何かあった?スマホが壊れた……
 普通に考えたら、どれもない。下手な言い訳にしかならない理由ばかりだ。
 つまり秋風なんだ。別れ。
 ツンと鼻の奥が痛む。でも、泣くくらいなら前向きになりたい。そうだよ、悲しいけど、幸せも味わった。同級生となら行かないような場所にもたくさん行った。背伸びして買ったプレゼントに喜んでくれて、バイト先に会いに来てくれて、塾の頃の延長で勉強も教えてくれて。幸せだった。いい思い出に……、
 涙が落ちる。思い出か。もう新しい思い出は増えない。そう思うと前向きになどなれるわけもなく、鼻の奥の痛みは喉元まで広がった。本気で好きだったんだ。思い出の中でしか会えないなんて辛すぎる。タイムリープできるなら半年前に戻りたい。額田王と語り合うより先に。俺の決死の告白を受け入れてくれた、あの日に戻りたい。そしてこんな結末にならないように、もう1度、イチからやり直したい。
 ………
 しばらく声を殺して泣いた。やっと少し落ち着き、たまっているはずの通知を確認する。
 あ。
 指先が忙しく画面上を滑る。俺はスマホを握り締めたまま家から駆け出し、路上に彼女の影を見つけた。
「……久しぶり」
 落ち着きを装ったものの、完全に鼻声だ。泣き顔は見えない距離だと思ったけれど、これじゃあバレバレかもしれない。
「……ごめん」
 小さな謝罪の声が胸をえぐる。やっぱり終わりか。
「ごめんなさい」
 もう1度謝った彼女が、ゆっくりと近づいてくる。叩かれる?身構えた俺に、戸惑いを残しつつ、ゆっくりと抱き着いてくる彼女。ふわりといつもの香り。ヤバい、また泣きそう。
「無理、しないでほしいの。嬉しいけど」
 ぎゅう、と引き締められる腕。冷たい夜風の中、2人の体温が混ざり合い、温もりを作り始める。
「バイトばっかり。塾もやめちゃって。わたし、これじゃ、君を幸せにできない」
 そんなことない。幸せでしかない。なんて言えば分かる?伝わる?
「でも、……別れたくない。ごめんなさい」
 泣きじゃくる彼女。いつもだったら、彼女が謝ってきたらそっと頭を撫でてあげるんだ。そして、いいよって言ってあげる。
 でも、彼女が望むなら、たまには。
「嫌だ。別れるなんて許さない。すげー寂しかったんだから」
 俺は思ったとおりに拗ねてみた。そして、彼女に負けない強さで抱き締め返した。
 ヒュウと耳元を掠めた秋風。恋は難しい。飛鳥時代の昔から人の心を捉え続けるこの命題。いつか別れがくるのかどうかなんて分からないけど、今は……。
「……君待つと」
 声に出てしまったらしい。彼女はフフッと胸の中で笑った。
「吾が恋ひ居れば 」
 彼女の涙声。それから2人で秋風の中、涙声を重ね合わせた。
「我が屋戸の 簾動かし 秋の風吹く」

《秋風》

11/14/2024, 1:05:57 PM