「君待つと 吾が恋ひ居れば 我が屋戸の 簾動かし 秋の風吹く」
教わったばかりの和歌を無意識に音読していた。飛鳥時代の気候は知らないが、現代の異常気象と張るほど酷暑の夏があったとは思えない。つまり秋も今よりずっと早かったんだろう。
生きた時代も暮らした場所も、歌を詠んだ時期も性別も立場も、何もかもが違う額田王と自分をシンクロさせるのは不可能としか思えない。それなのに、俺は今、額田王の気持ちが理解できる。タイムリープできたとして、共に秋風を受けながら語り合える自信がある。
残念ながら俺の家は気密性が高いつくりになっており、隙間風はおろか、台風の時ですら風の音に恐怖を感じることはない。簾を揺らす風音に恋人の来訪を感じ取れるような環境的要素はない。だが代わりに俺は現代の文明の利器を手にしている。その文明の利器に、恋人のメッセージの到着を知らせる通知が全く届かないのだ。ポイント欲しさに友だち登録してしまった公式さんや、学校の仲間たちからの通知はひっきりなしに届くというのに……。
終わりか。終わりなのか。
「秋風」は「秋」を「飽き」と掛けることで別れの隠喩表現にもなる。寒々しい秋風と別れ……音だけでなく雰囲気そのものがしっくり来る。もっとも、額田王の歌の秋風は別れとは無関係らしいから、その点は俺と額田王で思いを共有することができない。胸躍らせながら恋人を待つ額田王、くっそー、うらやましい。
恋多き女性だったらしい額田王に、ぜひ聞いてみたい。俺の何がダメだったのか。この恋は終わるしかないのか。
「何かあった?」
何度も送信しかけては挫けているメッセージ。また指先で打ち込み、しばらく眺めてから削除する。いっそ何もしなければフェイドアウトするだけで、傷は浅いのかもしれない。ただしモヤモヤを抱え続けていくことになる。何がいけなかったのか。この思いを永遠にリピートするのは苦しいように思える。かと言って再起不能の傷を負いたくはないし、最後に決定的に憎み合うのも美しくない。
どうしたものか……。
スマホをテーブルに置き、俺は静かに腕を組んだ。俺が年下だからつまらなかった?大学が忙しい?バイトで毎日夜遅いとか?具合が悪い?実家で何かあった?スマホが壊れた……
普通に考えたら、どれもない。下手な言い訳にしかならない理由ばかりだ。
つまり秋風なんだ。別れ。
ツンと鼻の奥が痛む。でも、泣くくらいなら前向きになりたい。そうだよ、悲しいけど、幸せも味わった。同級生となら行かないような場所にもたくさん行った。背伸びして買ったプレゼントに喜んでくれて、バイト先に会いに来てくれて、塾の頃の延長で勉強も教えてくれて。幸せだった。いい思い出に……、
涙が落ちる。思い出か。もう新しい思い出は増えない。そう思うと前向きになどなれるわけもなく、鼻の奥の痛みは喉元まで広がった。本気で好きだったんだ。思い出の中でしか会えないなんて辛すぎる。タイムリープできるなら半年前に戻りたい。額田王と語り合うより先に。俺の決死の告白を受け入れてくれた、あの日に戻りたい。そしてこんな結末にならないように、もう1度、イチからやり直したい。
………
しばらく声を殺して泣いた。やっと少し落ち着き、たまっているはずの通知を確認する。
あ。
指先が忙しく画面上を滑る。俺はスマホを握り締めたまま家から駆け出し、路上に彼女の影を見つけた。
「……久しぶり」
落ち着きを装ったものの、完全に鼻声だ。泣き顔は見えない距離だと思ったけれど、これじゃあバレバレかもしれない。
「……ごめん」
小さな謝罪の声が胸をえぐる。やっぱり終わりか。
「ごめんなさい」
もう1度謝った彼女が、ゆっくりと近づいてくる。叩かれる?身構えた俺に、戸惑いを残しつつ、ゆっくりと抱き着いてくる彼女。ふわりといつもの香り。ヤバい、また泣きそう。
「無理、しないでほしいの。嬉しいけど」
ぎゅう、と引き締められる腕。冷たい夜風の中、2人の体温が混ざり合い、温もりを作り始める。
「バイトばっかり。塾もやめちゃって。わたし、これじゃ、君を幸せにできない」
そんなことない。幸せでしかない。なんて言えば分かる?伝わる?
「でも、……別れたくない。ごめんなさい」
泣きじゃくる彼女。いつもだったら、彼女が謝ってきたらそっと頭を撫でてあげるんだ。そして、いいよって言ってあげる。
でも、彼女が望むなら、たまには。
「嫌だ。別れるなんて許さない。すげー寂しかったんだから」
俺は思ったとおりに拗ねてみた。そして、彼女に負けない強さで抱き締め返した。
ヒュウと耳元を掠めた秋風。恋は難しい。飛鳥時代の昔から人の心を捉え続けるこの命題。いつか別れがくるのかどうかなんて分からないけど、今は……。
「……君待つと」
声に出てしまったらしい。彼女はフフッと胸の中で笑った。
「吾が恋ひ居れば 」
彼女の涙声。それから2人で秋風の中、涙声を重ね合わせた。
「我が屋戸の 簾動かし 秋の風吹く」
《秋風》
真菜香と静かに目を合わせる。そして頷きとも言えない微かな首の動きを互いに送り合い、私達は判決を下した。これはナシ。
まずフーディーの柄が粋がってる。スプレーで描かれた壁の落書きみたいなアルファベットは炎に囲まれてて、まるでヤンチャな高校生とか大学生が着ていそう。粋がってる、の正しい実例を初めてこんなにきちんと見た気がする。
それから、ジーンズのダメージ具合。ところどころ擦り切れてるのはいい感じ。けど……ほつれた裾が地面に擦れる長さなのが……。汚らしい。かかと、踏んじゃってる。つまり土足と同じその裾で室内も歩くんだと思ったら鳥肌が立った。
サコッシュがカモフラ柄なのも小学生かって感じだし、全体的に……むしろわざとやってますか?と聞きたくなる。
スーツの時はシュッとして見えた顔立ち。私服だと、こんなにもっさりするんだ。髭しっかり剃ってよ。
実習中、アウトローな感じでカッコよかった「俺、教員志望じゃないから」も、こうなってしまうと、ただの無責任にしか聞こえない。
あの、それサービスじゃなくて売り物のお菓子です。勝手に食べないでください。
てか、いつまでいるの。
そもそもこの人に学園祭の日程教えたの、誰?
ヒソヒソ囁かれるもっともな言葉達。
「俺ですごめんなさい」
カフェ風に装飾した教室の隅で、実行委員が肩を落とした。禁じられてたLINEの交換、しちゃってたらしい。きっと向こうからなんだろう。ルール違反のせいで、ずっと頑張ってきた委員にこんな思いをさせるなんて。悔しいと言うか悲しい。
でも、そんな私達の声は届かない。終了まで居座ったセンセイは、実行委員の挨拶に大きな声で合いの手まで入れていた。「打ち上げの情報、絶対に明かすなよ」という、こっそり回される伝言に全員が団結する。
「今日はありがとう!お前ら最高!また会いましょう!」
ライブみたいなセリフで最悪な余韻を残し、センセイは去っていった。すごい疲労感。
「お疲れ」
肩を落として片付けを進める委員に労いの声を掛けると、振り向いた顔が力なく微笑んだ。
「ほんとごめん」
「いや、悪くないから、ごめんいらないよ」
実行委員は軽く苦笑いしてから、荷物を抱えてドアの方へ足を踏み出しかけた。そして踏みとどまる。
「打ち上げ、来るんだよね」
「あ、うん。途中で帰るけど」
塾があるから最後まではいられない。それを告げると、実行委員は「来てくれてありがとう」と少し疲れたように笑った。
いいやつだ。
感心した私は実行委員の荷物を半分持つことにした。ざわついた廊下を並んで歩く。話題は自然とセンセイのことになった。
「なんで来るかね」
私の不満に、実行委員はまた力なく笑った。
「まあね……でも、悪い人じゃないんだと思うよ。なんだかんだ、俺達のこと覚えててくれて、こうやって会いに来てもくれたわけだし。そこはありがたいよね」
いい人なんだなあ。そう思いながら顔を見つめたら、メガネの下にソバカスがたくさんあることに初めて気付いた。肌がきれいだから目立つんだ。もしこの先に似顔絵を描く機会があったら、かなり可愛く描ける自信がある。
一重だけどつぶらな目がパチパチとまばたきを繰り返す。
「センセイとは好きな洋楽が似てて、けっこう話したから、ついLINE交換しちゃってさ。あー、皆に悪いことしたな」
後悔に苛まれる姿が悲哀に満ちていて、私は心にも無い、
「意外と面白かった」
なんて言葉をかけていた。面白くはなかったけど、たぶん、思い返す度に面白くなるはず。だからまるっきりのウソじゃない。
「今井さん、シフトいっぱい入ってくれたり、準備とか片付けとかも、ありがとう。助かった」
1クラスメイトの私に向けられる心遣い。ほんとにこの人、いい人なんだなあ。てことは、センセイも、確かに思うほど悪い人でもないのかも。私達に愛着があるのは本当なんだろうし。もしかしたら、若い私達に合わせたくて、無理してあんな感じになっちゃったのかもしれない。
「あ、段差」
気を取られていた私をさり気なく誘導する人の良さも、なんか、あったかい。自然と笑顔になれた。
「やっぱり、最後までいようかな、打ち上げ」
塾の振替手続きがめんどくさいけど、それくらいやってもいいかな。こう見えて私も好きな洋楽があるし、ちょっと話してみたい気がする。
「えっ、ほんと?良かった!せっかくだから、なるべく大人数で楽しみたくて。ありがとう!予定、いいの?」
既にもう、胸がワクワクする感覚がある。頷いたところで、実行委員が荷物を気にしながらポケットのスマホを取り出した。
「あ、センセイから。今日はありがとうって。また顔出したいって。あー、どうしよう」
私達は困った笑顔を共有しながら一緒に対策を考えた。そして、はっきりした拒絶ではないが明確な約束もしない1言を2人で思いついた。
「また会いましょう」
※センセイへの批評は彼女独自の感性によるものです
《また会いましょう》
「先輩、吊り橋効果って知ってますか?」
きゅるん、と表現するらしいあざとい目つきを向けられる。分かる、分かるよ。今日も文句なしに可愛い。俺が独り占めするのがもったいないくらいに。
「あれだろ?スリルで感じてるドキドキを、相手へのドキドキと勘違いしちゃうってやつ」
めんどくささを演出しつつ、俺はきちんと解答する。きゅるんを維持したまま小刻みに頷く小顔の彼女は、疑う余地もないほど可憐で可愛い。
「先輩、」
「嫌だ」
途中で遮った誘いの言葉。テーマパークに連れて行こうとでもしているんだろうか。
「えぇー、なんでですかー?」
言われる前から寸分違わず予想していたリアクション。予想できる自分もなかなか怖い。
「勘違いだろ?本物じゃないんだろ?」
呆れた口調で突き放すように言うと、彼女も不服そうな顔を作った。まるで俺達、台本のない寸劇をしてるみたいだ。
「きっかけ作りなんだから、最初は勘違いでいいんですぅ」
「今さらきっかけとか……」
この1ヶ月近く、登校から下校まで、休み時間ももれなくストーキングしておいて、よく言えたもんだ。おかげで毎日怖くて仕方ない。
「あ、先輩、帰るんですか?」
カバンを手に取った途端、彼女ははじかれたように立ち上がった。どうせ付いてくるだろうと思っているけど、一応、拒む様子は見せておかないと。
「バイバイ。気をつけて帰れよ」
「えぇ~!置いてかないでください!」
俺の歩調に合わせて急ぎ足になりながら、彼女は一生懸命に付いて歩く。親ガモの後に続く子ガモみたいだ。
本来なら会話なんか弾むわけもないけど、1ヶ月も付きまとわれたせいかそれなりに2人のペースが噛み合ってしまった部分はあって、傍から見れば俺様彼氏とあざと女子の組み合わせで自然に映るかもしれない。それに、たまには2人で笑ってしまうこともある。怖すぎる。
「じゃあな。明日は来んなよ。絶対、来んなよ」
俺のマンションの前で念を押す。姉ちゃんに目撃されて以来、家族の中で俺には可愛い彼女がいることになってしまった。否定すればするほど肯定に取られるという恐ろしい現象。だから、怖いって。
「来ます!絶対、来ます!」
両手を胸の前で握り合わせ、興奮した犬みたいに俺を見上げる彼女。入学してから何人、魔の手に引っ掛けたんだよ。積み上がってく経歴の中に自分も挟まれると分かってて、突っ込んでく男も男だけど。
「じゃ」
背中を向けてマンションの入口のロックを解除する。ここを突破してきたことはない。俺が中には入ってしまえばおとなしく帰っていく。
「はぁ……」
エレベーターに乗ると自然にため息が漏れた。
ガチで困ったもんだ。明日のことを考えると怖くて仕方ない。明日、マンションを出て、彼女がいなかったら。彼女の強い愛情表現を受ける度、俺は怖くて仕方なくなる。喪失の怖さ。彼女の中で過去の1人に積み上げられる怖さ。
俺の分析では、なびくまでがゲームなんだ。自分のものになったら飽きてしまう。だから、これが最良の方法だと信じつつ、恐怖心は常に抱いている。スリル満点のドキドキは毎日感じてるんだから、吊り橋なんか渡らなくたって大丈夫だ。
彼女は気づいてないだろうけど、彼女の入学直後、人気のない公園で見かけたことがある。きゅるんとしてない自然な表情に俺は一瞬で惹かれた。ベンチに座る姿勢も余計な力が抜けていて、それから彼女が校内で発揮していく悪女っぷりとは、かけ離れた姿だった。
あれを引き出せない限り、俺じゃダメなんだろうと分かってる。始まったら終わりが見えるレースに参加するのは嫌だ。
明日、来るかな、あいつ……。
考えるとゾッとする。いっそ息の根を止めてほしいような、やっぱり嘘でも一緒にいたいような。万が一、俺が本物になれる可能性……ないんだろうな、今のところ。
いますように……。そして、できれば明日こそ。
希望を失わなければ、あながちスリルも悪くないかもしれない。とんでもなく可愛い彼女の顔を思い浮かべながら、俺は明日に向けて気合いを入れた。
《スリル》
ぽつり、ぽつり。
樋の裂け目から滴り落ちる雫を眺め、胸の内でリズムを合わせる。降水確率30%とは思えないほど堂々たる降り。これは線状降水帯が到来した場合をMaxとしての数値なんだろうか。天気予報が何と言ったところで結果は変わらないのだから、責めるべきはそこじゃない。分かってはいるけれど、今日は先週から待ち焦がれていた日だってのに。朝から期待させておいてこれかよ、と今朝のお天気キャスターに文句の1つもぶつけたくなる。
「おーい、アップさぼんなよ」
振り向くと、体から湯気が立ってそうなトラと目が合った。
「終わったんだよ」
我ながら不機嫌丸出しだなと呆れる。でも、仕方ないよな。トラなら分かってくれるはず。
「速すぎね?考えろよ」
ホールの出窓に放り投げてあったタオルを拾い、トラはガシガシと顔を拭いた。ついでに頭も。切り過ぎたって恥ずかしそうにしてたけど、トラは短髪が似合う。
「あー、晴れねーかな」
恨めしく空を見上げる俺のケツをトラが蹴りつけた。特に意味なんかない。目の前にケツがあったから蹴っただけ。俺達のコミュニケーションスキルなんて、この程度だ。
「次の記録会は出れるんだろ?」
俺の反撃を身軽にかわしたトラが、ファイティングポーズをとってみせる。俺は自分のタオルで適当に攻撃を仕掛けながら、出るよ、と清々しく答えた。やっと言えた。ほんとにさ、こんなに長くなるなんてな。
「無理すんなよ。逆足切るとか笑えねーから」
トラはそう言って笑ったけど、俺がアキレス腱をぶっちぎってから今まで、トラは1度もそのことを笑わなかった。むしろちょっと泣いてた。
ズン、と腹の辺りが重くなる。それは、俺を笑った顔を思い出したからだ。あの日から俺は、あいつと口をきいてない。でも、もう逃げられない。委員会で遅れてくるらしいあいつは、そろそろこのホールに来るはずだ。
「あ……」
トラがファイティングポーズをやめた。すうっと俺の後ろに流れる視線。振り向かなくても分かる。
優しいトラは俺の肩をポンと叩いてから、あいつの方へ駆けていった。たぶんまたケツを蹴りに行ったんだろうけれど、その結果は分からない。ただじゃれ合う声だけが聞こえていた。
あの時、あの声で、あいつは俺を笑った。ギプスの足をぶら下げながら登校した俺を指さして、
「飛べない翼」
って笑ったんだ。
ふざけたつもりだったんだろ。「卜部」っていう俺の名字は小学生の時から「とべ」ってあだ名に変えられていて、高跳びにハマって以来、下の名前と合わせて「飛べ翼」って上手い具合に呼ばれてたから。
「飛べない翼」
背が高くて、練習しなくても俺と張るくらいに跳べるあいつが、俺を指さして爆笑したのが許せなかった。ぶっ飛んだ松葉杖はあいつの額にアザを作り、俺達は口をきかなくなった。
「とべっち、ほら見ろよ、捕獲成功ー」
チャンスをくれるトラ。トラに免じて……俺は、ゆっくり、振り向いた。
トラにガッチリ押さえ込まれたあいつ。俺と目が合うと、あいつはスッと口角を下げた。あれ?と違和感に眉が寄る。それが何なのか、数秒経って気がついた。背が高いと思っていたあいつが、トラとほとんど変わらない。ってことは、俺ともきっと……。追いついてたんだ、離れていたうちに。
そして瞬時に理解する。あの時、トラが「飛べない翼」って笑ったって、俺はキレたりしなかったはず。でも、あいつが心配そうな顔で手を差し伸べてきたって、俺は松葉杖を投げたかもしれない……。見上げなきゃいけないあいつのことが気に入らなかったんだ。「飛べない翼」は言い訳でしかなくて。
「……とべっち……」
あいつはトラを引き剥がし、俺の前までやって来た。やっぱり目線はほとんど同じ。
ごめん、を言い出せない俺達はしばらく向かい合ったままでいた。呆れるコミュニケーションスキル。でも、ここで終わりにしないとな。
「飛べない翼、じゃねーからな。もう。」
言えてしまったら、気恥ずかしさの混じる苦笑いが浮かんだ。あいつも同じ。
「……飛べ翼」
ごめんも言い訳もどうでもいい。どうしようもなく低いコミュニケーションスキル。俺達はさっきのトラとあいつみたいに組み合ってから、雨のグラウンドに駆け出していった。そして、あっという間にずぶ濡れにしていく雨に心から感謝しながら、互いのケツを狙って大騒ぎで転げ回った。
《飛べない翼》
「……その姿が、のううらに焼きついています。」
ん?のううら?
「ちょ、ストップ!」
片手を上げると、高遠のスピーチは止まった。ミスの心当たりがないらしく、手元の原稿を確認しながら首を傾げている。
「なんつった?さっきの1文」
「え?どこの?」
数歩の距離を詰め、原稿を指さすと、高遠は低く抑揚を消した早口でミスの上塗りをした。お得意のボケの可能性も捨てきれなかったけど、ガチで間違えてたのか。
「のううらじゃねーよ」
「え?そうなの?」
「の う り」
高遠は、へぇー、と感心したふうに胸ポケットからシャーペンを取り出し、ふりがなを振った。
「その姿が、脳裏に焼きついています。その姿が、脳裏に焼きついています。その姿が、脳裏に焼きついています。脳裏、脳裏」
2度目からは目を閉じ、高遠は頭に叩き込むように繰り返した。そして小さく、よし、と呟くと顔を上げた。
「おっけ。覚えた」
サムズアップ。大丈夫かな。お調子者の高遠をイマイチ信じきれないまま、俺はその先の練習を最後まで見届けた。
「間に合いそうじゃん。いけるいける」
のううら以外は大きなミスはなかった。通学カバンに原稿と筆記用具を突っ込んで高遠を見ると、案外ていねいに原稿をファイルにしまい込んでいるところだった。
「だっろー?お任せください」
また、サムズアップ。昔から、高遠のトレードマークみたいになってる。
「演説会までに暗記完成してればいいんだろ?余裕ですから」
残りの日数を指折り数えて頷く高遠の笑顔は明るい。普段はお調子者だけど、ココという所は外さない。高遠はそんな男だ。この演説会は高遠にとってココの1つなんだろう。ありがたい。
「田代、今日は歩き?」
なんとなく早足で玄関に向かっていると、高遠が聞いてきた。
「おー」
珍しく不自然に途切れる会話。妙な感覚を打ち消したくて、自分から次の手を出した。
「高遠は?」
「歩き」
高遠は家が近いと言っていたから、歩きだということは知っていた。でも、人のことを気にするのだから自分は特別なことでもあるのかと思ったんだ。ねーのかよ、何にも。
「あ、じゃ、一緒に行こう。お前んち、どっち?」
高遠の家のギリギリ近くまで経路が被ることを確認し、俺達は日の暮れた田舎道に並んで踏み出した。
しばらくは、どうでもいい雑談が続いた。高遠とはなかなかに趣味が合う。学校で面白いと思った瞬間も、家で楽しく見ている動画も、気持ちよく重なる部分が少なくないのだ。こんなことになるまで個人的に付き合ったことはあまりなかったけど、それが惜しくさえ思われた。
「あー、あの角。あそこで、そっち。俺んち」
高遠が数ブロック先の角を指さす。また、妙な感覚。終わりを示して何かを準備したいんじゃないかって……考えすぎだろうか。
「すっげ近いな。うらやましい」
俺の家はこの倍以上の距離の先にある。これだけ近かったら忘れ物も取りに来れそうだ。うらやましい、は本音だったけど、なんとなく今は、もう少し遠くてもいいように感じている。高遠も、きっと同じはず。
「あー、あのさ」
来た。高遠が仕掛けてきたのを、俺は小さく深呼吸して受け止めた。
「俺、田代のために頑張る」
健気な決意表明。不覚にも喉が詰まる。
「先生に言われたからとかじゃないんだ。あ、言われはしたんだけど。言われなくても、自分からそうしようって決めてて。田代の応援、したかったんだ、俺が」
お調子者だけどお人好しの高遠のことだから、断れなかったんじゃないかと思っていた。自分から思ってたなんて意外だった。
「ほんとのことが何なのか、俺、バカだからあんまりよくわかんないんだけど、でも、田代は皆が言うような、すげーヤバいやつじゃないと俺は思ってるし」
軽くディスったことには気が回らないらしい。でも不思議と嫌な気にはならなかった。
「それに……俺も合唱は田代と同じ気持ちだった。もっとできたと思う。悔しかった。結果じゃなくて、経緯が。田代が勇気出して言った時、俺、なんか、すげーカッコいいなって思った。だから、ほんとは最初から、田代の応援したかった。声かけてくれるわけないって思ってたから、それも悔しくて。だから、こんなことになっちゃったけど、俺、嬉しいんだ。田代には悪いんだけど」
へへ、と高遠は照れくさそうに笑った。俺が皆から切られるきっかけになった学活での合唱批判事件。高遠の心には響いていたなんて。
「選挙、頑張ろう。俺が応援するって言ったらさ、あつしとか、もっちんとか、あぁバスケ部の奴らね?田代のこと応援するって言ってたし。吹奏楽も、俺が演説でミスるの楽しみにしてるって言ってくれたし、2組の人たちも、1年生もさ……なんか、そんな惨敗ってわけにもならないかも」
かなりディスってるけど、気づいてねーんだろうな。でも、本当に、不思議と嫌な気にならない。できそうな勇気すら湧いてきた。
「ありがとう」
言ってから思った。俺、ありがとうとか言ってきたかな。言いたいことだけ言って、感謝とか労いとかは二の次で。なのにまた、やりたいことだけやろうとしている。人のためとか偉そうに語るつもりだけど、そんな資格ないのかも。人のせいにしてきたのは、俺だ。合唱だって、指揮者の俺が、もっと皆の気持ちを引っ張ってかなきゃいけなかったんだ。
「あつしとか、もっちんとか、ありがとうって伝えといて。……いや、俺、直接言いたいな」
高遠の顔が一気に明るくなった。
「もちろん!バスケ部、全員バカだけど、すげーいいやつらだから!明日一緒に、昼休みバスケしない?」
角に着いたけれど、俺達は名残惜しくて長々と粘った。俺の塾の時間に間に合わなそうで、やっと手を振り合って背を向けてから、俺はまた振り返った。後ろ向きに歩きながら。
「高遠!覚えてる?間違えたところ!」
「えーとね、脳裏!任せろ!」
サムズアップ。闇の中で朧気なその形を脳裏に焼きつけた。でもさ、間違えてもいいのかもしれないな。吹奏楽の子達が楽しみにしてるなら。
暗闇で俺達はもう1度、大きく手を振った。
《脳裏》