うーん、と唸り声を上げ、僕は顔を上げた。
「meaninglessとpointlessの違いってなに?」
「ん?んーー……」
僕と同じように唸り声を上げたあきにいは、さっきからニヤニヤ眺めていたスマホを少し神妙な顔で見つめ直した。
「んーと……meaninglessは行動自体に意味がなくて無駄な感じ?pointlessは目的とか結果につながらないから意味がない感じ、かな」
「へえー。ありがとう、グーグル様」
「なんだよ、かわいくねーな。最初から自分のグーグル様に聞けよ」
あきにいは悪態をつきながら、またニヤニヤに戻った。なに見てんのかな。気になるけど、とりあえず意識を英作文に戻す。
「どんな文、書きたいの?」
「僕は意味がないことを続けています」
はははっ、とあきにいが笑った。
「なにそれ!英作文ってもっと無難なこと書くもんなんじゃねーの?」
そうかもしれないけど、課題は「継続していること」だから間違ってはいないはず。確かに友達は野球とか無難な感じで書こうとしてたけど。
「いいんだよ」
ちょっとムキになった僕に、あきにいは食いついてきた。
「なにを続けてんだよ、お前はさ」
「言わない」
さらにムキになったら、あきにいはスマホを置いた。頭を上げて片肘で横向きに支える。
「お前、絶賛恋愛中だろ」
……
「わかりやす!耳、真っ赤!」
笑い声が頭に響く。うるさいな。
「誰?クラスの子?それとも塾?」
いよいよあきにいはソファーをおりた。スマホより面白い娯楽を見つけたって感じなんだろう。
「知らない」
「なにそれ?一目惚れ的な感じ?」
胸の奥がチリッと痛む。と同時に、この痛みをあきにいにも与えたいという思いが急に心の奥から湧き出した。それこそ意味がないことなのに。
「……ななさん」
言ってしまってから全身にぶわりと鳥肌が立った。なんてことを。心臓が肋骨を突き破って出てきそうに激しく脈打つ。違うって言わなきゃ。焦れば焦るほど、凍りついた体が動かなくなっていく。
「……おい」
冷たく重い、あきにいの声。当たり前だ。自慢のななさん。怒るに決まってる。なのに、あきにいの声はむしろ優しくトーンダウンした。
「……おい」
泣いてごまかすみたいで情けない。だけど、涙は次から次へと溢れてくる。なんの涙なのか説明しろと言われてもできそうにない。止まれ止まれ、と祈りながら、心の一部はそんな自分自身を理解していた。今じゃなくても、この瞬間は訪れるはずだったことも。
「なんか、……ごめん」
謝んないで。もっと情けなくなるから。
「あ、えーと、アイス買ってきてやろうか。なんだっけ、お前の好きなやつ」
「もういい」
僕は無様に退散することにした。情けない。本当に。駆け込んだ部屋で、ドアにもたれながら俯く。僕のこの思いはmeaninglessなんだろうか。それともpointless?恋心に意味なんかない。時間や感情の無駄遣いなのかも。だけど、恋愛の終着点はたぶん、生物の本能としての繁殖なはず。だとしたら、この恋は目的も結果もない。pointless?
せめて意味のある恋をしたい。この思いに意味を持たせたい。結果なんか、実ることなんか望んでないけど、無駄に終わらせたくはない。今は無理でも、いつか。
ごめん、あきにい。今はまだ。
僕は意味がないことを続けています。
※英単語の意味は2人の独自の解釈です
《意味がないこと》
底砂の上でモゾモゾ動く個体は、眺めているだけで幸せを感じる。薄ピンクが1匹と黒の斑模様が1匹。たぶん、番ではない。2年半飼育していて1度も繁殖しなかったから。来たばかりの頃はカレカノ設定だった2匹は、いまやすっかり友達同士に設定を変えられ、部員がアテレコで遊ぶ際にも甘い言葉ではなく毒舌のツッコミを掛け合う仲になっていた。
ただ、当初の名残が2匹の名前に残っている。
「幸せになるんだよ」
水槽に目線を合わせて覗き込んだら不覚にも泣きそうになった。美術部でありながら生体を飼育するなんて、まともに考えたらおかしいことなわけで。最初に連れてきてしまった私たちの代と一緒に、この子達は部活を引退することになったのだ。本当は私が連れて帰りたかった。でも、家には3匹の猫がいる。万が一を思うと決断できなかった。
他の部員は私ほどにはこの子達に執着がないらしく、里親探しは部外に広げられた。そして今日、無事に2匹揃って引き取られていく。
里親探しが難航した理由の1つに、2匹揃ってという条件が挙げられる。寂しいという感情があるかどうかは別として、私の感覚がどうしても2匹を引き離すことを許さず、この条件は譲れなかった。おかげで、1匹なら、という申し出はいくつかあったけれど、全て断ってしまっていた。2匹まとめて引き取ってくれるという慈悲深い生徒は、たぶんもうすぐやってくる。待ち合わせに先駆け、私は最後の餌やりをしに来たのだ。
吸い込みながら餌を食べる姿がまた愛らしい。ほのぼのと眺めていると、廊下からざわめきが聞こえ始めた。待ち合わせの時間ぴったり。約束を守る人なら、きっと大事に飼ってくれるはず。すん、と鼻を鳴らし、私は腰を上げた。お別れは、笑顔じゃないと。
「こんにちはぁー」
美術部員に連れられて入ってきた里親は、やたら爽やかな男子生徒だった。男子だとは聞いていたけれど「食べるのが好きだから食用にするつもりかなあ」なんて冗談交じりの情報も提供されていたから、もっと違うタイプを想像していた。ウーパールーパーなんかに全く興味はなさそうだ。途端に心の中に不安が渦巻く。連れてきた部員仲間は可愛い子だし、もしかして彼女狙いで引き受けたとか……。
いやいや、疑うなんて申し訳ない。きっとこう見えて水生動物好きなんだ。安心して任せよう。
「あ、これ?へぇー、思ってたより小さい感じ」
水槽を覗く顔も爽やかだ……けど、……。
「うわぁ、口でか!食ってる!なんか食ってる!」
……。
連れてきた美術部員の手を引き、少し後ろに連れていく。
「ね、大丈夫?あの人、ウーパールーパー、知ってる?」
私に腕をつかまれたままの部員は整った顔を可愛らしく綻ばせた。
「知らなかったみたい。でも、頑張って飼うって言ってたよ」
これは……。
断りたい。でも、この空気で私が騒ぎ出したら……。いろんなものをぶち壊すことになる気がする。失うものも大きいかもしれない。……でもでも、命は何よりも重いはず……。
「あ、そうだ。名前とかあるの?」
爽やかな顔が振り向く。私は取り繕った笑顔を作った。
「あなたとわたし、です」
「え?」
「黒が、あなた。ピンクが、わたしです。」
「ん?」
爽やかな笑顔に戸惑いが混じる。カレカノ設定でアテレコをして遊んでいた頃、ピンク目線の寸劇が得意な先輩部員が「あなた」と「わたし」を使っていたせいで、それがそのまま名前として定着してしまった経緯を、私は全力で伝えた。
「ははっ、面白っ!」
爽やかさを取り戻した笑顔がウーパールーパーに向けられる。
「あなたとわたし、かぁ。よろしく」
……やっばり、ちょっといい人かも……。
いや、私、チョロすぎないか……。
悶々とする私の前で、爽やかな彼と可愛い部員仲間は協力して2匹を小さなケースに入れ、水槽の水を抜いた。
「それじゃ、連れて行くね」
「あ、はい……」
「ほら、お別れだぞ」
ケースを持ち上げて私の顔の前に差し出してくれるこの人は、たぶん、すごくいい人だ。もう信じるしかない。見慣れたピンクと黒の顔を見たら、じわりと涙が滲んだ。さよなら、あなたとわたし。幸せにしてもらうんだよ。お別れは笑顔じゃないと。無理に微笑んでみる。あなたもわたしも、私の顔なんて見えていないだろうけど。
「たまに、見にきなよ」
爽やかな彼は優しい声で思い切った提案をしてきた。私が涙ぐんだから同情したんだろうか。
「いえいえ、元気でいてくれれば、私は別に」
顔の前でブンブンと手を振る私に、爽やかなまなじりがさらに優しく緩んだ。
「おれんち、田島屋。学校前の」
ああ、田島屋と言えば先生達御用達の定食屋さん。入ったことはないけど、なるほど、おそらくお店の中で飼うつもりなのだろう。妙に安堵する。定食屋さんのアイドルになれるなら、美術室の隅でひっそり飼われるよりずっと幸せになれそうだ。
「あ、じゃ、じゃあ、たまに……」
ふふ、と彼は笑った。
「ほんとに、おいでよ。大事に飼ってたんだから、ほんとはすごく寂しいでしょ?あなたとわたしも寂しいと思うし…会いに来て」
その瞬間、なにかに撃ち抜かれた。生まれて初めて。あなたとわたし、が私と彼のことに聞こえてしまったせいもあるのかもしれない。彼と部員仲間の関係はどうなのよ、とか、冷静に考えてこの人のことなにも知らんでしょ私、とか、そういう真っ当な疑問は浮かんでも消えていくばかりだ。なんだか分からないパワーが胸の奥からムクムクと湧いてくる。怖いほどの無敵感。
さよならじゃないよ、あなたとわたし。今から第二章が始まるから。私は胸の中に熱い決意を抱いたまま、遠ざかる彼と部員仲間、あなたとわたしを見送った。
《あなたとわたし》
なんか寒すぎると思ったんだよなぁ。今季1番の冷え込みだってパパが呟いてたから、そんなもんかと思ってたけど。まさか熱が出るなんてなぁ。ついてないなぁ。今日は調理実習があって、ポテトサラダを作るはずだったのに。あーあ。
「未華ー、お待たせー」
「顔また赤くなってない?」
「よしよし、かわいそうに。ゆっくり休むんだよ」
賑やかに荷物を運んでくれたのは、いつもの仲間たち。しおれそうな気持ちがヒュンと戻りかけたところで、敷居の上に所在なさげに立つ人影に気が付いた。
「……はい」
なにか言いたそうな顔だったから、なにも聞かれてないのに返事をしてしまった。仲間たちが一斉に振り向き、大げさに驚いて声を上げる。このノリが心地よい。
「これ、中村が持っていけって」
原田は学ランの腕を差し出したけれど、そこからじゃ全然届かない。ちぐはぐな距離感に、私たちは高い笑い声を上げた。心なしか、原田のよく焼けた顔が少し赤らんだ気がした。
原田は抜群に頭がいいやつだけど、みんなの先頭に立って騒ぐようなタイプではない。もちろん一目置かれる存在ではあるものの、女子の前でぶっきらぼうになるところなんかは、むしろからかわれがちでもあった。
「なんで、原田?」
1番近くにいた友達が、受け取りがてら質問したのにも、原田は口を軽く尖らせただけで言葉を返さなかった。
「日直?」
もう戻ろうとしていた原田に、別の友達が質問を重ねる。原田は首を振り、
「たまたま」
とだけ言った。そして、こっちのリアクションを確認する間もなく保健室を出ていった。
「原田って感じ」
友達の評価に、また皆で笑う。なにが原田って感じなのか、全員が基準を共通認識しているわけではないのかもしれない。ただ、私たちはこういう小さな遊びを通して空気感を共有したいだけなのだ。
「あら、ありがとうね」
保健の先生が戻ってきたことで、私たちの空気感はまた変容する。素直な良い子感をにじませながら、平和な雑談をちょっと楽しみ、やがておとなしく解散の流れになった。演じている気がする。求められている自分を。嫌ってわけじゃないけれど。
パパの迎えを待つ間、ぼんやり鈍い頭で外を眺めるのにも飽き、私はなんとなくプリントの束を捲ってみた。他に暇つぶしできそうなものがなかったから。
下の方に、返却されたらしい美術の作品が混ざっていた。校舎周りの風景画を鉛筆デッサンしたもので、にわか雨の粒を描き入れたところが我ながら気に入っていた。絵は好きな方だ。これも提出した時点で先生に褒められていたし、仲間たちからも散々うまいともてはやされていたから、見返すと気分が上がるアイテムだった。
裏返す。自分の書いた鉛筆のコメントが目に入る。
「タイトルが浮かびません!」
タイトルを付けるように言われてたけど、言葉のセンスはあまり良くないからいいものが浮かばなかった。深く考えるのも面倒くさくて、これで許してもらおうと殴り書きした乱雑な字だ。
なんだろな。雨の校舎?フツー。
ほどなくしてパパが到着し、私は家で少し眠った。温かいベッド。調理実習の夢を見た気がした。詳しくは覚えていないけれど。
さっきより完全にぼんやり度が増した頭で、スマホを手繰り寄せる。ラインの通知。開くと、ポテトサラダの画像が送られていた。実習の記録として各自がタブレットで撮影するのに紛れて、わざわざ私に送信する用に撮影したらしい。私への簡単なメッセージが書かれた色とりどりのメモが周囲を飾っている。
「あれ?」
隅っこに半ば追いやられた感じの、異質な1枚。
『タイトル 柔らかな雨』
何この気持ち悪いコメント……。誰の字?
訝しんで画面の文に目を通す。
「雨は原田 キモくない?」
え、と声が出かかった。
この顔の熱さは熱のせいじゃない。そして原田のコメントはキモくない。いつもなら一緒になってキモイキモイと笑い転げるところだけど。原田ってやっぱり…って言っちゃうところだけど。
柔らかな雨。
慌てて鉛筆のデッサンを机の上から拾い上げる。そう言えば、原田は絵が苦手だった。この時も独特な画風を仲間がからかって、原田は顔を赤くしていたんだった。なのに、…。
熱のせいかな。呆気なく決壊した涙腺。ぽとり、と涙の粒が膝に落ちた。まるで柔らかい雨のように。
《柔らかな雨》
寒いし。雨だし。北海道で雪がどうとか朝のニュースで言ってたし。断言するけど、こんな中で傘までさして花火しようとか言ってるの、たぶん私達だけだと思う。写真上げたら面白くない?って言われて、確かにウケそうだなぁって思っちゃって、勢いでOKしちゃったようなもんだけど。こんなことなら断って、家でまったりしとくんだった。明日は誕生日なのに、こんなことで風邪なんかひいたらバカらしい。
「これじゃ、バケツ、いらないね」
若干の嫌味を込めて言ってみる。でも、能天気なメロは、
「ゴミ捨て用に置いとこう」
と無邪気にガレージからバケツを探し出してきた。変なとこ真面目なんだよね。
「どんなの?見せて」
メロが抱えている花火のパックを覗き込むと、メロは嬉しそうに傘の中で掲げてみせた。さすがに実物を見れば少しずつテンションが上がってくる。玄関の軒下にロウソクを立てる頃には、2人で試行錯誤しながら風や雨を避けるのがすっかり楽しくなっていた。
「どれからやる?」
メロと1本ずつ取り、奪い合うように火を付ける。シュウ、という懐かしい音を立て、花火は原色の炎を吐いた。甘い火薬の匂いが鼻を突く。
傘に煙がこもり、私とメロは涙目になってむせながら花火を消費していった。写真を撮るのがメインだったはずなのに、いつしかただ炎の軌跡を眺めることに没頭し始める。赤や緑やピンクに彩られる狭い空間に、ただ2人だけ。どきりと弾む胸。
派手な手持ち花火が尽き、私とメロは最後に残った線香花火を手に持った。
「懐かしいね」
メロは少し遠い目をして言った。小学生の頃、どちらかの家の前で、みんなで輪になり線香花火をしたことがあった。メロのお兄ちゃんと私のお兄ちゃんは中学と高校の部活が同じで、事あるごとに集まって過ごしていたから。
「競争、する?」
メロの提案は、不自然なほど自然だった。過去をなぞる度に生まれる、胸の奥のくすぐったい感覚。そういうことか。いつしか安定してしまった2人の関係に、メロはどうやら亀裂を入れたいらしい。
「いいよ」
メロがそう決めたなら、受けて立つに決まってる。あの日、1番に光の玉を落としたメロは、私の名前を言ったんだ。すきなひと。お兄ちゃん達のふざけたお題を真に受けて、私の名前を言ったんだ。
「お題は?」
あの時のように、メロは真っ直ぐに私を見て言った。
「好きな人」
私も真っ直ぐに答える。
ふ、と息が漏れたのは、笑ったんじゃない。全身に漲る力が収まりきらなかったから。真剣勝負だよ、メロ。
大事に大事に火をともした先から、一筋の光が弧を描いて流れた。
《一筋の光》
「ここ、ここなんですよ!」
決して大きくはないけれど丸く愛嬌のある目を興奮気味に見開き、夏木は丸めたプリントを握り締めた。それ、多田がさっきわざわざ持ってきてくれた部活の計画表じゃなかったっけ?まあ、関係ないから別にいいけど。
感傷的なメロディーが俺と夏木の間の空間をゆったりと染めていく。こんなの、夏木が覚えてくるなんて。少し前まで海外のボーイズグループに夢中で、スマホケースの中ではAIが作ったみたいに整った男が笑ってたし、インスタもTikTokもそいつで溢れかえってたのに。
「くぅ〜、沁みる!」
今度は目を閉じ、夏木は大げさに頭を振った。夏木の口から「しみる」なんて言葉が出てくる違和感。たぶん、擦りむいた膝に水かけた時にしか聞いたことない気がする。
「あー、まあ、いい曲ですね」
パンをかじったまま棒読みで応じると、なんかの枝みたいに姿形を変えたプリントが俺の頭を叩いた。
「真面目に聴きなさいって!」
聴いてるよ、いつも。お前が聴いてるものは、必ず聴いてる。お前が見てるものも、食べてるものも、外したことなんかない。だから、つい最近までお前が推してたあのAI面の誕生日も、出身高校も、家族構成も、なんならペットの名前まで、俺は暗記してしまった。
なのに、なんだこれは。予想外どころの話じゃない。ガチでこんなの、どこで覚えてきたんだよ。
「どこ…が好きなの?」
どこで、と聞く勇気がなく、俺は自分をごまかした。だって、夏木と最近よく話してる世界史の小野田はクラシックが好きだって言ってたから。分かりやすすぎる。そんな簡単な問題を間違える俺じゃない。だから、答え合わせはしたくなかった。
「え?この曲?だから、さっきのとこ!なんかさぁ、すごく、その、ん〜、」
人の気も知らず興奮したままの夏木はプリントの枝を宙に彷徨わせた。ビギナーでこの曲の良さをどう表現するのか、意地悪な興味が湧いた俺は助け舟を出さずにパンをかじり続けた。すると夏木は頭の中で言葉を手繰り寄せたらしく、得意げに枝を机にポン、と当てた。
「そうだ、哀愁を誘う感じ、かな!こういうの、好き!」
哀愁……
思いがけずしっくりくる言葉選びに面食らいつつ、俺は目の前の夏木にその哀愁を感じずにいられなかった。
いいか夏木。小野田はな、派手な曲が好きなんだよ。こんなプーランクのメランコリーみたいな、いかにも悲哀に満ちた曲は好みじゃないんだよ。残念だけど、まだまだ勉強不足。
「哀愁なぁ〜、ふ〜ん」
「なにその、バカにした感じ。サイテー」
見慣れた夏木の顔が、妙に大人びて見える気がした。2次元のアニメキャラとアイドルで安心してた俺の世界が壊れてく。分かってたけど、いつか終わりが来ることなんか。何度も聞いてきた「サイテー」がこんなに「沁みる」なんて。
「もっといい曲、教えてやろうか」
なんでそんな気になったのか自分でもよく分からない。幼馴染の余裕を見せたかったのかもしれないし、知ったかぶりの夏木に嫌味を言いたかったのかもしれないし、……違うな。やっぱり俺は夏木に笑顔でいてほしいんだ。だから、俺は教えてやった。小野田が好きだって言ってた、派手でお花畑な、きらきらした曲を。
夏木は俺が共有してやった曲を難しい顔で必死に聴き始めた。この曲は、もっと明るく幸せな顔で聴くもんなんだって、そう言ってやりたいくらいに険しい顔で。真剣、なんだろな。自分で教えてやったくせに、俺はそんな夏木を見ているのが苦しくて、すぐにこの地獄から逃げ出したくなってしまった。
「あ、やべ。俺、宿題忘れてたんだった」
「え?」
「またな」
下手な嘘だったけど、夏木はきっと、俺が飽きたと思ったんだろう。モーツァルトに派手に見送られながらの退場は、引き止められることはなかった。昼休みの喧騒の中を漂うように歩く俺の脳内BGMのモーツァルト。俺はもう2度とモーツァルトを聴かないと誓った。
「ちょっと、センセー!」
社会科教員室に音高く駆け込んだ夏木は僕を涙目で睨み、手に持っているプリントの残骸のようなもので殴りかかってきた。
「なに、どうしたの」
苦笑いしながら軽く払ってやる。
「ハズレ!センセーの教えてくれた曲、全っ然ハズレ!」
「あ、そうだった?」
おかしいな。彼と話した感じで、プーランクのメランコリーは絶対に好きだと思ったんだけど。ああ見えて官能的で美しい旋律の曲を好んで聴いているなんて、侮れないやつだと思ったんだけどなあ。
「ムチャクチャ明るい曲、オススメされた!つまんねーやつ、みたいな顔でいなくなっちゃったし!ねえ、責任取って!」
そう言われても……。
「んー、まあ、じゃあ、それ聴いてたらいいじゃない」
僕の適当な助言に不満を奏でる夏木を、ため息混じりにあしらい続ける。頼むから早く気付いてやってくれないかな。今時、幼馴染の両片想いなんて流行らないんだから。
「分かりました。もう1曲教えるから、それで許してください」
「ほんとに?ほんとにこれでいい?」
僕のスマホを奪うようにして夏木は画面を凝視した。曲名を暗記しているんだろう。あぁ、青春って美しい。僕にもこんな頃があった。実らなかった片想いを久しぶりに思い出すと、胸の内が甘く痛む。なんだろうな、この感傷的な感覚は。そう、あれだな。哀愁ってやつだ……。
再びこっそり放ったため息は、口元で笑み混じりの吐息に変わっていた。
《哀愁を誘う》