右と左がいまだに分からない。いや、時間をかければ思い出せるし左右の概念は理解している。でも、「右を向いて」「左のを取って」と指示されると瞬時に対応できない。どうしても、もたついてしまう。
いつも頭に浮かぶのは、幼い頃の夕食の光景。「箸を持つのが右、茶碗を持つのが左」という呪文のような祖母の声。ただ、俺は左利きだから皆とは逆になる。「箸を持つのは右だから俺は左、茶碗を持つのは左だから俺は右」といちいち記憶を辿るせいで時間がかかるのだ。思考をショートカットさせればいいだけの話なのに、俺の脳の電気信号はどうも通い慣れた進路を丁寧に遠回りしたいらしい。
汗を流そうとシャツを脱ぎながら、ふと鏡の中の自分と目が合った。左右が反転した世界の俺。
お前も右と左が分かんねえのか。
同情の眼差しをお互いに向け合い、同時にため息をついた。鏡の向こうに広がるあっちの世界で、俺は同じようにミスを犯したんだろうか。よりによって、あいつの前でやらかすなんて。
「おっまえ、右と左、分かんねーの?何歳?」
けたたましい笑い声が脳裏にこびりついている。畳み掛けるように浴びせられた問いに、俺は完全に焦って何度も失敗を重ねた。珍しいものでも見るかのような周囲の視線。中でも、いつも俺に柔らかい光を向けていたはずの彼女の目の色に、俺は耐えられなかった。
「あー、くそっ!」
鏡の向こうにいたら俺は右利きで、忌まわしい呪文に心乱されることもなかったんだ。お前はいいよな、なんて拗ねた言いがかりをつけたくもなる。
シャワーを浴びながら、俺は何回も左手を握り締めた。こっちが左。いいか、こっちが左。俺は左利きだから、こっちが左なんだぞ。新しい回路を開くために体に覚え込ませたつもりだったけれど、夕食の席でまた呪縛に取り憑かれてしまった。箸を持つのが、……右だけど、俺は左……。ああ、ダメだ。
「……どうしたの?」
いっそ右で箸を持ったらいいんじゃないかとヤケクソで持ち替えたのを、母親が心配そうに覗き込んできた。
「……別に。」
不器用な右手で肉を食らう。超絶カッコ悪。見られたくない、こんな俺。あの曇った視線じゃなくて、いつもの柔らかい光を向けて欲しい。彼女の前では輝いた自分になれる気がするんだ。こんな右も左も分からない俺じゃなくて。……
左。左。左。
朝日の中、左足を踏み込むタイミングで左手を握る。
左。左。左。
スープのスプーンを握ったのは右。ああ、余計なことを思い出すなって。
左。左。左。
トン、と肘を突かれ、俺は体の緊張を解いた。
「おはよ。」
柔らかい光。眩く白んだ朝日の波長を暖色に変えて、いつものように俺を包む優しい光。
「……おはよう。」
引きつってないかな。自然に笑えてるかな。クールを気取りながら鼓動が激しくなっていく。カッコ悪くないかな、俺……。
「あのね、ちょっと、手首貸して?」
「え?」
突然の依頼に呆ける俺の手……箸を持つ方だから、皆は右だけど俺は逆で、つまり左手を彼女は少し持ち上げた。
「作ったんだ。おまじない?魔除け?左利きなのに、左につけたら邪魔かな?」
「え?」
いわゆるミサンガってやつを俺の手首にくくりつけ、彼女は思いきり元気な笑顔を俺に向けた。けど、ミサンガを巻く彼女の手は震えていたし、今も頬が不自然に硬くなっている。
「……ありがと。」
祖母の呪文が急激に小さくなり、「左につけた」という彼女の高い声が上書きしていく。左。このミサンガがある方が左。大丈夫。もう大丈夫だ。
「ありがとう。」
もう一度言った。そして俺は、ミサンガの手を彼女に差し出した。
いつもの通学路。ミサンガのついた手を彼女と繋いで、いかにも幸せそうな俺が店のガラスに映る。お前は右、俺は左。このミサンガも、温もりも、もう忘れない。お前もそうだろ?
良かったな。
そんな自分の声が聞こえた気がした。
《鏡の中の自分》