幸せに
母はよく、歌を歌ってくれた。
膝枕をして、縁側で鳴り響く母の声。
お日様に照らされているせいなのか、どうしようもなく心地よくて毎回僕は眠ってしまう。
「かあさん」
さりげなく視線を上に向けると、母と目が合った。
すると、歌っていた口を止めて、僕の頭に手を置き、手のひらをやさしく動かす。
「なんで……歌ってくれるん?」
僕がそう聞くと、かあさんは力無く頬を緩ませ微笑した。
遠く木を見て「なんでやろうねぇ」と答える。
「そうやな、あんたが怖くならんよう歌ぉとる」
「僕、怖くあらへんよ」
かあさんが、また「ふふふ」と笑った。
「小さいとき、『やな夢みた』って言って、わたしの元離れへんかってんで?」
「トイレまで一緒に着いてくるもんやから、大変やったなぁ」
僕は、耳が赤くなる。
一瞬、記憶もない過去の自分を恨んだけれど、それよりも目の前の恥ずかしさで、母の服をぎゅっと握った。
猫のように丸くなってしまった僕を、かあさんは笑いを耐えながら、柔らかい眼差しでこちらを見つめる。
「怖あらへんやろ?」
「うん」
お日様は、まだ沈まないまま。
ずっとこのままでありますように
そう願って、僕は重たい瞼を閉じた。
何気ないふり
「先生」
私は先生の元へ駆け寄る。
すると、声に気づいた先生が後ろを振り返り、こちらを見た。
「少しいいですか?」
「学校内で走らないように」
間髪を入れず、そう答えた。
ああ、まずい。
先生と会うというのに、初歩的なミスを犯してしまった。
「先程の授業でわからないことがあって」
私が困ったように質問すると、先生は丁寧に教科書を開き、どこが分からないのか聞いてくる。
ここです、この問題がどうしてもわからなくて。
先生は問題に指を指すと、一から順に説明していく。
私が首を傾げると、一度問題を止めて、理解できない場所から答えを埋めていった。
先生の教え方が効率が良いこと、私の飲み込みが早いことで直ぐに問題は解決した。
「ありがとうございます、先生」
私が笑って伝えると、
「いいんですよ」
と答えて微笑み返した。
用事が済んだ先生は教科書を閉じて『じゃあ』と言って私の元を去ろうとする。
その様子を見て、私は先生の前を塞ぎ、行き場を無くした。
「お話しましょうよ」
私がそう言うと
「忙しいんだけれどね、まぁ大丈夫だよ」
先生は、苦笑気味に答えた。
私たちは当たり障りのない会話をする。
最近調子はどうだ、と先生の質問から始まって、『順調です』と私が答える。
部活は、勉強は、両親は、ペットは?
途中、体を小刻みに揺らしながら話すのを先生に指摘されて『ごめんなさい』と伝える。
けれど、『謝ることじゃないよ』と言われ、何事もなく会話を続けた。
ほとんど話題を話し切った私は何も言うことがなくなって、じっと先生の方を見た。
それは先生も同じことだったようで、私の瞳が、先生の視線と絡み合う。
私は穴が開くんじゃないかというほど先生を見つめた。
奥の方まで届くように、と気持ちを込める。
すると、先生は視線を右へ走らせた。
それと同時に、先生は服を握る力が強くなる。
私は知っている。先生のことすべて。
「ふふふ」
「な、どうした……?」
「いえ、ごめんなさい」
まだ笑いを収まりきれていないまま口を隠す。
ふと耳を傾けると、チャイム音が鳴っていた。
「ああ、もうこんな時間ですね」
「教室へ、戻らないと」
「はい、気をつけて」
私はゆっくりと振り返り、来た道を戻った。
先生は後ろを振り返らず、そのまま前へ進んだ。
廊下はひどく冷たくて、校内にはまだ少しチャイムの名残りの音が残っている。
教室のドアを見つめながら歩いていると、背後から声をかけられた。
「なあに」
女子生徒が腕を組んで待っていた。
彼女は目を細くさせて、こちらを見る。
「あんたって、ほんと性格悪い」
「イタズラ好きにもほどがあるわ」
「なんのこと?」
「とぼけたって無駄よ、全部知ってるんだからね」
友人である彼女は、怒り気味に声を上げる。
「好奇心旺盛と言ってほしいね」
私がそう答えると、彼女は更に怒ってあからさまに機嫌が悪くなった。
「問題、知ってた癖に」
彼女が俯きながら呟く。
それにはいろんな感情が込められている気がした。
多分、私への嫌悪だと思うけれど。
「あの人、人が苦手なのよ」
彼女が指す“あの人”とは先生のことだ。
「それなのに教師をしてるって、ちょっと、おかしいよね」
「ほんとうにイライラするわ。なんなのかしら、あなた」
あの先生のこととなると、彼女は人が変わったようになる。
確か、何度か助けてもらったのだとか。
おそらく彼女にとって先生は大切で、恩人でもある。
そんな優しい人柄に漬け込んで揶揄う輩がいれば、自分のことのように怒るのも当然だと、彼女は言った。
「廊下を走るなと言ったのに……」
続きを言おうとした時、彼女は私の膝を蹴る。
あまりに突然なことで、私は前屈みになった。
痛い、というものではなく結構な怒りが込められた蹴りであった。
「ご、めん……もちろん、私も、先生が好きだよ」
半分強制させた物言いになってしまったが、私が先生を好きなのは本当だ。
だけど、あまりにも先生の反応が面白くて、つい揶揄いたくなってしまうのも嘘ではない。
「わかった。もう、しないよ」
私がそう言うと、彼女は『本当ね?』と何度も確認を取り、私の元を去った。
“学校内で走らないように”
“先生を揶揄わないこと”
先生と、彼女との約束を思い出す。
私の頭の中で、少し悪い考えが頭をよぎった。
ハッピーエンド
神様、仏様、天使、悪魔。なんでもいい。
もし、過去をやり直せるのなら。
もう一度だけ、チャンスをくれるのなら。
その時は、必ず。
「ドライブでもしましょうか」
机の横から、穏やかな声が聞こえる。
妻だった。
来た、戻ってきたんだ。
彼女は優しく肩を叩き、うたた寝している僕を起す。
体制を整えようと体を起きあがらせると、布が擦り合わさる音がした。
どうやら寝ている間に毛布をかけてくれたようだ。
「ありがとう」
僕は、彼女を見つめた。
暫くそうしていると、彼女は首を少し傾ける。
煌びやかではないけれど、ぎゅっと守りたくなるような笑顔。
彼女の顔を見れば、たくさんの出来事を思い出す。
僕が迷子で困っていた時、僕は泣いて、君は半べそをかきながら交番へ連れて行ってくれたよね。
君がボウリングでガターをした時、僕は君を慰めようと前へ出るけど、その時思い切り滑って後ろから転んだの、まだ覚えてるかな。
プロポーズをした時、君は泣いて、僕は笑ってた。
結婚を親から批判されていた時も、君は嫌な顔一つもせず、両親と向き合い説得した。
僕にはもったいないほど、幼少期からずっと一緒の君。
幸せな生活を送っていた、けれど
彼女は交通事故で死んだ。
それも、僕の目の前で。
運転席に居た僕だけが、生き残ってしまった。
「────なら」
「運命を変えれないと言うのなら」
「ねぇ……!あなた……!」
僕の手を握る、彼女の手から汗が伝わってくる。
窓越しに見える景色は、目では追えないほど変わっていた。
「小さい頃にした約束、覚えてるかな」
そう、僕が聞く。
『何を言っているの』と動揺する目を見て、一呼吸置き、口を開いた。
「ずっと一緒だと、約束したよね」
同じ過ちは繰り返さない。
怯える彼女の側に寄って、僕は構わずアクセルを踏んだ。
見つめられると
「あぁ!なんて素晴らしい日!」
「あの人が、ついに!わたしを見てくれました!」
落屋だという男は、一枚の絵を見つめ、恍惚な感情に浸っていた。
ぴくりとも動かない彼の目を見つめては、頭を撫で、またそれを繰り返す。
壁にまた一つ、あの人の絵が飾られた。
ふと、あの人が自分を見ていると思えば、なんとも不思議な感覚が降り注いだ。
その感覚を噛み締めた後、男は酒場に出向きました。
暖簾を潜ると、店主がさぁ、どうぞ。と迎い入れてくれる。
つまみを頼み、酒をちびちびと飲んでいると、1人の男が席を陣取り、こちらを見る。
酒が入っていたこともあって、男は気分が良くなり、あの人のことを全てを話しました。
全てを聞いた男は「ふうん」と返事を打つと
「見定められているんだよ」
と、言った。
「見据えているのですか」
わたしがそう聞くと、不愉快でしたか、と彼が問う。
「あの人が?わたしを?」
「ありえない」
冷たくなったグラスを握り直し、男の頭を目掛けて投げた。
きゃああと言う客の悲鳴と共に、けたたましい音が鳴り響く。
「あなたが、悪いのです。あなたが」
そう何度か繰り返すと、男はガラスの破片で首を刺した。
「これは?」と、あの人が問いました。
二つの死体。
横には、少し血の付いたボロボロの紙切れが置かれている。
慎重に中身を開くと、そこには
“わたしを見てください”
拙い文字で、そう書かれていた。
My Heart
「エス」と私を呼ぶ声がする。
狭い空間内でいくつもの機械音が響き渡り、天井にぶら下がる照明が煌々と輝いた。
目の前の扉が開かれ、白衣を着た男のシルエットが目に入る。
「マスター」
彼女がそう言うと、男は顔を見て微笑んだ。コンクリートでできた地面を超えて、すぅっと部屋に入ってくる。
わき目もふらずにデスクへ向かうと、パネルに向かって何やら操作をし始めた。
男が最後のボタン押すと、空気が縮むような音を立てて、体に付けられた装置が外れていく。
段々と頭の中がクリアになっていき、目を見開くと、目の前には“15時36分”と表示された。
そう、彼女は精巧に作られたアンドロイドであった。
「おはよう、エス」
「おはようございます、マスター。差し支えなければお答えします」
「『おはよう』と言うことは、相手に朝の挨拶をする意思を示します。一般的に、朝の時間帯(午前5時から午前11時頃)に使われるのです」
ですので、と彼女は言葉付け足す。
「正確には『こんにちは』が正解かと」
彼女が無機質に言い放すと、「ふふ」と彼が笑う。
白衣を揺らしながら、書類まみれの上に置かれたコーヒーを手に取ると、何度かカフェインを啜った。
寝ていないのですか、と質問すると、生返事と共に「寝てるよ」なんて返答が返ってくる。
寝不足なのだろう。彼の目の下にはくっきりと隈が残っていた。
「寝不足は体に悪影響を及ぼす可能性があります」
「生物に睡眠は大切です。無理をせずに休む時間を確保してください」
「うん」
目の前の白衣を着た男は目を伏せて、カルテに筆を走らせる。
マスター、と彼女が説得していると「サイボーグにでもなろうかな」と冗談混じりで愚痴を溢した。
淡々と作業をこなしていた彼の口が、突然開かれる。
「……夢があるんだ」
「夢ですか」
その答えに、彼は「うん」と頷く。
ペンを机に置いて、彼女の方へ椅子を回転させる。
過去のデータから解析するけれど、彼の頭上には、“測定不能”と表示されていた。
「すべて、僕のエゴなんだけれどもね」
彼は、回転椅子に座りながら浅く笑う。
ずっと考えていたんだ、と口頭に。
「アンドロイドが人間と同じように暮らして、笑いながら手を取り合う」
「僕の頭の中ではずっと、そんな光景が流れているんだ」
“興奮”
視線の先にはそう示されていた。
エラーが発生する時は、感情が昂った際に引き起こされる。
「……一部では、アンドロイドへ恐怖の念を抱いていると聞きますが」
「相手のことを知らないから、そう思うんだ。そんなの、人間も同じことだろう?」
彼はジッと視線を送る。
「共存できる未来が訪れることを僕は信じているよ」
「君の、いいや───」
「君たちの存在価値を」
純粋無垢に夢を見る少年に戻ったように、目を輝かせた。
まるで、熱を帯びたように。
その目に宿った気高い目つきが、崇高な気持ちを物語らせる。
ささやかな違和感。故障はしていないはず。
「人類の手助けになれて光栄です」
何万通りの中の、プログラムされた回答だ。
そんなこと、すべて分かりきっている。
「聞こえていないのかな」なんて諦め気味に言う彼の返事を、まだ出せずにいた。