いつまでも捨てられないもの
「姐さん、あたし。温かいスープが飲みたいわ」
「姐さん、あたし。新しいお洋服が欲しいの」
「姐さん、お食事前にはここを綺麗にしておいてね」
この声が耳障りだった。ずっと耳に張り付いて止まない呪いのような言葉がわたしを縛り続けてきた。解放してほしいと願うだけで何も起こらない日々を過ごすのは今日で最後になるの。
首に覆う手に力を入れた。彼女が寝息を立てるたびに、のどの奥が膨らむ音がする。少し力を入れるだけ。これは悪いことなんかじゃない。邪魔だから、要らないでしょ。あなたも。
「違うわ……きっと、こんなの間違ってる」
「起きたの、姐さん。」
「……っええ、すこし心配になっただけよ」
「そう……はやく寝てちょうだい」
そう言い残すと、彼女はふんと背を向けて、大きく肩を下ろした。わたしは扉を開けてすぐに廊下を走り、部屋のドアに強く鍵をかけた。身体中、ひどく汗をかいて、一晩中、布で汚れを落としていた。何度擦っても落ちずに、気づけば窓から溢れる陽射しが三面鏡に反射していた。
「このトマト、赤いわ。運がいいのね」
「赤くないわよ。いつもと対して変わらないでしょ」
「これ、あなたの?」
「汚い……早く拭いてよ」
「どうせなら心中でもしとくんだったわ」
「いいのよ、もう全部終わるんだから」
梅雨
私は嘗て、いいえ、もっと小さかった頃から「雨」という名で呼ばれておりました。これは本名ではなく、私のあだ名です。本当の名前は、浅上友介(あさがみゆうすけ)と云います。
かつて幼子だった頃の私にとって、「ああ、少し太陽の光を浴びようか」と云い、田圃へふらっと足を運ぶことも容易いことではありません。ふと軽い気持ちで、玄関の扉を開けた次には、太陽が雲を覆い、雨が降るからです。比喩ではなく、本当に降るのですから、困った、とひとしきりに括れるほど面倒なものは無く、頬を伝って、雨の粒が顔に濡れる度、私は本当に小さい雨男なのだと実感しました。──と云っても、私は生粋の田舎者でして、朝起きて、山があり、田圃があり、近くに行けば川があるのが当たり前、との環境で育ってきました。なので、雨が降っても特に支障はありません。気候を逆さにしても、次の日には、近所のお年寄りに礼や菓子を貰える事もあります。けれど、下校中、手に菓子を持った私を見て、おちゃらけた男の一人が云いました。
“お前は雨の子だ”、と。
その瞬間、私の見えない所で幾つもの歯車が周りだし、私の運命は決まりました。幼少期特有の言葉遊びというのか、要はやることがないのです。先程申した通り、田舎で何もすることがなく、暇だったのでしょう。とんだ悪友です。ああ、いや、かくゆう私もその1人です。こうして、昼間っから一人で、誰に渡すのかも分からない手紙を書いているのですから。
とはいえ、私にとっては、名前で呼ばれるのも又珍しいことでありました。母でさえ、私の事を「雨ちゃん」呼ぶのです。「私は浅上友介ではなく、浅上雨なのではないか」
と云うと、父は笑ったものです。
今となっては、誰が付けたのかは分からない、雨と云う名前。雨、雨、と何度も呼ばれる内に、私の名前は雨なのかと錯覚し始めて、私は名付けの親である彼に、なぜ雨なのか問いました。
「お前のゆく場所に雨が降るからだよ、分かるだろうて」
と、さも当たり前かのように答えるのでした。
後悔
泣かない。それが娘の短所であると、夫は言っていました。娘は今年で17になる、高校生です。そそっかしく、神経質な私とは違い、娘は物覚えもよく、気配りもできる良い子でありました。けれど、突然娘が犬を飼いたいと言い出しました。その言葉を聞いて、私は息が詰まります。娘が責任を持って何かをしたい、ということは一度もなかったものですから、とても驚きました。もちろん、二の次にはいと申したかったのですが、私は今までに一度も、金魚さえ、動物というものを飼ったことがありません。あるといったくらいなら、学校の帰り道、野良猫をひと撫でしたくらいでした。
「犬を飼っている人に聞けばいいだろう」
と夫がいいます。
私は感謝を述べて、家を出ました。丁度、友人の息子が帰ってくる時間でした。
家のドアを開けると驚いた様子で、
「やだ。あなた、エプロン付けたままじゃないの」
と、いい、茶を啜っていいました。
「あの、聞きたいことが」
近所とはいえ走ったせいか、息苦しくて、私は膝をつきます。
その様子に気づいた彼女が、私のそばによって、背中をさすりました。
「大丈夫?ひどい焦っているようだけど、何か?」
「実は、」
そういいかけた時、玄関が開きました。学生服を着た男が、私を見下ろしています。
「や……ぁ、どうも。失礼」
私を跨いで先へ進みます。
「靴下履いたまま上がるんじゃないよ」という彼女の怒声が聞こえて、私は思わず笑いました。
「息子さんですか?」
「ああ、見るのは初めてだったね。二郎だよ、確か、あなたと同じ娘さんと同じクラスのはず」
「そうですか、すみません。突然上がったりして」
彼女
風に身をまかせ
到底辿り着くことができない森の奥深くに眠っている不思議な物があると聞いて、易々と足を運ぶ。
どこを見渡しても木、木、木……。
いやはや、迷子ですか?
「ええ、そうです。元の道もわからないままで」
それは大変だ。あなたは、どちらからいらっしゃったんですか?
「ここから近く、ではないでしょうが、川沿いにある村落です」
ご安心を、私はここをよく知っています。あなたの言う村落までご案内できますよ
「本当ですか?いやあ、助かります。どうも、ありがとう」
男は、失礼、と言い軽く会釈をすると、着ていたコートを広げて、手招きをした。
ささ、こちらですよ。どうぞ、お入りになって
「いいえ、大丈夫です。」
まさか、その状態で帰るつもりで?手が震えていますよ
ああ、大丈夫、何もしません
少し考えた後、男の懐へ入る。すると、内側にある中綿に包まれた。
すみませんが、動物臭い
申し訳ない、先ほど、狐に襲われてしまって
そうですか、あの、真っ暗で、何も見えませんけれど
……暖かい、でしょう?
ええ、まあ
では、行きましょうか。
小枝を踏んで、歩き出した。ガサ、という足音は、暖かい通り風と共に消えていった。
失われた時間
縁側の下で、猫がにゃあと鳴く。頭を覗かせると、猫は体を思い切りに背伸びをさせ、
「わ」
顔に丸い手を置いた。私が手で砂を払っていると、猫が姿を現す。私はすぐに、辺りを素早く見渡して、ほっと息を吐いた。
「だめじゃないか。よしもなく出てきちゃあ」
猫はにゃあと言って、私の足に擦り寄り、喉を鳴らした。顎の下を撫でてやれば、「もっと」というように体を捻らせる。そういえば、この動作は横ばって、芋虫のような動きをするなと、ふと思った。
「猫さん、元気なの?」
帰り道、明美が聞いてきた。
いつも通りだよと返事を打つと、ふうんと興味の無さそうな声色を出して、石を蹴る。
「一つ、言いたいことがあるんだけど、言っても?」
「どうぞ」
「その、ね。猫の話なんだけど、その子、前からいたんだってね。まあ、それはいいんだけどね……ほら、私の叔父さんいるでしょ。ちょっと大きなホクロが頬にある叔父さん。生き物に詳しくってね、ちょっと私聞いてみた」
「待って。つまり、何が言いたいの?」
明美は、少し俯いたあと、顔を上に向ける。
「雄か雌か、確認しておいた方がいいと思う」
つまるところ、猫が私の家を住処にするのを心配していたらしく、なんともまあ、回りくどい説明を長々と受けて、私は帰路に着く。結局彼女も、私の家の前まで来て、
「あなたの親御さん、やあやあ煩いようだから、忠告みたいなもの」
と最後に言って、踵を返して帰っていった。
「おにい、あの子はどこへ?」
「見てないね……住処を変えたんじゃないの」
猫が、来なかった。いつもは、日が落ちる前に来た、あの茶色いふわふわの毛をした猫が、来なかった。
どうしても頭に突っかかって、もう一度兄へ聞いてみたが、ふうんと言うだけで、その日は結局、猫は訪れなかった。
『次の日になった。猫が帰ってくるまで、日記をつけることにした。どうせ、近くの高架下の草むらで、他の猫と喧嘩をしているんだろうけど、あの子が胸を張りながら餌を咥えている姿は、あまり期待しないでおく。』
『次の日になった。明美に猫はどうかと聞かれた。別にと言うと、明美は服に手を入れてくすぐってきた。本当に知らないと言うと、少し残念そうにしていた。今日の分の宿題が、まだ終わっていない』
『次の日になった。相変わらず猫はいない。外は少し寒くなぬて、暖かい服をする人をすれ違いざまに見かけた。猫は大丈夫だろうか。厚着をしているみたいな毛の量だから、大丈夫だと思うけど、』
『次の日になった。いつも猫、猫というけれど、両親には内緒で名前を名付けていた。書かないけど。…ちょっと後悔した。名前で呼んでおけばよかった。』
『次の日になった。どこを探しても見つからない。門限を少し過ぎたせいで、両親に叱られた。20分だけなのに。けち。』
『次の日になった。家の敷地内はどうかと思って探していると、あの子が通った痕跡を見つけた!爪で引っ掻いていたのか柵の下部がボロボロになっている。通れやすいように、少し剥がしておいた』
『あまり変化はないけど、色々試すことにする』