ないものねだり
書いていた手を止め、こちらを見た。
「そんなに考えなくていいんだよ」
「え……なんのこと?」
「君が今やっている課題のことさ」
あまりにも頭を捻らせるものだから君の首が折れてしまうんじゃないかと心配だったよ、と彼は微笑した。
「君は頭がいいからそんな言葉を言えるんだね」
「僕はそんな優秀な人じゃないよ」
「……事実だから」
不服そうに息を吐いた僕に、彼は視線を寄越す。
彼は少し前のめりになって、「あのね」と続きを口にした。
僕らは図書館にいた。
横には友人の彼がいて、ノートを広げて勉強をしている。
それは僕自身も例外ではなく、本を読んでいた僕を“勉強会”と言い寮に押しかけて来て、無理矢理連れてこられた次第だ。
彼とは特に親しいわけもなく、正直なんで僕と友達のような真似ごとをするのかわからない。
けれど何かとある度に僕を引き連れてくるものだから僕は必然と彼といる時間が多くなった。
彼は頭が良くて、人気者で、お人好しの人格者。
これでもかと高品質な材料を詰め込んだんじゃないかと思うほどに完璧だ。
「妬ましいか」と聞かれればそうでもない。
優しい性格だからこそ、相手を憎ませない彼の才能であるんだと勝手に納得した。
「そんなに考えなくていいんだよ」
「え……なんのこと?」
「君が今やっている課題のことさ」
あまりにも頭を捻らせるものだから君の首が折れてしまうんじゃないかと心配だったよ、と彼は微笑した。
手元のノートを見ると、それはもう白紙に近い。
長い間、課題に悩む僕を心配して声をかけたんだとすぐにわかった。
「少し、考え事をしていたんだ。この問題のことは関係ないよ。それに……」
「それに?」
と、彼が繰り返した。
文字を書いていたペンを止めて、僕の方を真剣に見つめる彼の足が前に出される。
『君のことを考えていた』なんて口が腐っても言えない。
僕は咄嗟に思いついた嘘を吐き、話題を変えた。
彼は僕の言葉をけろっと信じたらしく、「そう」とだけ言い残すとペンを握り直した。
トントン、と小さな音がする。
何だ?と音の行方を探すと、彼が片手を暇そうにして、膝の上を叩いていることに気づいた。
手を膝に置いたのかと思うと、滑らかに手を滑らせ親指と中指を交互に押している。
「君ってピアノが弾けるの?」
「少しならね」
「……ごめん、癖で。うるさかった?」
気まずそうに彼が僕に聞いた。
「いや、大丈夫」
と、僕は答えた。
あれからどのくらい時間が経ったのだろうか。
君といて、初めて居心地が悪いと感じた。
「ねぇ」と君が一言言えば周囲の人間が振り返ること?何を言われようが悩みなんて一つもない、って笑顔を返すところ?
別に、ピアノが弾ける彼に嫉妬したわけじゃない。
なぜかって、彼が今勉強しているのは一学年上の内容だったからだ。
彼のノートを見ても何を書いているのかわからない。
理解できないんだ。
これまでの行動が、すべて僕を煽っているようで君の“良い所”を見せつけているようにしか見えなかった。
「どこいくの?ねぇ、」
突然席を立った僕に彼は問い詰める。
離れようとしても、力強い彼に腕を握られて動けない。
「帰る」
「鞄も置いて?」
多分、今僕は物凄く気の抜けたな顔をしているんだろう。
『離して』というと瞬時に駄目だと言われ、抵抗すればするほど、僕の腕を握る彼の手が更に強くなる。
徐々に、二の腕が本当に痛くなってきて動くのをやめた。
「……僕が何かした?なら、ごめん」
「君に何があったのか教えて欲しい、言ってくれないと、わからないから」
僕は黙り込んだ。
君は、何も言わない僕のことをジッと見つめて、君は僕が口を開くことを待っている。
「君は……頭がいいからそんな言葉を言えるんだね」
「今は頭の良さは関係ないだろう?一体何を……」
「なら嫌がらせか。どっちにしろ、天才の君には理解できないだろうね」
「僕はそんな優秀な人じゃないよ」
「……事実だから」
と、僕は言った。
不服そうに息を吐いた僕に、彼は視線を寄越す。
彼は少し前のめりになって、「あのね」と続きを口にした。
「なに、」
と、言う暇もなく君は食い気味に言う。
「僕も、君がうらやましいよ」
俯いていた僕の顔を上げて、腰を引き寄せた。
唇で無理矢理に口を開かれて、彼の柔らかい舌が差し込んでくる。
咄嗟のことで、何も反応できず、そのまま机に追いやられた。
彼の胸を押すけれど、ぴくりたりとも動かない。
僕は息を、酸素を吸うけれど、その度に彼に引き寄せられ、何が何だかわからないまま、記憶を失った。
ねぇ、機嫌を直してくれないか。と君が言う。
さきほどまでの余裕はどこへ行ったのか、後ろで小さくなりながら何度も僕を説得していた。
「そうだね。たまたま通りかかったアルバイトの人が、こっちを見て目を見開いていたのは覚えてるよ」
「ごめん」
申し訳なさそうに、下を向く。
君は、壊れたあかべこのように僕の言う全ての言葉に頷いた。
「随分と返事が早いね。僕にこう言われるのも想定してた?」
「うん……」
素直に認める彼が可笑しくて、僕は笑った。
君にとっては当たり前のことなんだろうけど、普通はもっと取り繕うとするはずなんだけどな。
「わかった。許すけど、許可はしてないから。暫くは近づかないでね」
はい、と小さく君が答える。
少し二人で歩いた後、僕は問う。
僕が羨ましい、っていうのはどういうこと?
先程から、ずっと気になっていた言葉を投げかけた。
彼はあっさりと、僕のことを“羨ましい”とだけ言う。
質問を質問で返す、彼にしては頭の悪い返答で困惑する。
「え、……理由は?」
例えば、顔がいいとか。
いや、それはないか。
じゃあ、人望があるとか?
いや、ないな。
他には……
どれを投げかけても彼はううん、と首を横に振る。
「ただ単に、羨ましいって思ったんだ」
「スポーツができるとか、頭が良いだとか、綺麗な容姿を持ってるとか何があるのかは関係ないよ」
「多分、理由なんてないんだと思う」
ただ、一つ上げるとすれば
彼は口を開く。
その様子が、酷く長く思えて僕は息を呑んだ。
「君の、すべてかも」
翌日、僕たちはいつも通り図書館へ向かった。
翌週に小テストがあるのだとか、クラスで2番目に可愛い子が先輩と付き合っただとか、僕たちは他愛もないことを話し合った。
君の持っていたペンは机に置かれる。
僕の固い本も開かれることなく、隅へと追いやられていた。
君と話す時間も悪くないのだけれど、どうせなら部屋で本を読んでいたかった。
最近発売された、新作の本があったというのに。
「声に出ていたよ」
思わず僕は口に手を当てる。
もう遅かったようで彼は「あはは」と口を開けて笑った。
「知ってるよ、全部」
ないものをほしいと思う心。
多分それはヘラヘラと笑う、目の前の彼。
才能があるからその余裕があるのか。悪気はなかったけれど、羨ましいと思ってしまった僕。
情けない君が、少し好きだよ。というのは言わないでおく。
君は、その言葉をないものねだりすると思うから。
特別な存在
———いやなのです。全てが。
こんな醜い顔に生まれてきたのならしょうがない、で割り切れるほど現実は甘くはなく、ある学生はわたしの顔を覗いたかと思うと苦い顔をして「うわぁ」とだけ言い残していきました。
「なんと醜い」
鏡台の前に立ち、頬に手を添えてやると歪な骨格が浮かび上がってくる。
でこぼことした感触と、顔全身を覆うようなそばかすが目に入って脳に伝達された途端、ひどい考えが頭の中を埋め尽くしました。
はぁ、何度吐いたか分からない息を吐き、椅子に身を委ねると、一気に力が抜ける。
ぐるぐると何度も繰り返される焦りと、複雑な感情が混ざり合って、中々抜け出せない。
きっと、整った顔立ちを持つ人は、物心をつく前から褒められ、知らぬうちに依怙贔屓されるのでしょうね。
そして、醜いものには目も当てられずに育ち、挙げ句の果てには心のない言葉をかけられる、こんなのは理不尽でしょうに。
可笑しくて、笑いが込み上げてきてしまいました。
声に出してみると、さっきまであったものがスゥッと抜けていくような気がして、声は更に大きくなる。
視界を動かすと目の前の鏡に、笑顔のわたしが写りました。
自然と手を前にして、鏡越しに頬に手を当てました。
さっきとはまた何かが違うような、気がします。
何かに縋れるのなら、きっと、なんでもよかったんです。
なんと名付ければいいか分からない、この感情。
それを持ったのは歌が上手い人でも、尊敬する人でもなく、学校一背の高い人でもない。
他でもない、わたしでした。
胸が高鳴る
「———いろんな経験をしたいのです」
皺一つない高そうな服を服を全身に身に纏った少年は、両親にそう口にする。
父と母は顔を見合わせると、僕の幼い手を取ってありとあらゆる知識や経験を与えてくれた。
家は裕福で学びを得る上で困窮することは一度もなかったし、俺が食って寝る生活をしても何不自由なく暮らしていけるだろう。
けれど私にとって「退屈」とは何ものにも代え難い苦痛で、四六時中机にへばりつくのは必然のことだった。
本は分厚ければ分厚いほど嬉しいし、物事は突き当たるほど笑みが溢れる。
そんな僕を変態だなんていう人もいたけれど、毎日同じようなことを繰り返す日々を送る人はなぜ正気を保っていられるのか、不思議で仕方なかったんだ。
全身が凍るように寒い冬の日。
僕は路上の片隅に椅子に腰掛けチェスをする、ヨレヨレの服を着た男性を見つめる。
テーブルの上には硬貨が置かれており、彼等はチェスの駒をせわしなく動かしていた。
「かあさま、あの人は何をしているのですか?」
数秒沈黙したあと、母は小さく答えた。
「あの人達はホームレスと言って住居を持たずに生活するんです」
まだ背が小さなかった僕にはその表情を読み取ることはできなかったが、あの時の母の声は少し震えていたような気がする。
どうやって生きていくのですか?と質問を投げかけると、ホームレスとはなんなのか淡々と話し出した。
正直、その頃の記憶はおぼろげで母の言葉を右から左に聞き流してしまっていたが、あの光景が今でも忘れられない。
ずっと隣で
フッ、と耳に風が吹く。
通り風なんて珍しい、気にせずペンを動かすと二度目の感覚が私を襲う。
思わず横を見ると彼がにやにやとこちらを見て笑っていた。
「…何かよーですか」
「なにも?」
怒り混じりの声で答えたからか、彼はさらに笑顔で呟く。
こちらを見る顔が嫌味ったらしい。
やられっぱなしでは腹が立った私は彼に仕返しをしてやろうと体を近づけた。
0からの
「待ちなさい」
「待て」
馴染みのある声に思わず振り返る
視線の少し上には外套に眼鏡をかけた男性がいた
両腕を組む、馴染みのあるポーズですぐに分かる
先生だ
「お久しぶりです…師匠」
「久しいね」
貼り付けた笑顔で笑うこの人は
少しほど前、私の通っていた寺子屋の師匠だ
貧乏を言い訳にし、性根がひん曲がりきっていた私を叩き直して学という教養を身に付けてくださった人
本当に、この人には頭が上がらない
あの頃は何もかもが羨ましいとつけ上がり、自惚れていた
でも今は_________
「先生も…お変わりありませんでしたか?」
「おかげさまでね」
「今も寺子屋を?」
「えぇ、変わらずやっているよ。だが……ふらりと放浪する者もいるから、君のような生徒をみると安心するね」
「そう、ですか。でも、私も先生の元気な姿を見れて安心しました」
「商業は今も順調かな。私は……」
続きを言おうとしたとき、口を止めた
「先生……?」
「妻が亡くなってしまってね」
「そんな……」
何が元気な姿を見れて安心する、だ
失言をした数分前の自分を殴りたくなる
「申し訳ございません…そんなことだとは知らず……」
懐から懐中時計を取り出し、目を伏せ時刻を確認する
「お会いできて、嬉しかったです。では___」
時間が押しているのかとそう思い、話を切り上げたのだが