ふと、前を歩くあなたが透明に見えた。
背景の空と海の境界にに溶けようとしているあなたの背中に、私は思わず飛び込んだ。
ここで掴まないと、抱きしめないと、あなたがどこか、私の知らない所へ行ってしまう気がしたから。
「行かないで」
か細い私の声に、あなたは答えた。
「大丈夫だよ」
冬の朝みたいに、澄んだ声であなたは呟く。
ゆっくりと振り返ったあなたの目は、こちらが吸い込まれそうな透明で。もう全然、私の知っている色をしていなくて、泣きたくなった。
私はそこでようやく、手遅れだと悟ったのだ。
私には憧れの先輩がいる。
成績は常に学年トップで無遅刻無欠席、週一で告白されるほどの美人で、いつも笑顔で沢山の友達に囲まれている、そんな完全無欠の先輩。
きっかけは、たまたま廊下ですれ違った時。にこりと女神の微笑みを向けられて、堕ちた。ちょろいって?実際に向けられてみるといいよ、一瞬だから。
その日は突然やってきた。
鬱陶しい雨の日だ。雨音を聞きながら登校していたら、先輩の後ろ姿が見えた。
話しかける勇気などあるはずなく、そのまま付いて行ったのだが…先輩はそのまま裏路地に入ってしまう。
どうしたのだろう?学校とは反対側なのに。
「そっちじゃないですよ」
と声を掛けようとしたその時だ。私はとんでもない光景を見た。
先輩がうずくまって吐いていたのだ。
端正な顔が歪んでいる。
吐瀉物が辺りに広がっている。
雨の音と呻き声が混ざる。
「どうしたんですか?」
思わず話しかけていた。
先輩は顔を伏せて、首を振る。
「体調が悪いんですか?」
小さく頷く。
「学校、行けそうですか?」
俯いたまま動かない。
「行けないんですか?」
そんなに私の声が大きかったのだろうか?先輩がビクリと肩を震わせる。
ため息。情けない先輩なんて、解釈違い。
「みんな待ってますよ」
「…それが嫌なの…」
先輩が初めて声を出した。
「しんどい…期待されるたびに吐きそうになる」
いつもよりワントーン低めの声だ。
ため息。暗い先輩なんて、解釈違い。
「でも、みんなガッカリします。そんな先輩」
だって、これで休んだら無遅刻無欠席の記録が無くなってしまう。先輩に傷がつく。だから、
「行ってください。肩貸します」
返事を待たずに、先輩の体を起こした。軽い。
先輩が何か言いかけたような、首を振っていたような気もするが、気にしない。
「ずっと、みんなの理想でいてくださいね。先輩」
真夜中にふと目が覚める。起きるにはまだ早い時間。それから再び眠りにつくまで、真っ暗な天井を見つめるしかない時間が始まる。
それは無限のように思えて、なんだかすごく怖かった。世界に自分1人しかいないような気がして。
そんな日は、いつでも唐突にやってくる。
いやだなぁ。
ひとりごちて天井を眺めていると、寝台の上から音が鳴った。友達からの着信だ。暗い中光る猫のアイコンが眩しい。
「起きてるー?」
私が起きてなかったらどうするつもりだったのだろう。まぁ、そんな事いちいち考える子じゃないか。
「起きてるよ」
「嫌な時間に目が覚めちゃったねー、お互いに」
「そうだね」
「ねぇね、眠るまで一緒に話さない?」
「いいよ」
考えもなしに答えていた。余計眠れなくなるとか、そんな事は考えなかった。
こうして無限のような怖い時間は、マイペースな友達との談話の時間に変わった。友達の間伸びした声に、だんだんと眠くなる。
「おやすみ」
眠りに落ちる瞬間、彼女がそう言った気がした。
「あ、見て。ちょうちょだ」
のどかなそよ風を背にしての下校中、隣の友達は指を指す。その先には白くて小さな蝶。
「ほんとだ」
「何シロチョウだっけ?」
こてんと頭を傾ける友達。ちょっとした事が頭からぽっかり抜けること、あるよね。私は胸を張って教えてあげる。
「ホンシロチョウね」
「ホン?」
「ホン」
二度聞かれた。友達は難しい顔のまま、「ホンだっけなぁ…」と呟いている。違ったっけ?
ただ、こんな事のためにスマホを出す気にはなれない。友達も同じようだ。そうして私たちの話題は、『明日の体育をどう乗り切るか』にのったりと移っていった。
真っ白い校舎の屋上に貴方の影が見えた時、私はもう走り出していた。単なる思い過ごしかもしれない。でもじっとしていられなかった。嫌な予感がしたから。
荒い呼吸と一緒に冷たい階段を駆け上がる。
「どうして」がリフレインする。
最悪の状況を考える。
落ちて肉塊になった貴方を頭から振り払う。
5階分の階段が、ものすごく長く感じた。
屋上の貴方は酷く穏やかな顔をして、こちらを見つけて手を振った。あと一歩のところでだ。
「何してるの?」
飛び降りるつもりじゃないよね?
私はよほど不安そうな顔をしていたんだろう。貴方は優しく微笑んだ。
「鳥になりたいな〜って思って」
間の抜けた声。続く私の声は半分悲鳴だった。
「なれないよ。人間は鳥にはなれない。なっちゃいけないんだよ」
「……そっか」
少しの間の後、貴方は私に近づいた。
「じゃあ、次は魚にでもなりに行こうかな」
冗談じゃない。
「その時は私も連れて行って」
「うん、一緒に行こう」
そう言って、貴方は私を抱きしめた。青空の下。
それでいいと思った。
私の行動がたとえ、間違いだったとしても。
せめて、今は。