「澄んだ瞳」
子ども達の瞳を見ると、きらきらと輝いていて美しい。私達は、いつから子どもの様な澄んだ瞳を失ってしまうのだろう。大人になると、子どもの様な好奇心は徐々に失われて、物の見え方が、見たまま感じたままになっていく様に感じる。
冲方丁の『天地明察』を読んだ時、主人公の渋沢春海(1639年〜1715年)が、暦の完成に苦悩しながら、月の軌道が楕円であることに気がつく。いまならケプラーの法則があるので難しいことではないけれど、考えてみて欲しい。江戸時代である。鎖国しているので海外から入ってくる天文の知識も限られている。このくだりで、体が震えるほどの感動を覚えた。
おそらく渋沢春海の澄んだ瞳は美しく輝いていたであろう。満月が、スーパームーンであったり、小さい月であったりするのは楕円軌道だからだ。満月を見上げる時、渋沢春海のことをふと思い出すことがある。
何かを見るときは、見えるままでなく、心の目で捉える必要がある。そのものの中に思いもしない何かが在る時がある。より深く考えることで、真理への入り口が隠されているかもしれない。
そして、子どもの頃の澄んだ瞳が、年齢を重ねても美しく澄んだままでいられる様に、好奇心を失わないでいて欲しい。この世界はあなたと共に無限に広がっているのだから。
「嵐がこようとも」
昨年の日本は、巨大台風の被害はほとんどなかった。ただの幸運だったと思う。アメリカは、ハリケーンの被害は甚大だった。しかも長期にわたり何度も繰り返された。
ご存知の方も多いから、簡単に説明すれば、巨大台風、巨大ハリケーンが誕生するメカニズムは、海水温度がかなり深いところまで上昇していて、発生から大陸上陸まで、成長し続けるためで、要するに勢力を拡大しつつ衰えない。非常に危険なものである。
今日のテーマは、嵐がこようとも、であるが、事前にどれほど巨大で、危険であるかが、わかっていたら、身の回りの貴重品を持って、避難所へではなく、台風の予想進路以外の場所へ旅行に行くのも良いと思う。
風速70mになると、鉄骨住宅でも変形するそうで、トラックも横転する場合もあるし、木造家屋は倒壊する場合もある。嵐がこようとも頑張るのはナンセンスで、命を守るためには逃げるしかない。もちろん、どれだけ巨大であるか、いまの気象予報は進歩して、危険度合いが事前にわかるので、早めに非難行動できるように、学校(可能であれば)仕事も休日にした方が良いと思う。社会全体で危険を理解し行動しないと救われる命も救われなくなると感じている。
「お祭り」
隣町の盆踊りに出かけたことがある。そのために祖母が新しい浴衣を縫ってくれた。中学一年の夏のことだったかもしれない。友人と二人で行く予定だったけれど、祖母は心配してついてきてくれた。
楽しく踊った後、友人と別れて、祖母と私は夜道を並んで歩いた。いまの様に熱帯夜ではなく、涼しい夏宵の風にふかれながら、特別、何か話し合ったわけでもなく黙々と歩いた。
ただ、それだけなのだけれど、妙に忘れられない。その夜は、何か幸福感に包まれていた。祖母は、浴衣生地を買い、縫い上げて、私ひとりのために時間を費やして、その夜も嫌な顔をせず、にこにこと幸せそうだった。
幸福とは、何気ない日常のなかの、あたりまえの生活のなかにあって、人が当然と思うことが、守られていることなのだと思う。
盆踊りは宗教的な行事で、それが行われるのは特別な事ではなく、日本では息をするように自然なことだ。ところが世界のどこかで、当たり前のことは、当たり前ではなく、当然の権利としてあるべきものが、奪われることもある。
祖母と二人で過ごした夏の夜は、それがどれだけ特別な出来事だったのかと、過ぎ去ってから思い出している。ささやかな日常を守ることが、どれだけ大変で困難なことなのかと、毎日の国際ニュースをみていると思い知らされる事がある。
世界の人、ひとりひとりに宗教、文化、生活があり、お互いがお互いに尊重し合いながら、手をつないでいける未来であって欲しい。
「神さまが舞い降りてきて、こう言った」
旧約聖書や仏教の『維摩教』の中に登場するのは、プロジェクションマッピングのような映像効果の出現で、こうしたシーンに出会うと、現代の映像技術で映画のような効果が充分、演出できると感じる。
では、いまから二千年以上前の人間が、プロジェクションマップングの世界に遭遇したら?おそらく恐れおののき、神が降臨したと信じると思う。ここで重要なのは、いまの時点から、どれほど前の出来事であるか、ではないだろうか?
さて、科学技術の発達した現代で、神さまが舞い降りてきても、映画撮影か何かかな?程度の事かもしれない。そして、社会の価値観も多様化しているから、二千年以上前にちょうど適した神の文言が、はたして現在の価値観に合致するだろうか?
社会の価値観は、ゆるやかに変化していくのが、望ましいと感じる。また新たに生じた問題には、すみやかに対処する必要がある。
遠い昔のように神さまが舞い降りて来ることは、おそらくないだろう。それだけの心理効果を与えることは、もはや不可能なのだから。それなら、いま神はどんな言葉を人類に残すだろう?
あまりに、たくさんの宗教があふれている。それぞれの神さま方に、それぞれ伺う訳には、いかない。おそらく、それぞれに異なる文言が語られるに違いない。
でも、共通の目的は、愛と幸福の希求である。
「同じ究極の目的に向かって進め。
宗教同士が互いに争うなかれ。
人類と地球を共に守れ」
宇宙神から、そんな言葉を期待して待っている。
「誰かのためになるならば」
自分の生き方は自分で決めたい。けれど運命というものが、あるのだとしたら、その流れに逆らえない、逆らってはいけない時もあるのかもしれない。
最近、宇宙神の計画は人智を超えていると感じる。自分の思いのままには、いかない時がある。
これから、どう生きていけば良いのか、私はまだ暗闇の中にいるけれど、心の中にあったのは、誰かのためになるならばという思いだった。
さしたる力もなかったから、夫を支えてその影の下で生きていく、ひっそりとした生き方を貫くつもりであったし、私の最大の願いでもあった。それが今、大きく揺らいでいる気がする。
こんな私でも、未来の希望の光となれるのだろうか?
夫ひとりのためなら、簡単にやれる気がしていた。心の中の深い所に眠っていたのは、種であった。人類のさらなる繁栄と発展という夢だった。その種がいま発芽しそうである。
未来は人々の願いの心で決まる。私の中で発芽しかけた種を育てていくためには、私ひとりでは不可能だ。
いまのこの願いを叶えたい。誰かのために。どうか弱い私に力を貸して欲しい。未来の子供達のために。