「終わりにしよう」
若いカップルの離婚率が増えている。しかも、子どもがいるからこその離婚だ。この原因にプロラクチンというホルモンが関係していると考えている。
Wikipediaによると妊娠期には乳腺葉を発達させるそうだ。また、女性の場合、母性行動を誘導。(生まれてきた子どもを愛情深く育てる。)ここまでは良い。さらに赤ちゃん以外の存在に対する敵対的行動の誘発。攻撃性を強める。夫に対しても攻撃的になる。
もちろん父親が赤ちゃんの世話に積極的に関わり、母親に近い愛情を注ぐ事ができれば問題はないと思う。赤ちゃんは常に命の危険と隣り合わせだ。ちょっとした事で命を落としかねない。
母親の最優先は赤ちゃんの命で、父親が危険な存在だとしたら、最悪、離婚。終わりにしようという事になる。
男性側からすれば、赤ちゃんが産まれるまで愛情深かった妻が、突然攻撃的になり、赤ちゃんの世話が最優先で、夫を顧みなくなる。プロラクチンは恐ろしい。
ここで大切なのは、そうした女性のホルモンの存在を知り理解する事だ。そして男性自身がある程度、自分自身を変える必要がある。
若い夫婦は共に力を合わせ子どもを育てる事で、子どもから多くの事を学ぶだろう。親として成長する事で、ますます夫婦、親子の絆は強固なものになる。
男性も育児に参加する事でホルモンの変化があるはずなので、検索してみたが、良い文献が見つからなかった。
子どもがいる女性は、長くこのホルモンに支配されるように思う。この歳になってまだ、私は子供を命がけで守ろうとする心理が働いてしまう。子どもの存在を脅やかすものには攻撃的になる。また愛する家族にも同様で、家族が最も幸せな生き方を考える。障害となるものには攻撃的で自分を犠牲にする事も厭わない。
そうだとすれば女とは哀しい生きものだ。願わくば、世の男性は、そうした女性の心理を、多少でも理解してほしい。
離婚して、終わりにしようとなる前に、様々な障害を乗り越えていく必要がある。こうした男女のホルモンの違いにも目を向ける必要があるのではないだろうか。
そしてジェンダーの問題を乗り越えて行く過程で、男女がお互いのホルモンの違いを認識する必要もあると思われる。
注意⭐︎かなり推敲を重ねました。
「手をとりあって」
若い頃、老人向けの懐かしい歌謡番組がよく放送されていた。最近、私も老人向けの懐かしい番組をよく観る。今年になって、坂本龍一さんが亡くなった。若い方はご存知ないと思うが、坂本さんは『戦場のメリークリスマス』という映画のテーマを作曲し映画にも出演した。青春の思い出として、あのメロディは焼きついた。
歳をとると十代の頃の懐メロは、何度も心に浮かんで来る。新しい記憶は努力しても、さっぱり増えないが、昔の記憶は鮮明だから不思議だ。
さて『手をとりあって』クイーンの曲だ。検索して歌詞を読み直してみた。フレディは自分の死を予感していたのかもしれない。そんな事を想像させられた。クイーンは日本に対して何か特別な思いがあったようだ。「手をとりあって」このフレーズは日本語で歌っている。
私は、エルビス・プレスリー世代、ビートルズ世代の後にやってきたクイーン世代の一人だ。何があれほど熱狂させたのか?それは、わからない。ただ十代の青春時代であったとしか言えない。フレディの歌声に恍惚となった。
『手をとりあって』の歌詞は、心を熱くさせる。そして人生という時の流れの早さに驚かされる。フレディが亡くなったのは45歳で、あまりに早く駆け抜けていったロックシンガーの一人だった。日本では不思議な事に第二、第三の短いクイーンブームがやってきた。
良い音楽は、世代をこえて愛され続ける。そう思うと嬉しかった。いまもいろいろなシーンで、ふいにクイーンのメロディ、フレディの歌声に出会う。
いま若い人が、この時代の何に熱狂しているのか、わからない。けれど、いまのこの時代の空気を吸って生きている若い人しか、わからない何かがある。それを大切にして欲しい。あなたが残した良いものは、時代を超えて残るだろう。フレディの歌声のように。
あとがき
FUJII KAZEの『HELP EVER HURT COVER』が好きだ。懐メロばかりで老人には、たまらない。
「優越感 劣等感」
人間の社会に限らず、集団を形成する野生動物にもヒエラルキーはある。そこから逃れる事は難しい。
優越感と劣等感、この二つの感情を抱きながら生きるのは人間としての宿命なのかもしれない。
けれど、それを克服する方法はあると思う。この二つの感情が消えないのであれば、まず上を目指してもきりがない、また下を眺めてもきりがない。その事を考えてみたい。ほとんどの人は、最上層でもなく、最下層でもなくグラデーションのあるヒエラルキーのどこかに位置しているはずだ。
優越感の強い人ほど、また逆に潜在心理のなかで強い劣等感を抱えた人ほど、いろいろな場面でマウンティングをすると感じている。
優越感や劣等感を克服できる人は、感情的に他者との比較をしない。(スポーツの世界でのデータ比較などとは、別である。)感情的な比較をするとすれば過去の自分においてのみである。集団の中では、当然、ヒエラルキーは存在し、リーダーの命令には従わなければいけない。けれどそれは、この二つの感情とは切り離して考える事ができる。
この感情について深く考えるのは、意識の進化への道の一つかもしれない。それほど深く深淵なテーマだ。
克服できた人の例として、いま脳裏に浮かぶのは、ガンジーやマザー・テレサの両名だ。物の所有の欲望がほとんどない。
ここで注意したいのは、自身がミニマリストである事を優越感にしては意味がない。あくまで人間社会の中の自分がどうあるべきかであって、そこに優越感、劣等感を克服したいという気持ちが、あるかないかで変わる。
もちろん、克服できた偉人には、克服したいという願望すら、ないだろう。あくまで、自分は自分。他者と比べる必要はない。唯一無二の存在だとの自覚が生まれれば迷いは消える。私自身はと言えば、書物や知的刺激への欲望は、とどまる所を知らず、偉人とはほど遠い。私に迷いはないか?いや、ある。辛いテーマだ。自己が曝け出る。このテーマで本来、語る資格はない。
夫婦や親子関係に当てはめると、家族の良いところは尊敬し合い、悪い所はフォローし合う、互いに支え合うのが家族、そうした思い(愛)があれば大丈夫だ。少なくとも家族間に優越感、劣等感があるのは幸せではない。
「これまでずっと」
これまでずっと爪切りを使った事がなかった。爪を噛む癖がなかなか治らなかった。いまの夫と結婚して、ようやく普通に使えるようになった。
中学三年生の時、友人のMちゃんによく注意された。祖母が入院していたので、家事をせねばならず大変な時で、そんな最中に
「爪を噛んじゃいけない」と何度も言われた。それで、言われるのが嫌かと言うと、私はなんだか嬉しくてたまらなかった。自分の事を気にかけてくれる、おせっかいな誰かがいた事は、あの頃、心を和ませてくれた。
爪切りが使えるようになった、その事は、わたしを無条件で愛してくれる人が傍にいるという事だ。望んだことなどないのに、そんな人が私には必要だと、巡り合わせてくれて「この人と結婚するよ」と毎日毎日語り続けてくれた、神さま、ありがとうございます。こんな奇跡がやってくるなんて思いもしなかった。
夫に悲しみを語ることは、心臓にこびりついたままの傷を洗い流してくれた。これまでずっと、私の悲しみに耳を傾けてくれる人は誰もいなかった。それは、簡単なことのようで、誰もができることではない。
だから、死にたいと思ったら、誰かに話すと良い。でも、そんな人いないよ、という方は、ノートを一冊準備して書いて下さい。神さまが読んでくれます。そして、無条件で、ありのままのあなたを愛してくれる人と出会わせてくれます。だって、こんな私に奇跡が起きたのだからね。
「一件のLINE」
LINEを使わなくなって久しい。婆々なので使わなくても老人だから許してもらえるだろう。LINEに限らずSNSは一切使っていない。先日、テレビで私と同じ老人をみつけた。アップルの創業者の一人である、スティーブ・ウォズニアックだ。かの老人も私と同じ懸念を抱いていた。SNSを駆使することで大衆心理を誘導する事が可能になる。私と同じように一切使っていないので、私だけではないと安心した。
いまの若い人がSNSを使わずに生活できるはずもない。しかし、相手の価値観を何の疑問もなく受け入れているばかりでは、失うのは自己のアイデンティティである。よく考えて欲しい。私とは何者なのか。
世界経済はグローバル化し価値観は多様化している。この世界が日々刻々と変化し続けていくなかで、正しい答えなどない。前にも発した言葉だが、あるのは、その瞬間にある最善だけなのだ。その最善すら、良い方向に向かうのか、わからないまま前に進まねばならない時代なのだ。
若者達よ心せよ。あなたが唯一無二の何かを創るのだ。しかし伝統的文化を継承する役目を担う人も必要になる。個々人の人生も多様化せねばならない。
いまはその気になれば、いくらでも勉強できる。自分が目指すべき道があるはずだ。その夢が叶うかどうかはわからない。私は絶望のさらに向こうの虚無も経験した。けれど神は私の使命を思い出させてくれた。死んで生まれ変わっても私の使命は消えない。
SNSを使う時は自分自身を見失わないように気をつけて欲しい。そして、少しばかり心理的に距離を持つことだ。難しい場合には、使わないのも個人の自由だ。
あとがき
お風呂から出てきた夫がスティーブ・ウォズニアックの事を調べてくれた。動物を救う動画を見るために、Tik Tokは利用していた。動物好きも一緒だった。
SNSにかなり否定的な内容になった。すでに生活の一部となっている方が大多数に違いない。客観的に見て、マイノリティな意見である。