「目が覚めると」
目が覚めると病院のベッドの上だった。寝ているのではなく、ベッドの上に直立して立っていた。目の前にガシャンガシャンと音を立てて画像が現れた。それは宇宙人の顔写真で、正面向きと横向きが左右セットになっていた。およそ100枚ほど見ただろうか。
宇宙人の多くは、爬虫類系が圧倒的に多かった。鱗に覆われているものや、蛙のような両生類のような顔立ちが主流で、少数ではあるが昆虫系もいたし、私達のような人間に似ている写真もあった。どれも共通していたのは、頭の大きさで、横向きの写真では、人間よりも大きく後方に突き出たものもあった。目も人間よりも大きな写真もあった。大きいと言っても、顔の表面積に対して比率的に大きいと感じた。もちろん写真では実際の大きさは分からない。最後の一枚は人間で、それが終わると、再び深い眠りがやってきた。
臨死体験ではない。手術後、三日以上を経過して安定していた。再び目が覚めると、点滴を受けている腕が見えた。夢の中で目が覚める妙な夢だった。
「私の当たり前」
これは千差万別で、それぞれの人の当たり前は、少しこだわりのある「私の当たり前」だろう。
あまり考えずに即答すると、それは他人に自分の考えを押しつけない。強制しない。ことかと思う。
私自身のこだわりは特異で(夫だけは別だけど)他の人と共有できるものではない。この事を学ばせてせくれたのは息子だ。まず私が母親であるのは、息子の存在が、そうさせている。私は息子から多くの事を学んだ。
子宮の中の羊水は海水に似ていて、細胞分裂を繰り返す胎児は、生命の歴史をおよそ十カ月をかけて進化する。自分自身の体の中で別の生命が人間へと進化していく、その事は神秘以外の何ものでもない。
ある時、星野道夫氏の『長い旅の途上』でカリール・ギブランの詩に出会い、それまでの自分の考えを改めた。この詩に比較的早く出会えて良かったと思う。
「この子は神さまから預かっているだけ」そう考えるようになった。
だから小学生の頃に始まった反抗期が、いまも続いているような息子だ。でも、それで良い。誰に強制される事なく自由であれば良い。私もキツイ事を言う事はあるが「この糞ババア」と叫べば良い。幸い息子から、そう言われた事はない。
自分の考えを言っても強制せず、最終的な決定は息子に任せる。簡単な様だが、かなりの忍耐を要した。
いまは当たり前になった。この文言に反論はいくらでも出てくるかと思う。賛否両論あって当たり前である。その度に周囲に合わせて流される事はない。歳をとって随分と頑固ババアになりました。
最後に、息子よ。ありがとう。お前のおかげだ。
「街の灯り」
あれは国際宇宙ステーションの画像だったのか、スペースシャトルだったのか、いや、それは今はあまり問題ではない。宇宙空間からの画像で、日本列島はちょうど夜だった。驚いた事に、日本列島の形がわかるほど、日本の街の灯りは明るかった。この国の国土が比較的小さい事と、他の国と接していない完全な島国である事、電気というインフラが国中に行き届いている結果、また周囲が海で暗い事も要因としてあるだろう。
初めて見た時は驚いた。いまから30年以上前の事だったかもしれない。あの頃は高度経済成長期の只中で、こんなにくっきりと宇宙空間に灯りを放っている国は他にはなかった。
それは、この国の平均的な文化水準の高さを表しているように感じる。例えば、他の大陸では、街の灯りのある地域は限定的で、人間が居住していない地域では当然ながら灯りはない。
街の灯りがある場所とそうでない場所では、そこで生活する人の暮らしを決定的に変える。そして、一度そうした生活を手に入れた人間は、それなしでは生きられなくなる。
2023年の初夏の日本は、豪雨に見舞われて、テレビでは連日、警戒を呼びかけている。こうした極端な気象は温暖化の影響もあるのだろう。災害による停電も増えている。
いま、大規模な発電所で大量に発電をし続ける事に何か危うさを感じる。2018年北海道で地震によるブラックアウトも経験した。個々人、または地域が発電し消費するミクロエネルギーへの転換も必要となるだろう。
もちろんマクロエネルギーを廃止した方が良いなどと思っている訳ではない。エネルギーにも多様性が必要なのだ。
「七夕」
七夕の夜に願いをひとつ
今宵、戦場にいる、あなたの
愛しい人が無事でありますように
七夕の夜に願いをひとつ
食べるものがなくて
飢えている人がいませんように
七夕の夜に願いをひとつ
世界のどこかで誰かが誰かを
殺すことがないように
七夕の夜だけで良いです
彦星さま織姫さま
どうか願いを叶えてください
「友だちの思い出」
削除しました。後日、書き直します。