はた織

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7/8/2025, 12:47:19 PM

 距離はおよそ5メートルだった。あの頃から眼鏡をかけていたので視力が悪かったが、相手の微笑みを間近で見たような記憶が残っている。
 小学生の頃、いつだったか。縁側でシャボン玉を吹いて遊んでいた。一人でも楽しかったから、時間も思考も現実も何もかも忘れて、ストローで石鹸液の泡を膨らませて空に飛ばした。
 自宅の斜め向かいにある隣の家では、何やら大勢の人が集まっていた。荷物をトラックに運んでいるので、引越しの作業をしているらしい。かと言って、その住人全員ではなく、玄関先に立っている女性が旅立つらしい。別に隣の家の者と挨拶さえもした覚えがないので、全部憶測にすぎない。ただ目の前の一連の流れを見て、そう思っただけだ。
 その時の私は、忙しなく荷物を運ぶ人々を眺めて、何だがお祭りみたいだと一人で盛り上がった。彼らに届くように、シャボン玉をぷうぷうと吹きかけた。シャボン玉がたくさん出れば出るほど、人々の影が虹色の玉に反射して活気が湧いたように見える。私は頬を膨らませて、もっともっとシャボン玉を吹いた。
 ようやく、シャボン玉が女性の目に入ったのだろう。彼女は私の姿を認めて笑った。子どもの幼い遊びを慈愛に満ちた瞳で見守っている。私は彼女と視線を交わして、行ってらっしゃいと挨拶代わりにまたシャボン玉を吹いた。
 今思えば、あの女性の立場から見たら、私のシャボン玉は門出を祝った花吹雪のようなものだったのだろう。
 何故か、彼女の視界から見たシャボン玉の景色が脳裏に映る。あどけないと言えば聞こえがいい。やけに馬鹿な顔をした子どもの私が、無邪気にストローを咥えて泡をぷかぷかと吹かしている。憎たらしいぐらい幸せそうだ。
               (250708 あの日の景色)

7/7/2025, 12:16:51 PM

 彼女は足元に転がっていた小石を拾った。小石をじっと見つめる。まるで石の中に目があり、視線を交わしているようだった。そして、その小石を両手のひらに包み込んで、顔に近づける。彼女は瞳を閉じて、真っ直ぐに立って祈った。
 ガス臭う夜風が急に強く吹いて、彼女の身体をぐらぐらと揺らそうとする。けれども、彼女は動じない。手のひらの石の重みに委ねているのか、先ほどから固まったままだ。
 今触れたら、夜の静けさを吸い込んだ石のように冷たいだろうか。それとも、昼間の蝉の声が染み込んで温かいだろうか。
 彼女の身体は全く動かないが、腕の産毛がふわふわと風に乗って揺れている。小麦色に焼けたうなじは汗ばんで、星のように煌めいている。白く輝く汗は一筋の光を残して、さらりと背中に流れていった。
 遠くから、車の滑るような音が響いて、さっと消えていく。暗い周囲の草木から息づかいするような気配を感じる。ようやく、彼女が顔を上げた。更に夜空を見上げて、首を伸ばす。
 手のひらを開けて、小石に口付けをした。長い口付けだった。小石はすっかりと彼女の温もりに満たされている。その温かさに、彼女と小石が混じり合って一つになったような錯覚を彼女自身覚えた。
 手放すのが惜しいと思ったその時、彼女は白く霞む星空に向かって小石を放り投げた。空気を切る音がするも、その後地面に落ちた音が響かなかった。
 どこに落ちたのかと、彼女の祈りをずっと見ていた友人が辺りを見回す。しかし、汚れた街灯の下では見つけられなかった。
「本当に星になったの?」
 友人の問いに、彼女は微笑んだ。そうだったら良いねと電気の光よりも強く輝く一番星を見上げた。
                  (250707 願い事)

7/6/2025, 12:21:59 PM

 恋心は常に空っぽだ。どんなに人肌や唇や囁く愛の言の葉を重ねても満たされない。逆に、どんどん汚れていくだけだ。
 それだから綺麗に見せようと、空っぽの恋心に香辛料をとにかく撒いて、香味野菜を無意味に詰め込んで、自身の切り刻んだ血肉もこれでもかと押し込み、表面を油とか溶き卵とかアザランまでも塗りたくって、煮たり焼いたりして、白くて美しい皿の上にお行儀良く揃えるのさ。文字通り、心を込めて作りましたと相手に差し出せば、向こうも心の底から虜になるだろうよ。
 なに? 心臓を使った料理なんて、結局血生臭いと。そしたら、君はどんなハートの食事をしたいのかい。シャシリック? 冷たい水で心臓をよく洗うのが、美味しくなるひと工夫なのか。
 なるほど、恋に熱っぽいハートを冷ますと、より味に深みが出るのか。あとは、お好きな野菜と一緒に油で揚げればいいと。味付けは不要。塩胡椒さえもいらない。
 臭みさえ浄化する高温の油に熱されて、温かさに満たされた恋心の味は、どんなだろうね。舌にまとわりつく肉の脂と口内に広がる肉の香り、そして噛むたびに溢れ出る肉の旨み。永遠に舌の上で転がしたくなる美味しさなのか、それとも、一生火傷を負う熱を帯びているのか。
 空想の中で食事を楽しんでしまったが、きっと君がこのハートフルな料理を食べたら、ときめいて愛に満たされるに違いない。そのシャシリックなるものが、忘れられないのだろう? 愛するように笑みをこぼしているのが、何よりの証拠だ。
 私と君の心臓で、そのシャシリックを作ってみたら、どんな味になるのか試してみないか?
                   (250706 空恋)

7/5/2025, 2:00:07 PM

「私の妹を見ませんでしたか」
 紅い人魚に尋ねられた少女は、気まずい顔をして正直に言いました。
「貴方の妹か分かりませんが、人魚の肉を朝ごはんにいただきました」
 家族を食べられた衝撃に、人魚は言葉を失います。少女は、大変悪いことをしてしまったと深く頭を下げて謝ります。
「貴方がた人魚は、不老不死と聞きました。貴方と共に永い時間を過ごす家族を殺した罪を償うため、独り者になってしまった貴方が寂しがらないように、これから生まれる子どもに貴方の物語を聞かせましょう。そして、私は自らの身体をその子どもに与えましょう。貴方と一緒に生き永らえるためです」
 少女は正直者でしたから、人魚のために結婚をして、子どもを産んで、本当にその子どもに人魚の物語を聞かせて、最後は自ら肉となり、食べられました。
 紅い人魚は、その子どもに言いました。
「貴方のお母さまは、たいへん立派な人ですね」
「ええ、とても立派で誇らしいです。私はお母さまの言いつけを守って、人魚さまの物語を私の子どもに聞かせましょう」
 この人魚は賢いので、その子どもの言葉の意味を察してしまいました。この子もまた自分の生んだ子どもに食われてしまうのかと。
 その子どもも正直者だったので、人魚の物語を聞いた自身の子どもに食べられました。妹の人魚を食べられておよそ半世紀が過ぎましたが、紅い人魚にとっては、ほんの一瞬に過ぎません。
 またあの子どもが来たかと思えば、もう食べられて、次の子どもが顔を見せに海までやってきました。人魚が、ああ可愛い子だねと呟けば、また別の可愛いらしい子が現れます。可愛いと褒めた子どもは、すっかり母親になって赤子を抱いています。
 人魚はいつの日か、子どもにしか目を合わせなくなりました。赤子を抱く女は、自らの母親を食して“母”となりました。この一族は、母親の肉を食べることで子どもを産める身体になる儀式を永遠と繰り返すようになりました。
 今目の前いる女も、赤子を抱きながら恐怖に震えています。自分の肉を食う生き物を育てる矛盾に怯えつつも、“私”がこの子の中で生き永らえられるなら、それでいいと口元を歪ませました。
 あの立派だった母親が語った人魚の物語は、どこに消えたのでしょう。そもそも、今も紅い人魚の元を訪れるこの女たちには何が見えているのでしょう? 家族を失った人魚を、安産祈願の神か何かと思って、適当に祈っているだけです。
 波音に耳を澄ませて、あの波の中に私が食べたお母さんの胎内で聞いた音があるのねと感傷に浸っています。一世紀も妹のために延々と流した人魚の涙なんて知らないでしょう。みんな波の花になって泡沫に帰しました。当然、人魚の物語も幻想の中に浮かんで弾けて消えました。
 後に残ったのは恨みだけ。海底に潜む黒き鮫が鋭い膚で水を斬りながら、水面に近づきます。人魚は女の子どもを食ってしまおうかと怒り狂います。しかし、人肌でも火傷してしまう人魚は、自らの怒りの熱さにも耐えられません。それに子どもはやはり可愛いのです。無垢で純粋で、無知が故に可哀想に思えて、大事にしたくなります。
 ふと、妹もそんな子だったと哀れみました。哀れな子だったから、浜辺に近づいて人間に見つかり、食べられた挙句、永遠に人間の胎の中をぐるぐると巡り続けられているのです。いっそのこと、私も人間に食われてしまえば、ずっと妹と一緒にいられるのではないか、そう人魚は閃きました。
 何人目か、もはや数えてません。ともかく、あの少女の肉を喰った人間から生まれた子どもを捕まえます。母親から離れて一人で海に来たのを見計らって、人魚は岩の上に座り、子どもを自身の腹の上に乗せました。人の肌と魚の鱗の境目にちょうど座らせました。
「私の指ってしょっぱいのよ」
 子どもの口に指を当てさせます。白魚のような指を子どもは口に咥えて、「しょっけ、しょっけ」と舐めました。
「手の甲だってしょっぱい、腕も肩も胸も首も鼻先も、くちびるだってしょっぱいだろう」
 人魚の身体を小さな子どもは、一生懸命に舐めました。人魚の唇にも触れてよく味わいました。美味しいねと笑みをこぼします。もっと舐めたいかいと尋ねれば、素直に頷きました。正直者の遺伝子だけは、今も受け継がれているようです。
「そうかい、じゃあお食べ」
 紅い人魚は手のひらを差し出します。子どもは舌先でねぶってから噛みつきました。柔らかな口の中でするどい歯が当たります。ちくりと痛んだかと思えば、だんだんと重く滲んで、いったいどこまで自分の肉で子どもの歯なのか分からなくなりました。噛むというより啜っているようです。手汗を吸って肉を味わっているようでした。
 こんなことあっという間だと思っていたのに、やけに長くないかと人魚は、とうとう時間の恐怖を覚えました。子どもは何とか、八重歯で肉に歯を立てます。早く奥まで、刺せ、刺せ、刺しこんでくれと人魚は焦ります。
 永遠に生きられる命を持ちながら、長い死の待ち時間に怯えました。紅人魚は怖くなって、つい子どもを突き放して海の中に落としました。あっと声は出るも、子どもを掴もうとする手は出ませんでした。ちゃぽんと音を立てた時には、もう遅かったです。子どもは仰向けになって、ぷかぷかと藻屑のように浮かんでは沈んでいます。
「ああ妹よ、お姉ちゃんが悪かった! 許しておくれ!」
 紅い人魚は、岩場に何度頭を打ち砕くも死なず、舌を何度噛みちぎっても死なず、太陽に何度焦がしておくれと願ってもただただ干からびるだけで死ねません。
 子どもを探しに来た母親に向かって、その子を殺したと吐けば、発狂され首を絞められました。向こうは狂った勢いで自決しましたが、人魚は息絶えませんでした。
 ひとり残された人魚は、ただ波を眺めて、この中に飛び込んでも溺れない己の運命に絶望しました。
 波音は響きます。人魚の尽きない涙をかき消して、波間に揺れる生命の鼓動を響かせます。
「母め、どうして私を産んだ!」
 波音は響きます。
            (250705 波音に耳を澄ませて)

7/4/2025, 1:02:17 PM

 梅雨を飛ばす炎風よ、お前が涼やかな音を立てて鳴くなら、私の袖に入ってもいいよ。初めて買った私の青い着物に袖の羽風を吹かしておくれ。それでも熱風に荒れ狂って頭を冷やせないのなら、柳の葉を揺らしてよ。松濤ならぬ柳濤を私に聞かせておくれ。焼津神社で涼んだあの時の柳の影が忘れられないのさ。そんなにも蛇にも竜にも似た鈍色の鱗を熱くぎらつかせるなら、人魚の鱗の如く柳も真珠色に輝かせるだろう。それが出来ぬなら、生命遍く塵芥に帰する瑠璃色の炎を迅く吐け。
                  (250704 青い風)

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