子どもが、玄関前にある花壇の隣に立った。花の上でそっと水をすくうように両手を添えている。遠目でも分かる。その子どもは、花の上に住まう虫を手のひらに招待して遊んでいた。生き物を大事そうに持ち上げた子どもの顔には、笑みが花びらのように溢れていた。
数多のたましいと繋いだ手のひらの宇宙を、あの子どもも幼かった私も持っていた。持っていたはずだ。
私の手は、今ではすっかりと手汗さえも干からびた挙句、働けども働けども、110年前の労働者の苦労を未だ引きずって、楽にならぬ現世の生活に飽きれ果て、何もない手のひらをじっと見つめるばかりだ。
私と一緒に繋いだ何かは、砂粒の如く指の間からさらさらと流れ去っていった。せめて、『人』を詩人と定義する弓町まで、手のひら分の砂が届いてほしい。きっとこの先、100年後の手のひらにも、その一握の砂が握られるだろうよ。
(250118 手のひらの宇宙)
時折、追い風に両脇の下を持ち上げられていく浮遊感を覚える。そして、自分の重たい体を持てずに、一番軽そうな心臓だけを風と共に持ち去ってしまわれそうだと妙な興奮さえも覚えた。
本当に、私の心臓だけ風に連れ去られたらどうなることやら。月もない暗い寒空の中を生温かい心臓が、正に飛び上がって喜んで鼓動を鳴らすだろうよ。さも、さすらう小鳥のように、ぱたぱたと飛ぶ感覚に酔いしれるでしょう。
風は、そうかそうか飛んで楽しいかと調子に乗って、今度は心臓を落としてみたらどうなるかと吹くのを止めてしまう。
心臓は風のいたずらに気づかず、重力に従って落ちていく。今度は流れ星のように舞い散るのかと、ときめきに似た鼓動を打ち鳴らす。
厚い雲間からようやく月が顔を出した時には、心臓はすっかり冷え切った赤黒い内臓となり、真珠を砕いたような煌めきを断末魔の如く、星々の光に響かせ、どこかの海に落ちていった。
多分私の心臓は、北か南かどちらの潮流に身を委ねようか、翼を失った小鳥の真似を今でもしているのだろう。
(250117 風のいたずら)
私の血を心で濾した透明な涙で作った鏡に映る
私の血肉の塊を光の反射でとろとろに溶かして
上澄みの脂で磨いて輝き出す鏡の向こうの私が
虹色の涙でこしらえた鏡を生み出せるきれいな
死に方が出来るようにどうぞ生きてくださいと
花と塵と油を絡めた螺鈿の色の眼を瞬かせた。
(250116 透明な涙)
あなたの空想に浮かぶ美しき町に住みたい。
住人の条件である犬の飼い主になることは、犬嫌いな私には難しいですが、猫を連れてきてあなたのもとへ参りましょう。
片眼の硝子玉が輝かしい白猫の公輔です。この子にも私にも、川のせせらぎときらめきが映る家々の窓の淡い光を見せてください。
水面に星の光が映ったら、窓一面が星空となり、溢れんばかりの星の砂と柔らかな夜に包まれて、正に夢見心地になりましょうよ。
あなたはきっと、私が話の分かるものか訊ねましょう。
星というものを知っているか。
夜の露は?
人間の接吻は?
1890年代の薔薇のあなたの問いに、100年も後に芽吹いて薔薇になりたい私は、正直に全部知りませんと答えた。
ロマンを求めてあなたの町に来ましたと言えば、あんたは大馬鹿者だなとあなたは嬉しそうに笑みをこぼした。
(250115 あなたのもとへ)
私はその婆さんにそっと耳打ちをした。
「ありがとうございます、あなたの老化した醜い姿のおかげで、ほんとうに美しいマダムの麗しさをより知ることができました。
耳が悪いと口慣れた言い訳をして、こちらの言い分を聞き流し、挙句は人の言動に勝手に嘆いて、自らの終活に一抹の悲しみを味わって帰られる臍も腰も曲がったその醜態。
背筋を伸ばしてご機嫌ようと、誰にも彼にも会釈する麗しきマダムの姿が、更に神々しく輝きます。
ありがとうございます、美しきものは醜きもののおかげで煌びやかになるのですね。改めて、自然の調和を知りました」
耳打ちしたとて、老廃物が詰まった婆さんには聞こえまい。婆あと呼べば、若さ誇りたい矜持で聞こえやすくなるでしょうよ。
しかし、馬鹿につける薬は無い世のことわりだ。
知識を得た者の感謝にも聞く耳はない。ただ幼稚にわがままに心臓の鼓動も聞こえなくなるだけだ。
(250114 そっと)