「私の妹を見ませんでしたか」
紅い人魚に尋ねられた少女は、気まずい顔をして正直に言いました。
「貴方の妹か分かりませんが、人魚の肉を朝ごはんにいただきました」
家族を食べられた衝撃に、人魚は言葉を失います。少女は、大変悪いことをしてしまったと深く頭を下げて謝ります。
「貴方がた人魚は、不老不死と聞きました。貴方と共に永い時間を過ごす家族を殺した罪を償うため、独り者になってしまった貴方が寂しがらないように、これから生まれる子どもに貴方の物語を聞かせましょう。そして、私は自らの身体をその子どもに与えましょう。貴方と一緒に生き永らえるためです」
少女は正直者でしたから、人魚のために結婚をして、子どもを産んで、本当にその子どもに人魚の物語を聞かせて、最後は自ら肉となり、食べられました。
紅い人魚は、その子どもに言いました。
「貴方のお母さまは、たいへん立派な人ですね」
「ええ、とても立派で誇らしいです。私はお母さまの言いつけを守って、人魚さまの物語を私の子どもに聞かせましょう」
この人魚は賢いので、その子どもの言葉の意味を察してしまいました。この子もまた自分の生んだ子どもに食われてしまうのかと。
その子どもも正直者だったので、人魚の物語を聞いた自身の子どもに食べられました。妹の人魚を食べられておよそ半世紀が過ぎましたが、紅い人魚にとっては、ほんの一瞬に過ぎません。
またあの子どもが来たかと思えば、もう食べられて、次の子どもが顔を見せに海までやってきました。人魚が、ああ可愛い子だねと呟けば、また別の可愛いらしい子が現れます。可愛いと褒めた子どもは、すっかり母親になって赤子を抱いています。
人魚はいつの日か、子どもにしか目を合わせなくなりました。赤子を抱く女は、自らの母親を食して“母”となりました。この一族は、母親の肉を食べることで子どもを産める身体になる儀式を永遠と繰り返すようになりました。
今目の前いる女も、赤子を抱きながら恐怖に震えています。自分の肉を食う生き物を育てる矛盾に怯えつつも、“私”がこの子の中で生き永らえられるなら、それでいいと口元を歪ませました。
あの立派だった母親が語った人魚の物語は、どこに消えたのでしょう。そもそも、今も紅い人魚の元を訪れるこの女たちには何が見えているのでしょう? 家族を失った人魚を、安産祈願の神か何かと思って、適当に祈っているだけです。
波音に耳を澄ませて、あの波の中に私が食べたお母さんの胎内で聞いた音があるのねと感傷に浸っています。一世紀も妹のために延々と流した人魚の涙なんて知らないでしょう。みんな波の花になって泡沫に帰しました。当然、人魚の物語も幻想の中に浮かんで弾けて消えました。
後に残ったのは恨みだけ。海底に潜む黒き鮫が鋭い膚で水を斬りながら、水面に近づきます。人魚は女の子どもを食ってしまおうかと怒り狂います。しかし、人肌でも火傷してしまう人魚は、自らの怒りの熱さにも耐えられません。それに子どもはやはり可愛いのです。無垢で純粋で、無知が故に可哀想に思えて、大事にしたくなります。
ふと、妹もそんな子だったと哀れみました。哀れな子だったから、浜辺に近づいて人間に見つかり、食べられた挙句、永遠に人間の胎の中をぐるぐると巡り続けられているのです。いっそのこと、私も人間に食われてしまえば、ずっと妹と一緒にいられるのではないか、そう人魚は閃きました。
何人目か、もはや数えてません。ともかく、あの少女の肉を喰った人間から生まれた子どもを捕まえます。母親から離れて一人で海に来たのを見計らって、人魚は岩の上に座り、子どもを自身の腹の上に乗せました。人の肌と魚の鱗の境目にちょうど座らせました。
「私の指ってしょっぱいのよ」
子どもの口に指を当てさせます。白魚のような指を子どもは口に咥えて、「しょっけ、しょっけ」と舐めました。
「手の甲だってしょっぱい、腕も肩も胸も首も鼻先も、くちびるだってしょっぱいだろう」
人魚の身体を小さな子どもは、一生懸命に舐めました。人魚の唇にも触れてよく味わいました。美味しいねと笑みをこぼします。もっと舐めたいかいと尋ねれば、素直に頷きました。正直者の遺伝子だけは、今も受け継がれているようです。
「そうかい、じゃあお食べ」
紅い人魚は手のひらを差し出します。子どもは舌先でねぶってから噛みつきました。柔らかな口の中でするどい歯が当たります。ちくりと痛んだかと思えば、だんだんと重く滲んで、いったいどこまで自分の肉で子どもの歯なのか分からなくなりました。噛むというより啜っているようです。手汗を吸って肉を味わっているようでした。
こんなことあっという間だと思っていたのに、やけに長くないかと人魚は、とうとう時間の恐怖を覚えました。子どもは何とか、八重歯で肉に歯を立てます。早く奥まで、刺せ、刺せ、刺しこんでくれと人魚は焦ります。
永遠に生きられる命を持ちながら、長い死の待ち時間に怯えました。紅人魚は怖くなって、つい子どもを突き放して海の中に落としました。あっと声は出るも、子どもを掴もうとする手は出ませんでした。ちゃぽんと音を立てた時には、もう遅かったです。子どもは仰向けになって、ぷかぷかと藻屑のように浮かんでは沈んでいます。
「ああ妹よ、お姉ちゃんが悪かった! 許しておくれ!」
紅い人魚は、岩場に何度頭を打ち砕くも死なず、舌を何度噛みちぎっても死なず、太陽に何度焦がしておくれと願ってもただただ干からびるだけで死ねません。
子どもを探しに来た母親に向かって、その子を殺したと吐けば、発狂され首を絞められました。向こうは狂った勢いで自決しましたが、人魚は息絶えませんでした。
ひとり残された人魚は、ただ波を眺めて、この中に飛び込んでも溺れない己の運命に絶望しました。
波音は響きます。人魚の尽きない涙をかき消して、波間に揺れる生命の鼓動を響かせます。
「母め、どうして私を産んだ!」
波音は響きます。
(250705 波音に耳を澄ませて)
7/5/2025, 2:00:07 PM