「君と歌うと楽しいね」
男は心底笑った。知識豊富に語ったその顔は、今は幼稚に破顔している。彼の友人だったか、座れば老いた賢者、立てば幼い青年と言っていた。正にその通りであり、座っていても子どもらしい姿を見せた。
彼は縁側に座って、人目も気にせず鼻歌混じりに笑っている。隣にいる彼女のおかげだろう。彼はもう一度、先ほどの唄を歌った。彼女も合わせて歌い出す。
ある世界に住むバケモノの言葉を歌詞にしたようで、人間の耳で聞いても分からない言語だ。発音によっては、フランス語だったり、英語だったりと世界各国の言語に聞こえる。
彼女は、舌を巻くような歌い方をたいそう気に入っている。上手く舌を震わせて歌えた時の爽快感が、実にたまらないようだ。対して、彼は彼女のように器用に舌先を扱えないので、単調な歌い方になってしまう。
そもそも、彼は音痴だ。初めて人前で歌った時、彼の親友が非常に驚いていた。その親友に、頭脳明晰で博覧強記の君でも苦手なものがあるのかと言われてしまった。
そのせいで、彼は誰に対しても歌唱を披露しなくなった。どんなに機嫌良く鼻歌をしたくても、外れた音程を人に聞かせたくないと嫌がった。だが彼女の前では、そんな意地なんてどうでもよくなった。
実は彼女の歌もあまり上手ではない。けれども、歌う気持ち良さを求めて、下手でも歌った。
「周りが聞いても知らない言語なら、音痴でも平気でしょ」
あの時の彼女は、不敵に笑っていた。
「みんながその言語を覚えてしまったらどうするの?」
「創作言語で歌えば良いじゃない」
これには思わず彼は噴き出した。物事を難題にさせてしまう彼の頭を柔らかくしてくれた言葉だった。
「やっぱり、君と歌うと安心するね。君に守ってくれているみたい」
中庭に生える草花を観客に、2人は縁側で歌った。一息ついた後、彼の幼い微笑に彼女は照れ笑いした。これ以上上手く言えないようで、鼻歌で誤魔化した。バケモノたちが願った星の唄を歌っている。塵のように捨てられたバケモノが、流れ星に願って涙を流した唄だ。彼女の鼻歌から、2人にしか伝わらない歌詞が聞こえた。
「自由に歌うように、自由に生まれたら良かったとへこんでしまった時があったよ。でも、君と会えたから、不自由に生まれても悪くないなって思えたよ」
「待って。さすがに、それは言いすぎだって」
彼女の鼻歌が止まった。鼻を啜っている音がする。笑顔で盛り上がる頬に涙が伝った。
彼の赤い唇が、にこやかに口角を上げる。人に嬉し泣きさせるほどに、正直に生きられるようになって本当に良かったと、彼は口を開けて笑った。
(250403 君と)
小さい頃、私は外出先で風船を貰った。どこで貰ったが覚えていないが、幼かった私はその真っ赤な風船をとても気に入っていた。
母が運転する車の中でもしっかりと握りしめた。手の肉に埋もれるぐらいぎゅっと握っていたのに、車から降りた途端、うっかりと手を離してしまった。何かに気を取られていた私はやや遅れて、空に向かって飛んでいく風船を見つけた。
風船は曇り空に吸い込まれるように浮いていく。やがては、灰色の雲の中に溶け込んでしまい、赤色の風船を見失ってしまった。
カラスもスズメも飛行機も飛んでいない空に消えた私の風船。あらゆるものを掻き消す果てしない空の広さに、私は恐怖を覚えた。風船と共に私の存在までも、大空に消えてしまいそうだった。
何もない寂しい手で母に甘えても、「消えちゃたね」と事実を突きつけられてしまった。親でもできないことがあると、現実の非情さをあの頃から覚えてしまった。
本当に仕方ないのかと、もう一度頭の中で赤い風船を膨らませる。すると、突然現れた男がその風船の紐を掴んできた。鷲のような爪をしている。鋭くて恐ろしいが、風船欲しさに不敵に笑うその顔には幼さがあった。
「これは、失った俺の人生への熱意であり、生への標的でもある!」
そう言って、私の顔に風船を近づけさせた。赤色の風船に私の顔が映る。男の熱意なのか、頬が焼けるように熱くなってきた。頬も風船も溶かすような灼熱の焔を感じる。
これが彼の本当の熱意だろうか。自己肯定に囚われた影に潜む自己否定が笑って泣いている。泣いて笑っているかもしれない。風船を手放した私も自分のものにしたいと願いながら、自分のものになって欲しくないと嘆いていたのだろう。
太陽が持つ、生命を包み込む陽光の温もりと全てを焼き尽くす光線の熱さを私と彼は求めていた。そして、求めたくなかった。あの赤色を生命溢れる血潮と見れば、鮮血飛び散る血痕と見ていた。結局のところ、2人して血色ある人肌に飢えていたのだ。
私は生まれ変わった赤い風船を彼に渡した。
「明るいペシミストの王よ、貴方への贈り物です」
「ふうん、民草にしては良い贈り物だ。この偉大なる王が貰い受けようではないか」
彼は不慣れな手で受け取った。震える手の中で、風船が今にもすり抜けてしまいそうだ。歓喜と悲観に彼の口元が歪む。だが、王は笑うことにした。大鷲の翼を広げるように、溢れ落ちそうな涙を振り払った。
彼は目の前にいる民草に示したのだ。明るいペシミストの唄を。
「さあ、お前も俺を敬え、崇めろ。さすればお前を愛してやる。愛する者よ、涙を湛えて微笑せよ」
(250402 空に向かって)
新人の兵士が、はじめましてと女王さまにあいさつしたら、さようならと返されました。
兵士は困った顔をしてたずねました。
「どうして、すぐにお別れのあいさつをするのですか」
女王さまは呆れた顔をしました。そんなことも知らないのかと肩をすくめました。
「今朝起きて、あなたは夢から目を覚ましましたか。朝ごはんを覚えていますか。ここまで来た道のりを眺めましたか。わたくしの顔を見てあいさつをしましたか」
兵士は、すべてに「はい」と適当に答えました。彼の瞳は、かすんだ青い光でいっぱいでした。ずっとチカチカと切れかかった電球のように瞬いています。
兵士の瞳の中には、女王さまはいません。輝く朝日も美味しいご飯も道端のきれいな花々も、彼はまったく見えていませんでした。今も彼は青い光に夢中です。
「誰も見えないさん。わたくしはあなたとお別れをしたいです」
「なぜですか、いじわるな女王さま」
「その青い光に毒された瞳に、わたくしまでも映らないなら、大いなる時間もあなたは見えていないでしょう。わたくしは、時間も見えないあなたと一緒にいたくありません」
「どうしたら、女王さまと一緒にいられるのでしょうか」
女王さまは、真っ直ぐに見つめて言いました。
「全てのものとしっかりと目を合わせて、もう一度、はじめましてとあいさつなさい。そのあいさつは、相手の時間を所有する者にしか言えませんよ」
兵士はまた困りました。時間なんて見えないから、探すことができません。女王さまに助けてと求めても、ただ笑われるだけでした。
「その青い光から目覚めなさい。あなたの本当の瞳を輝かせて、相手と向き合いましょう」
女王さまは兵士の前に立ちました。堂々と胸を張ります。
「そして、相手の時間をよく聞きなさい。呼吸や鼓動、たましいから相手の時間が聞こえてくるでしょう」
兵士を囲むように腕を広げました。女王さまのかんばせは、神代から輝く太陽のように美しいです。
「わたくしの瞳にあなたの真実なる瞳を照らして、わたくしの時間を所有してご覧なさい。きっと、あなたのものになりますよ。さあ、言いなさい」
(250401 はじめまして)
ずっと箱庭の砂を触っている辻が、重たい口を開いた。
「あのね、先生。マミちゃんのすっぴんの画像が、ネット掲示板にあったの。目線がカメラに合ってなかったから、盗撮っぽかった。クラスの誰かが勝手に挙げたらしいけど、つい可愛くってね。わたしのケータイの待ち受けにしたらさ、本人に見られちゃった」
「まさか、そんな理由でお前は安藤に虐められているのか」
辻は目を逸らして頷いた。瞼を覆う青痣が痛々しく腫れている。頬の赤みはおそらく叩かれた跡であろう。
「わたしのケータイを壊したのに、マミちゃんまだ不機嫌でさ。お前なんか死ねばいいのにって、いっぱい叩かれてちゃった。よっぽど、ノーメイクの顔をわたしに見られて嫌だったみたい」
辻は箱庭の砂を片手で掻き回している。先ほどまで、おままごとで遊んでいた小さな人形たちを、次々と砂の渦に巻き込んでいった。ぐるぐると終わりのない丸を延々と描いている。回る手が止まらない。もう俺と目を合わせなくなった。
「暴行罪に加えて脅迫罪、これは立派な犯罪だ。警察に通報しよう」
「大丈夫だよ、先生。次会ったら、クラスの前で裸で土下座すれば許してくれるって」
俺は怒りのあまり椅子を倒して立ち上がった。すると、それを掻き消すように、突然辻は思いっきり椅子を後ろに引いた。体を横に向けて足を出す。制服のスカートを握り締めて裾から太ももを出した。蛍光灯に照らされた白い皮膚には、打撲の跡が点々と浮かび上がっている。
辻は胸元のシャツを砂まみれの手で鷲掴んだ。変に肩を震わせて笑っている。無理に笑ったからか、口端のかさぶたが赤く濡れていた。
「警察に連絡する、良いな?」
「ダメ、ママに殺される」
そう言い放って、辻は逃げるように教室の扉へと走った。待てと言えども、辻はもう廊下に立っていた。そのまま勢いよく扉を閉めた。
「さようなら、先生。またね!」
いつものように、かしこまって挨拶したかと思えば、子ども同士別れるように手を振って去ってしまった。何度も交わした別れの言葉だけ、辻は正気に戻って言えたのだ。
「だが結局、辻は翌日の早朝に学校の屋上から飛び降りたよ」
隣から息を呑む音がした。美術の講義に来ていた学生は、じっと俺の老けた顔を覗き込んだ。目の前にある俺の絵画に、ちっとも見向きもしなくなった。
森の景色が描かれた画には、今まで講義に参加した学生たちの動物の絵が描かれてある。偶然、隣の彼女が羊の絵を描き出したので、思わず若い頃の話を語ってしまった。こいつも迷っているんだなと安心してしまったのだ。さて、このまま続けて話そうか。
辻が日頃集めていた安藤の写真をばら撒いて落ちたことも、遺書には「悪い子だから死にます」としか書かれていなかったことも、飛び降りた現場に来てしまった安藤が「優しくしたからって調子に乗るなよ!」と辻の母子家庭とネグレトをマスコミに暴露したことも、事件前に警察には黙ってろと校長に口止めされた俺のことも、全部言おうか。迷うな。
隣の彼女が描いた羊には足がない。足がないなら迷うこともできない。草木の中を彷徨えない。全く成長しない若葉の森の中にいる足のない羊は俺を見ている。じっと見ている。じっと見つめ続けている。羊の目の上に青い絵の具が滲んだ。
「また殴られたのか」
そう口走った俺の目の前に、辻が青い森の中で待っていた。
(250331 またね!)
生暖かな晴天のもと、いつもの散歩道でふと視線を横にずらした。低い坂の上に、一階建ての横長い家々が並んでいる。坂の上近くの家が目に入った。ちょうど玄関の扉が見える。
すると、その扉はゆっくりと外に向かって開いた。開かれた玄関口には誰もいなかった。扉はスローモーションのような動きをしている。それとも、春風とともに開かれた扉を見て、私が夢見心地を覚えたか。ゆったりとした動作から、扉が「お入り」と言っているようだ。
思わず足が動く。招かれている。知らない家だが、きっと入って良いはずだ。だって招かれている。私は、開かれた扉の向こうを覗きたくて歩もうとした。
その時、扉から大きな音が鳴った。目の覚めるような騒音だ。蝶つがいの限界か、中途半端に開かれた扉は、痛みに悶えるようにガタンガタンと震えている。「入れ」と騒いでいる。
不穏な気配に身構えた。そして、私は冷静さを取り繕って、いつもの散歩道に急いで戻った。耳の奥には、扉の内側にあった呼び鈴がやかましく響いている。見ていないのに、開かれた扉の奥から伸びる真っ白な腕が、私の脳裏に焼きついた。
腕はドアノブを掴もうと、ただ真っ直ぐに伸びている。腕しか見えない。腕しかない。どこまでも白くて細い肉の塊しかなかった。
その淡く見える塊は、あまりにもゆっくりだ。しかも、あまりにも長すぎる。焦ったい。早く閉めろと私は焦り出した。足がどんどんと速まっていく。早く閉めろと私がうるさい。扉もバタバタとうるさい。自分で閉められない扉が、入ってこいとか言うんじゃない。ガタンガタンと脳髄を叩いてくる。うるさいなと私はドアノブを掴んだ。春のぬるい陽光は、白い腕を淡く浮かび上がらせる。扉が騒ぐ。呼び鈴が鳴る。足音がする。風が吹いた。
うるさいと扉を閉めて黙らせた。
(250330 春風とともに)