はた織

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 ずっと箱庭の砂を触っている辻が、重たい口を開いた。
「あのね、先生。マミちゃんのすっぴんの画像が、ネット掲示板にあったの。目線がカメラに合ってなかったから、盗撮っぽかった。クラスの誰かが勝手に挙げたらしいけど、つい可愛くってね。わたしのケータイの待ち受けにしたらさ、本人に見られちゃった」
「まさか、そんな理由でお前は安藤に虐められているのか」
 辻は目を逸らして頷いた。瞼を覆う青痣が痛々しく腫れている。頬の赤みはおそらく叩かれた跡であろう。
「わたしのケータイを壊したのに、マミちゃんまだ不機嫌でさ。お前なんか死ねばいいのにって、いっぱい叩かれてちゃった。よっぽど、ノーメイクの顔をわたしに見られて嫌だったみたい」
 辻は箱庭の砂を片手で掻き回している。先ほどまで、おままごとで遊んでいた小さな人形たちを、次々と砂の渦に巻き込んでいった。ぐるぐると終わりのない丸を延々と描いている。回る手が止まらない。もう俺と目を合わせなくなった。
「暴行罪に加えて脅迫罪、これは立派な犯罪だ。警察に通報しよう」
「大丈夫だよ、先生。次会ったら、クラスの前で裸で土下座すれば許してくれるって」
 俺は怒りのあまり椅子を倒して立ち上がった。すると、それを掻き消すように、突然辻は思いっきり椅子を後ろに引いた。体を横に向けて足を出す。制服のスカートを握り締めて裾から太ももを出した。蛍光灯に照らされた白い皮膚には、打撲の跡が点々と浮かび上がっている。
 辻は胸元のシャツを砂まみれの手で鷲掴んだ。変に肩を震わせて笑っている。無理に笑ったからか、口端のかさぶたが赤く濡れていた。
「警察に連絡する、良いな?」
「ダメ、ママに殺される」
 そう言い放って、辻は逃げるように教室の扉へと走った。待てと言えども、辻はもう廊下に立っていた。そのまま勢いよく扉を閉めた。
「さようなら、先生。またね!」
 いつものように、かしこまって挨拶したかと思えば、子ども同士別れるように手を振って去ってしまった。何度も交わした別れの言葉だけ、辻は正気に戻って言えたのだ。
「だが結局、辻は翌日の早朝に学校の屋上から飛び降りたよ」
 隣から息を呑む音がした。美術の講義に来ていた学生は、じっと俺の老けた顔を覗き込んだ。目の前にある俺の絵画に、ちっとも見向きもしなくなった。
 森の景色が描かれた画には、今まで講義に参加した学生たちの動物の絵が描かれてある。偶然、隣の彼女が羊の絵を描き出したので、思わず若い頃の話を語ってしまった。こいつも迷っているんだなと安心してしまったのだ。さて、このまま続けて話そうか。
 辻が日頃集めていた安藤の写真をばら撒いて落ちたことも、遺書には「悪い子だから死にます」としか書かれていなかったことも、飛び降りた現場に来てしまった安藤が「優しくしたからって調子に乗るなよ!」と辻の母子家庭とネグレトをマスコミに暴露したことも、事件前に警察には黙ってろと校長に口止めされた俺のことも、全部言おうか。迷うな。
 隣の彼女が描いた羊には足がない。足がないなら迷うこともできない。草木の中を彷徨えない。全く成長しない若葉の森の中にいる足のない羊は俺を見ている。じっと見ている。じっと見つめ続けている。羊の目の上に青い絵の具が滲んだ。
「また殴られたのか」
 そう口走った俺の目の前に、辻が青い森の中で待っていた。
                (250331 またね!)

3/31/2025, 1:56:38 PM