アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』に、涙を「塩化ナトリウムの水溶液」と比喩した文章がある。その辞典を読んで以来、私は涙を見るたびに、塩化ナトリウムの水溶液だと言っている。声に出したい言葉のひとつだ。
泣いている相手やもうひとりの自分は、心臓から湧き上がる感情を涙に流したくて仕方ないというのに、これだから言葉を覚えたばかりの子どもは困る。
まさに悪戯っ子だ。悪魔だ。血も涙もない。
(250329 涙)
彼女が指差す方向には、梅の木があった。背の低いフェンス越しにある梅の花は満開である。黄色のフェンスの存在をかき消す大きな花びらは、紅白桃の三色に彩られている。
彼らが近づいてみたら、甘酸っぱい香りが漂ってきた。いくつかある梅の木は、一箇所にまとめて植えられている。接木の跡がない。何度も春を迎えた結果、三色の梅の木が混じり合って、多彩な花びらを咲かせたようだ。白と桃を咲かす花びらがあれば、桃と赤に花開く梅もある。
「赤と白の花はあるかな?」
「源平が一緒になれる訳ないだろう」
梅の木は、ちょうど彼女の身体の大きさと同じだ。幅も彼女の両腕を広げた分である。
そんな小さな木に咲く花びらを隈なく見回したが、赤と白の梅の花を見つけられなかった。フェンスを越えた枝先には、三色の梅の花がそれぞれ咲いている。彼女は手を伸ばして花を触った。「子どもの髪の毛のように柔らかい」とはしゃいでいる。
「何十年も交配されてまだ子どもとは哀れだ」
「花にとっては生まれて初めての春だよ。大事にしてあげないと」
「散ればすぐに忘れるだろう」
「想い出の中では咲き続けるよ。想い出せば何度も花開く」
彼女は自身の胸を指で軽く叩いた。想いは古今東西、人間の心臓の中にあるようだ。手のひら大しかない器に、彼女は無数の花びらの想い出を詰め込んでいるらしい。
「もちろん、貴方と一緒に見た想い出も残るよ」
更に追加で、長身の彼も心臓の中に詰め込むようだ。
「お前の中で、源平咲きの花が咲くなら残ってもいい」
「じゃあ、頑張って咲かせてみせるよ」
どうせ記憶違いするだろうと彼は返事しなかった。彼女の想い出の中で都合良く、赤と白の混合色の花が勝手に咲くだろう。そう見くびっていた。だが誤った記憶であれ、幸せそうに見える。
人に勘違いされて殴られるような人生を送った彼だが、死にはしなかった。生きたいという気持ちが、彼を生かした。紅白の花も咲かせたいと気持ちを込めれば、いつかは本物になるかもしれない。
女は梅の木の前で微笑んだ。いつも白い頬にかすかな血色が帯びている。
(250328 小さな幸せ)
「さあ、サクヤヒメ。日本酒をどうぞ」
彼女は屈んで瓶を傾けた。地面に落ちた桜の花びらは、日本酒の滝にのまれていく。街灯に照らされた水たまりには、酒の香りに混じって微かに花の匂いがした。
男はただ見ていた。酔っ払いの挙動を訝しんでいる。彼女が、カバンの中にあった酒を一日中大事にしていたから、たいそう美酒なのだろうと彼は期待していた。だがその美酒は、今やコンクリートの上に留まる汚水と化してしまった。彼女は、星空も映らない無機質な水たまりを眺めて、ニタニタと笑っている。
「酒の匂いで酔えるとは随分と能天気だな」
「あはは、ボーキサイト味の缶ビールを捧げるよりかはこっちが良いでしょ」
「何が言いたい?」
「みんな春らんまんといって花見を楽しむのに、散った桜にはちっとも見向きもしない。しかも、ゴミを置いて帰るでしょう。散った花びらにだってサクヤヒメはいるのに」
彼は戸惑った。おそらく、顔の赤い彼女と見ている景色が違うのだろう。彼も屈んで、日本酒に浮かぶ花びらを見た。
彼女は酒の湖にうっとりと見惚れているが、彼の目にはやはり汚水にしか見えない。溢れた液体は、街灯の光を跳ね返し、コンクリートの溝を強調させ、化け物のような鱗を浮かび上がらせている。彼女には、サクヤヒメがそこで寝転がって見えているらしい。
「人の命が花か岩かと選ぶ話があるけれど、貴方の国では何を選んだ?」
「さあな。知っても俺には関係ない。ただ、水から全てが始まったと聞いたことがある」
「水から全てが始まった?」
「ああ、生物も物語も歴史も全て水から生まれた。そう覚えた」
「じゃあ、ここでひとつ聞かせてよ。水から生まれたお話を」
男はなんとかして嫌そうな顔を見せた。彼女はまだ酔っ払って笑っている。彼女に睨み返しても無駄であった。
「……地神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。綿綿若存、用之不動」
「わあ、博識だね」
「もう酔いが覚めただろ。帰るぞ」
男が立ち上がるのにつられて、彼女も身体を伸ばして一緒に歩み出した。
桜は寝る暇もなく散っている。日本酒の湖には、花びらが徐々に集まってきた。ようやく、人々が寝静まって星の光が輝く夜明け頃、酒に溶けた花びらは、じっくりとコンクリートの下に濾過されていき、するりと消えていった。後に残ったのは、濡れた地面に溢れ出る星々の光だった。
(250327 春爛漫)
ユリから虹の質問をされたので、ケンは祖父が若い頃に見た虹の感想を言った。
「爺さん、シェルター前の空にあった虹のこと、あんまり覚えていないってさ」
「どうして? クラウドに保存された写真画像の虹は綺麗だった」
「そう言われてもな、相手は物忘れの爺さんだ。周りの友達と一緒に虹を見て楽しかった記憶はあるらしい」
「本当に七色だったのか覚えていない?」
彼は首を振った。祖父から、七色だったかもしれないが、それよりも虹を見た感動で胸がいっぱいだったと聞いた。
「つまらない」
ユリは汚物を見下すような目をした。虹色に染めた髪を根本から引っ張っている。力任せにいくつか抜いてしまった。脂に包まれた黒い毛根が現れた。
「おい、やめろよ。禿げちまうぞ」
「はあ?」
「いや、だから、せっかく虹色に染めたんだろ。お前の髪が台無しになる」
彼女のこめかみに青い血管が浮かんでいる。目の焦点は合わないが、微かに潤んでいる。彼女は、ケンの言葉を聞いて髪の毛を抜く手を止めた。彼女の足元には、抜け落ちた髪が絡み合っている。
「この髪は、この髪はさ、もう台無しなんだよ。黒かった髪をキレイだねって触ってきて、頭を撫でてきて、掴まれて、押されてさー、散々カワイイとかイイ子とかキモチイイとか言ってきたくせに、最後には母さんには黙ってろよって脅して、ホントマジクソ気持ち悪い」
彼女はずっと髪を触っている。はねる赤い毛先、うねる青い髪の毛、色の抜け切った黄色い髪、切れ毛だらけの緑、枝毛しかないオレンジ、そして折れ曲がった紫の髪の毛。
ユリは俯いた。彼女の頬を囲む髪は、黒く変色していた。彼は、前髪で顔を隠す彼女をただ見つめるしかなかった。かける言葉が出てこなかった。
「だから、もっと台無しにさせてやった。黒なんてない、髪を虹色に染めちゃえば、あいつだってドン引きするだろうって。でもさ、虹を見ても覚えないんでしょ。ただ笑うだけでしょ、ゲラゲラと。それって何も変わっていないってことじゃないか」
ユリはだんだんと涙声になって、ついにはすすり泣き出した。どうにか、彼の中から希望を見出したかったのだろう。
ケンは、彼女に誤った答を出してしまい、自身に失望した。思わず、頭を抱えて掻きむしった。
あの時、祖父に問うた虹を、隣にいた祖母はにこやかに歌った。虹の向こうには夢が叶う場所があると歌っていた。そっちを言えば良かったと彼も泣きそうになった。
「俺はな、最初にお前の髪を見て衝撃を受けた。シェルターの向こう側にある虹は、その髪の毛みたいにサラサラとして綺麗なんだなって思わず夢見たさ。本当の虹を見たら、ずっと忘れない。そんな夢さえも見た」
ユリはまだ泣いている。彼はもう泣くなと言いたかったが、怒りか悲しみか、震えるくちびるでは何も言えなかった。
シェルターに映る夕陽の映像が、徐々に夜空の映像へと移行し始める。数多ある画素数の一つに、白い星がぱっと浮かんだ。
(250326 七色)
自分の古い記憶をさかのぼってみた。
確か、カバノマチ保育園だったか。蒲の言葉が訛った地名らしい。子どもだった私は、どうしても動物のカバを連想した。
五才の頃、私は園内の部屋で目の前にあるガラス窓に指を当てた。網入りのガラス窓を地図に見立てて、消えてしまった絵本はきっとここにあると、交差線を指した。隣にいた先生は、そうだねと相槌を打った。
その部屋には、おそらく私と先生しかいなかったはずだ。誰かいたかもしれないが、二人っきりで話して楽しかった覚えはある。親と話すよりも気分が良かった。ようやく人と会話する喜びを覚えた瞬間だったから、記憶に深く刻まれたのだろう。
あの頃の私は、自分の空想に耳を傾ける聞き手を求めていた。無意味に頬ばかり撫で回す母親なんかよりも、映画一本さえ付き合ってくれない父親よりも、自分の話を聞いてくれる人を欲していた。
幼い私には、ガラス窓が世界地図に見えた。その地図の中に消えた絵本が、気球のようにふわふわと浮かんで飛んでいた。気球に乗っているクマが、地図上で迷子になっている。けれども、不思議な旅の景色が愉快な夢のように見えた。
舌足らずな物語に、先生はうんうんと聞いて、一緒にガラス窓を見てくれた。私の小さな人差し指を目で追って、クマの空中旅行を夢見た。
あの頃から私は、本を無為の神に見立てて、自身のアニムスと母性をつないでいたのだろう。自分のことだから納得できる。小さな私はアニムス、先生はもちろん母性だ。短く、そして真っ直ぐに切られた黒髪とつり目、血のように赤い唇の女性ばかり目で追う癖があるが、私の母性をずっと探していたからだろう。
去年の夏から綺麗な死に方をする為に、私はアニムスと母性をつなぐ無為の神である本をもっと読むと決意した。その決意は、実は五才の時に芽生えていた。既に、私は本と共に生きる運命であった。
二十八年の歳月を経て、私は自作の小説を手にした。アニムスのたましいと母性の心をつなぐ本が、長き旅路を経て、今ここに帰ってきた。
(250325 記憶)