「さあ、サクヤヒメ。日本酒をどうぞ」
彼女は屈んで瓶を傾けた。地面に落ちた桜の花びらは、日本酒の滝にのまれていく。街灯に照らされた水たまりには、酒の香りに混じって微かに花の匂いがした。
男はただ見ていた。酔っ払いの挙動を訝しんでいる。彼女が、カバンの中にあった酒を一日中大事にしていたから、たいそう美酒なのだろうと彼は期待していた。だがその美酒は、今やコンクリートの上に留まる汚水と化してしまった。彼女は、星空も映らない無機質な水たまりを眺めて、ニタニタと笑っている。
「酒の匂いで酔えるとは随分と能天気だな」
「あはは、ボーキサイト味の缶ビールを捧げるよりかはこっちが良いでしょ」
「何が言いたい?」
「みんな春らんまんといって花見を楽しむのに、散った桜にはちっとも見向きもしない。しかも、ゴミを置いて帰るでしょう。散った花びらにだってサクヤヒメはいるのに」
彼は戸惑った。おそらく、顔の赤い彼女と見ている景色が違うのだろう。彼も屈んで、日本酒に浮かぶ花びらを見た。
彼女は酒の湖にうっとりと見惚れているが、彼の目にはやはり汚水にしか見えない。溢れた液体は、街灯の光を跳ね返し、コンクリートの溝を強調させ、化け物のような鱗を浮かび上がらせている。彼女には、サクヤヒメがそこで寝転がって見えているらしい。
「人の命が花か岩かと選ぶ話があるけれど、貴方の国では何を選んだ?」
「さあな。知っても俺には関係ない。ただ、水から全てが始まったと聞いたことがある」
「水から全てが始まった?」
「ああ、生物も物語も歴史も全て水から生まれた。そう覚えた」
「じゃあ、ここでひとつ聞かせてよ。水から生まれたお話を」
男はなんとかして嫌そうな顔を見せた。彼女はまだ酔っ払って笑っている。彼女に睨み返しても無駄であった。
「……地神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。綿綿若存、用之不動」
「わあ、博識だね」
「もう酔いが覚めただろ。帰るぞ」
男が立ち上がるのにつられて、彼女も身体を伸ばして一緒に歩み出した。
桜は寝る暇もなく散っている。日本酒の湖には、花びらが徐々に集まってきた。ようやく、人々が寝静まって星の光が輝く夜明け頃、酒に溶けた花びらは、じっくりとコンクリートの下に濾過されていき、するりと消えていった。後に残ったのは、濡れた地面に溢れ出る星々の光だった。
(250327 春爛漫)
3/27/2025, 2:00:42 PM