自分の古い記憶をさかのぼってみた。
確か、カバノマチ保育園だったか。蒲の言葉が訛った地名らしい。子どもだった私は、どうしても動物のカバを連想した。
五才の頃、私は園内の部屋で目の前にあるガラス窓に指を当てた。網入りのガラス窓を地図に見立てて、消えてしまった絵本はきっとここにあると、交差線を指した。隣にいた先生は、そうだねと相槌を打った。
その部屋には、おそらく私と先生しかいなかったはずだ。誰かいたかもしれないが、二人っきりで話して楽しかった覚えはある。親と話すよりも気分が良かった。ようやく人と会話する喜びを覚えた瞬間だったから、記憶に深く刻まれたのだろう。
あの頃の私は、自分の空想に耳を傾ける聞き手を求めていた。無意味に頬ばかり撫で回す母親なんかよりも、映画一本さえ付き合ってくれない父親よりも、自分の話を聞いてくれる人を欲していた。
幼い私には、ガラス窓が世界地図に見えた。その地図の中に消えた絵本が、気球のようにふわふわと浮かんで飛んでいた。気球に乗っているクマが、地図上で迷子になっている。けれども、不思議な旅の景色が愉快な夢のように見えた。
舌足らずな物語に、先生はうんうんと聞いて、一緒にガラス窓を見てくれた。私の小さな人差し指を目で追って、クマの空中旅行を夢見た。
あの頃から私は、本を無為の神に見立てて、自身のアニムスと母性をつないでいたのだろう。自分のことだから納得できる。小さな私はアニムス、先生はもちろん母性だ。短く、そして真っ直ぐに切られた黒髪とつり目、血のように赤い唇の女性ばかり目で追う癖があるが、私の母性をずっと探していたからだろう。
去年の夏から綺麗な死に方をする為に、私はアニムスと母性をつなぐ無為の神である本をもっと読むと決意した。その決意は、実は五才の時に芽生えていた。既に、私は本と共に生きる運命であった。
二十八年の歳月を経て、私は自作の小説を手にした。アニムスのたましいと母性の心をつなぐ本が、長き旅路を経て、今ここに帰ってきた。
(250325 記憶)
3/25/2025, 1:26:25 PM