「約束は、口の中に入れられるものがちょうど良いね」
彼女は彼からもらったお汁粉を飲みながら微笑んだ。黒漆の椀の中にある小豆と白玉は、内側の朱色塗りに照らされて艶やかだ。
彼は、健やかな肉付きの良い彼女の頬を見て、納得したように言った。
「you are what you eat」
「私はあなたの約束で出来た身体だね」
「秘密も嘘も何もかも包み込んでくれそうだよ」
「お餅みたいに?」
「お餅みたいだね」
「あらら、食べ過ぎちゃったか」
彼女は照れくさそうに苦笑した。それでもお椀の汁を飲み干したくて淵から唇を離さない。彼はお椀までも舐め尽くそうと美味しく食べる彼女に少し寄りかかった。唇についた小豆を舌なめずりする彼女に、確かな味覚があると確信した。
「それ、またあの人から貰ったんだ。僕の好物をぜんぶ知られてしまったよ」
「そうなの。あの人、本当に美味しいものを知っているのに、会うたびに愚痴ばかり吐いているね」
「胃の中は満たされても、心までは満たされていないようだ」
「あなたがあの人の返事をしないから、あっちは不満になっているんじゃない」
「そう言うが、君は、いつも不幸自慢ばかり話す人と幸せな家庭を築けると思うのかい。あの人を褒めたって、自分の母親から醜いだの何だのと言われたって泣きつく一生を共に過ごすだけだ。消化不良で倒れてしまうよ」
「あなたの褒め言葉が、その人の幸せになれる呪文なんだろうね」
「ねえ、本当に食べたものが僕らの身体になるのかい」
彼は嫌な顔をした。自分でも思った以上に甘えた声を出してしまったと後悔する。
「うん。食べ物は嘘つかないよ。現に私の身体も良い感じにモチモチになってきたでしょ」
「そうだね、愚痴も不幸も跳ね返すような弾力がある」
「あなたを丸ごと包み込む包容力もあるよ」
「まったく、君と結婚したら僕は不幸にならずにすむのに」
「あー、その約束はまだ飲み込めないかな」
彼女はお汁粉を飲み干した。腹に手を当てて、十分満足した顔つきで微笑んでいる。彼はまだ飲み干せないお汁粉を片手に不満そうな顔を見せた。腹は空いてもいなければ、満たされてもいない。
(250304 約束)
私の隣に図書ボランティアの人が来た。先ほども無言で私に近寄り、本棚からリストの資料を抜いて取って行った。今も黙って、リストの用紙を片手に本を探している。
私は、あちらの動きを察して、私の目の前にある本棚に目当てのものがあると勘付いた。私は、配架の作業を止めて、こちらに来ますかと尋ねた。すると向こうは、突然ありがとうございますと私の目も合わせずに、棚の前に立ちはだかった。私の言葉を言い切る前に、相手から礼を言われてしまった。
何だか、服を身にまとった肉の塊と話している気分だ。相手のエプロンの裾でひらりと私の存在を掻き消された不快さを覚えた。知性も教養も感じられない言動である。
私は思わず、この人は知能か精神の障害でも抱えているのかと疑ってしまった。人権を傷つく思想で良くないと分かっているが、あまりにも人間味を感じられない。
こんなにも多くの本に囲まれていながら、死んでいるように生きている人間がいるなんて哀れだ。無知を可視化させる書物を見ても、相手の目には紙に書かれた文字の具現化としか見えていないのだろう。
そんな詰まらない人間も、もしかしたら実は蝶だったと設定付けさせたら面白いだろうよ。
棚から本のページが抜け出して、蝶となり、そして人間になって、ひらりと夢中にさまよっているのかもしれない。そうだったら可愛げがあって良い。
私は紙の文字にも夢中な蝶を見送った。
(250303 ひらり)
ベルベットの向こうに誰かいる。黒一色の布だ。縦糸と横糸が一本一本とはっきりと目に見えて、細やかな正方形の群れから光が溢れている。向こうが透き通って見えるはずだが、布張り越しにいる相手の姿はよく見えない。
本当に誰だろうと私は布を手でそっと持ち上げた。相手の身体が見えた。男にも女にもそれ以外の人間にも思える身体つきだ。服は、私が着物だと思えば着物になり、スーツだと思えばスーツになる。そんな気まぐれな思想に付き合える身なりをしている。わずかに覗く手や首の肌は淡く輝き、肌に透ける血管は確かな生命の血潮を浮き上がらせる。
あと少しで相手の顔が見える寸前に、私は手の動きを止めた。何だか惜しいなと天邪鬼になった。このまま誰だろうと覗き込んでも良いが、今はそんな気分ではない。逆に向こうから覗き込まれたら、急いで布を下ろして何もなかったことにする。
私は、相手の顔だけ隠して、あちらがどんな表情をしているのか想像していたい。布の向こうの人物は、閃いたトリックをとにかく披露したい手品師かもしれないし、怪談を話したくてうずうずしている語り部かもしれない。思いっきり布を上げてみたら、そこには太陽を頂に冠る金細工の王がいるかもしれない。
誰であれ、この布の向こうを破るも包むも拡げるも私次第だ。そこのいるのは誰だと、宵闇を思わせる天鵞絨に永遠の謎を縫い込んだ。
(250302 誰かしら?)
人の目を見るのが怖くなったのは、自業自得だったのだろう。子どもの頃の私は、とにかく小心者だった。相手の調子に合わせようとよく目配せしていた。目つきの悪さも相まって、「何でこっちを睨むの」と小学校の同級生に言われてしまった。大袈裟な恐怖心が私の視界を覆っていたのだ。
ただ恐怖も美には敵わぬようで、Cygames『ウマ娘』のゲームキャラクターの瞳を見つめてから、私は人の目をよく見るようになった。目までも芸術品になると教えてくれた良いゲームだ。
ウマ娘たちの瞳はとにかく美しい。桜の花を咲かせたり、太陽の輝きを照らしたり、何もかも射抜く照準器で見守ってくれたりと色々な瞳がたくさん輝いている。
現実世界に、彼女たちのような瞳の輝きを持つ生き物はさすがにいない。いないからこそ、その輝きの夢を追いかけるように人々の目を覗き込んでいる。
相手と視線を交わした瞬間に、煌めく星のような光。その光に、私は自身の虹彩から何かが芽吹くのを感じ、また瞳の奥から花開くような快感を覚える。
(250301 芽吹きのとき)
近所の和菓子屋に、おそらく七十か八十ぐらいのおばあさんが働いている。たいへん元気だ。何せ、一人で店番をしている。会計から品出し、和菓子の製造まで全部一人だ。店は自宅に隣接しているから、家族の者も手伝っているだろう。だが、店には常にそのおばあさんしかいない。
その店の名物は、焼くとパンのように香ばしいおまんじゅうだ。他にも、一度しか食べたことのない黒豆入りの大きな蒸しパンも美味しかった。またいなり寿司もあって、和菓子と同じ砂糖が入っていたのか、甘さ引き立つ旨味を感じた。
私は一回だけ、おばあさんからおまけとして、売り物になれなかったおまんじゅうを貰った。味は売り物と大して変わらず、何ならおばあさんの優しさが込められていたので、より一層美味しく味わえた。
彼女の柔らかな愛情は、何ものも餅のように包み込む温もりを感じる。私がお釣りを貰った時、一瞬だけおばあさんの手に触れた。熱い、そう思った時には私の手のひらからじんわりと熱が湧き上がってきた。
おばあさんの手には、血潮の燃えたぎる熱さがあった。あまりにも強い熱に、私は自分の手を溶かされるかと驚いた。
彼女は和菓子作りの最中であったのだろう。料理をする手はよく熱がこもると言うが、あのおばあさんの手には、自身の命を汗水に溶かして食べ物に分け与える意志がある。向こうは、和菓子を作って人に食べて貰って楽しくて仕方ないと人生を楽しんでいるのだろう。
私はおばあさんの体温を受け取って、大事に握りしめた。これが自ら生きる意味を見出し、綺麗な死へと向かって歩む人間の温かなたましいだ。
(250228 あの日の温もり)