彼は、昔から泣かない子だった。
転んでも、叱られても、一度も泣いた姿を見たことがない。
だから、そういうものだと思っていた。彼は強くて、格好良くて、泣かないんだと。
中学を卒業した彼は、僕が中学校に入るタイミングで、都会の高校に進学して引っ越した。
当時はスマホなんて持っていなかったから、もうそれっきり、この9年間、顔すら見ていなかった。大好きだったはずの彼の声は、とうに忘れている。
22になった僕は、それなりの大学でそれなりの成績をキープしていた。
もう卒業も間近で、就職の話もちらほら出てくるようになっている。
僕も、いい加減真面目に就職について考えなければ、と思っていた。
漠然と夢はあった。だが、あまりにぼんやりとしていて輪郭のないその夢は、僕には到底手の届かない存在に見えて、どこか当たり前のように、叶わないものとして捉えていた。
作家に、なりたかった。けれど、そう簡単なものでも、すぐに大成するものでも、安定する職でもない。
22年間で染み付いた常識が、作家としての僕を殺していた。
そんな折だった。就職について考えなければということで、大学に入ってできた浅い友人と、企業の説明会を転々と見て回っていた。
そこで、彼とばったり再会したのだ。
彼は随分大人びていて、紫煙とアルコールを含んだ、都会に呑まれた大人の匂いがした。
会話は無かった。目が合って、それきり。ただ、その後にまだチャンスがあった。
友人と別れた帰り道、駅のホーム。彼とまた遭遇した。
今度は無視するわけにもいかなくて、必然的に会話が生まれた。
ぽつぽつと近況を話して、なんとなく流れで彼の家に上がって。
そして、何故か僕は、諦めたはずの筆を執っていた。
画家になりたかった彼は、僕と同じようにぼんやり生きて、そして筆を折ったらしい。
もうあの頃の絵は描けないと、描きたくないと、薄っすら隈の刻まれた目元が物語っていた。
彼の濁った瞳の中で星が爆ぜて、きらきらした破片になって溢れ出る。
それがあんまりに悲しくて、綺麗で、僕はそれを書きたかった。
テーマ:星が溢れる
ある日、俺の下に猛犬がやってきた。
猛犬とは言っても、比喩だ。来たのは、俺より20センチは背が高く、細身ながら無駄のない筋肉のついた大柄な体付きの男。
組織の中で誰も制御できず、半ば島流しのように、俺の部隊へ送られてきた。
俺達の部隊は、いわば終着地点。使えない、制御できないと判断された問題児達が集められた、どうしようもなく、けれど暴力的な強さを秘めた部隊。
元々爆弾のような部隊だ。今更猛犬の一匹や二匹増えたところで、何の変化もない。
今だって、先にこの部隊に送られていた問題児にちょっかいをかけられている。
「お、新入り〜?どっから飛ばされてきたの?罪状は?」
「……また増えんのかよ……使えねぇなら殺すからな。俺の邪魔すんな。」
よりによって、ウチの中でも特に面倒なのに絡まれているようだ。
組織の風俗を乱すとして送られてきた軟派な男と、誰にでも突っかかるのでどうしようもないと判断された男。別方向に面倒で、何故か2人一緒に居がちなのがまた面倒だ。
「……うるせー……来て早々説教かよ。つーか、こんな終わってる部隊派遣されるくらいならさっさとここ辞めりゃ良かったわ。」
既にバチバチと火花が散っている。いい加減、止めに入ったほうがいいだろう。
かつ、とわざと革靴の足音を鳴らして背後に歩み寄る。3人の喧騒がぴたりと止んで、三対の目がこちらを見つめた。
「あれ、たいちょーじゃん?何、新人の躾でもしに来た?」
その声を無視して、新入りの元へまた近寄る。
そして、全力で、壊しにかかるつもりで、拳を顔面に叩き込んだ。
「……うっっわ……分かってたけど……やっぱたいちょーえげつね〜……」
数メートル吹き飛んだ新人の腕を掴んで引き起こす。何が起きたか分かっていないようだったが、気絶はしていない。猛犬と言うだけあって、それなりに頑丈なようだ。
「いいか。これまでは叱るやつも居なかったんだろう。だが、ウチに来たからには徹底的に躾けてやる。お前だけ特別扱いは無しだ。」
かなり厳しく言ったつもりだった。だが、奴の反応は予想外だった。
どこか遠くを見つめて、恍惚としたような、心底嬉しいような気配を滲ませて、逆立っていた瞳の棘が消えた。
「……はい。」
穏やかな瞳は、新たな波乱を静かに広げていく。
俺は叱られて喜ぶ彼に若干引きつつ、黙ってとりあえず頷いておいた。
テーマ:安らかな瞳
「お隣、いいですか。」
ベロベロに酔い潰れだした俺のもとに、そんな声がかかった。
法も何もかもが崩壊し、何もかもが無秩序になったこの街にしては珍しい声掛けだ。
静かで、落ち着いていて、ずっと聴いていたくなるような、心地いい声。
程よく低いその声に、俺は可愛い女の子かもしれない、と若干の下心と期待を込め、重たくなった首の関節を持ち上げた。
目の前に映るのは、後ろで緩く一括りにされた髪と、柔らかく下がった目尻、頬骨の上にある、涙ぼくろ。
そして、俺より10センチは高そうな長身だった。
「…………男かよぉ……」
酔っ払いの口に、蓋はできない。中性的ではあったが、肩幅も、身長も、体つきも、どう見たって男だ。期待した俺を落胆させるには十分だった。
「……はぁ……まぁ、男ですけど……」
若干困惑したような、拗ねたような声。当然だ。ただ声をかけただけで、勝手に落胆されたのだから。
そんなことは分かっていても、酒やら何やらでぐちゃぐちゃになった情緒の自分は、失礼を止めることはできない。
「男が何の用だよ……はぁ……可愛い女の子なら……」
ぐちぐちと文句が止まらない俺を放って、優男の彼は隣の席に腰を下ろした。
薄暗いバーの照明に濡れる彼の髪は、やはり綺麗だ。酔っ払った頭に、女の子ならなぁ、と何度目かも分からない理不尽な落胆がよぎった。
「……お兄さん、なんでそんな酔ってるんですか。昼間から。」
散々に言われて流石に腹を立てたのか、ほんの少しの棘を含んだ言葉が降ってくる。
友人である店主のやや冷えた視線を感じながらも、酔った情緒はやっぱり止まらなかった。
「うるせぇ〜……傷心中なんだよふざけんなぁ……」
ぐず、とみっともなく鼻を啜る音がした。
5年付き合った彼女に振られたのだ。少しくらい許せ。
「ふーん……」
カラン、とグラスに氷のぶつかる涼やかな音色に合わせて、琥珀色の酒がやたら似合う形のいい唇がガラスに押し付けられていた。
「傷心中なんだ。お兄さん。」
傷をえぐられたようで、余計ぐずぐずとみっともなく泣き喚く。酔っ払いに感情の制御なんて難しい芸当はできない。
「じゃ、僕が貰って行っちゃおうかな。お兄さんのこと。」
す、と彼が何かを差し出してくる。見れば、権力を失った警察の代わりにこの街を取り仕切る、いわば裏社会の人間の証しであった。
これがきっかけで、俺の人生は歪んだ。
だが、後悔はしていない。彼の隣で、裏社会なりの秩序を以てこの街を仕切るのは、案外悪くない。
テーマ:ずっと隣で
ある日の、学校からの帰り道。普段は通らない裏道を通ってみたら、クラスメイトの影を見つけた。
あまりクラスに馴染めていない、不良っぽい男の子。
その彼が、道端に座り込んで、何かごそごそと怪しげな動きをしていた。
もしかして、何か怪しいこと?それとも、体調が悪いとか?
色々な考えが頭を巡って、足音を忍ばせて近寄ってみた。
みぃ。
小さな、猫の鳴き声がした。
予想外の音に驚いて、枯れ葉をぐしゃりと踏み潰してしまう。
「……あ?」
彼が、振り向いてしまった。
ばちりと目が合って、逃げられそうにない。鋭い視線が僕を射抜いて、背筋を冷や汗が伝った。
「……お前、いつから見てた。」
冷たい声が飛んできて、僕の背は余計に跳ねて震えた。
「あ……え、えと……さ、さっき……」
喉が引きつるのを感じながら、詰まり吃りながらどうにか答える。言葉が不自然じゃなかったかで、頭がいっぱいだった。
「……そうかよ……」
予想外に柔らかな音が返ってきて、僕は拍子抜けする。
ぱっと顔を上げると、彼は少し耳を赤くして、そっぽを向いていた。
にゃあ。
また、子猫の声がした。彼の目がふっと緩んで、そのしゃがみ込んだ大柄な体躯から覗いた小さな毛玉に視線が落ちる。
「……あー……コイツ見てたんだ。……ちょっと前からここに居てな。親も居ねぇみたいだし、たまに見てんだよ。」
恥ずかしそうに言う彼は、噂に聞くような暴力的な力を持った不良なんかには見えなかった。
「……ねぇ。」
思わず、手が伸びた。一歩近寄って、彼の肩にそっと触れる。びく、と彼の肩が跳ねたのも、よく伝わってきた。
「……僕も、一緒に見てていい?」
精一杯の呟きは、果たして聞こえていたのだろうか。
分からないけれど、肩に置いた手は拒絶されていない。
僕は少しだけ、この不器用なクラスメイトのことが気になり始めていた。
テーマ:もっと知りたい
靴を履く。ドアを開ける。外に出る。
生まれてから何度も繰り返したルーティン。通う先が変われど、慣れれば同じことの繰り返しだ。
見慣れた道を歩く。家から出て3番目の角を、右に。そのまま進んで、今度は左。
そうやって駅に着いたら、定期を取り出して、改札を通る。
ホームに出て電車を待っている間は、いつも楽しくもないパズルゲームで暇をつぶしていた。ふと顔を上げれば、同じように暇をつぶしている学生の群れがある。
濁った目をしたサラリーマン、暇を持て余した老人たち。誰もが別の目的で、同じように電車を待っている。
電線の上では、人間たちの喧騒を馬鹿にするように、雀と鴉の鳴き声が飛び交っていた。
平穏な、平穏な日常。何もない幸せ。それこそが幸福なのだと言われれば、そうなのだろう。
行き詰まったパズルの画面を見下ろして、手詰まりになった指先が彷徨った。
何か、とてつもない焦燥が身を焦がしている。
平穏なのは、本当に良いことなのか。何もないのが、素晴らしいことなのか。
雑多に立ち竦む人々の中で、俺一人だけが、深い深い暗闇に足を掬われる。
思考は暗い方へと突き進み、周囲の喧騒がやたら大きく響いた。
全てが耳障りだ。電車を待つ学生の甲高い笑い声も、人生に疲れたようなサラリーマンの重たい溜息も、漏れ聞こえる老人たちの旅行の計画も、全部。
俺にはもっと、何か輝くようなものがあって、こんなところで平穏に暮らしている場合ではなくて、でも俺はそれが分からない。
平穏すぎた日常は、時に人を闇へと誘う。過去、自ら命を絶った者の中にも、同じように誘われてしまった者がいたのだろう。
電車が近付いてきている。警笛が大きく響いて、ざわめいていた人々の声が掻き消される。
黄色い点字ブロックの停止線を踏み越えかけて、警笛の音に引き留められた。
ああ、今日も平穏な日常が待っている。
テーマ:平穏な日常