「お隣、いいですか。」
ベロベロに酔い潰れだした俺のもとに、そんな声がかかった。
法も何もかもが崩壊し、何もかもが無秩序になったこの街にしては珍しい声掛けだ。
静かで、落ち着いていて、ずっと聴いていたくなるような、心地いい声。
程よく低いその声に、俺は可愛い女の子かもしれない、と若干の下心と期待を込め、重たくなった首の関節を持ち上げた。
目の前に映るのは、後ろで緩く一括りにされた髪と、柔らかく下がった目尻、頬骨の上にある、涙ぼくろ。
そして、俺より10センチは高そうな長身だった。
「…………男かよぉ……」
酔っ払いの口に、蓋はできない。中性的ではあったが、肩幅も、身長も、体つきも、どう見たって男だ。期待した俺を落胆させるには十分だった。
「……はぁ……まぁ、男ですけど……」
若干困惑したような、拗ねたような声。当然だ。ただ声をかけただけで、勝手に落胆されたのだから。
そんなことは分かっていても、酒やら何やらでぐちゃぐちゃになった情緒の自分は、失礼を止めることはできない。
「男が何の用だよ……はぁ……可愛い女の子なら……」
ぐちぐちと文句が止まらない俺を放って、優男の彼は隣の席に腰を下ろした。
薄暗いバーの照明に濡れる彼の髪は、やはり綺麗だ。酔っ払った頭に、女の子ならなぁ、と何度目かも分からない理不尽な落胆がよぎった。
「……お兄さん、なんでそんな酔ってるんですか。昼間から。」
散々に言われて流石に腹を立てたのか、ほんの少しの棘を含んだ言葉が降ってくる。
友人である店主のやや冷えた視線を感じながらも、酔った情緒はやっぱり止まらなかった。
「うるせぇ〜……傷心中なんだよふざけんなぁ……」
ぐず、とみっともなく鼻を啜る音がした。
5年付き合った彼女に振られたのだ。少しくらい許せ。
「ふーん……」
カラン、とグラスに氷のぶつかる涼やかな音色に合わせて、琥珀色の酒がやたら似合う形のいい唇がガラスに押し付けられていた。
「傷心中なんだ。お兄さん。」
傷をえぐられたようで、余計ぐずぐずとみっともなく泣き喚く。酔っ払いに感情の制御なんて難しい芸当はできない。
「じゃ、僕が貰って行っちゃおうかな。お兄さんのこと。」
す、と彼が何かを差し出してくる。見れば、権力を失った警察の代わりにこの街を取り仕切る、いわば裏社会の人間の証しであった。
これがきっかけで、俺の人生は歪んだ。
だが、後悔はしていない。彼の隣で、裏社会なりの秩序を以てこの街を仕切るのは、案外悪くない。
テーマ:ずっと隣で
3/14/2026, 8:59:48 AM