くぁ、と猫が大口を開けて欠伸をする横を、同じように間抜け面を晒して欠伸をしながら通り過ぎる。ついこの間まで秋景色だった通学路は、すっかり冬仕様に模様替えを済ませていた。
「……さっむ……」
もう少し厚い上着を出さないといけなさそうだ、とスマホのメモに記録して、さっさと学校へ歩いていく。学校はストーブがあるだけまだ暖かいだろう。ネックウォーマーに顔を埋めるように首を竦めながら、もう一度身震いして二の腕をさすった。
そんな道の最中には、小さな神社がある。夏は手水の音が涼しげで、程よく木漏れ日の差す木陰が心地良いので、よく近くのコンビニでアイスを買ってそこで食べていた。だがまぁ、冬になってしまうと何とも寂しげに見えるので、あまり寄ることは無かった。
しかし今日は、何となく惹かれて少し立ち寄ることにした。理由も特に無いが、神社を通っても学校までの時間はあまり変わらないから特に気にしなかった。
鳥居に軽く礼をしてから、境内に入る。中はやっぱり寂しげで、時折吹く旋風が余計に寂しさを増して見せた。一応境内に入れてもらったので、折角だしお賽銭くらいは投げていこうかと本殿に近付く。外の寂しさに反して、本殿付近は案外小綺麗だった。
うろ覚えの二礼二拍手一礼をして、時間を確認して慌てて神社を出る。遅刻まであと十分。急げばギリギリ間に合うだろう。
境内を出たところで、強い風が吹いた。木枯らし、というやつだろう。境内に植えられていた木々の、赤や黄色の葉を散らしていく。落ちていく葉に視線を奪われ、葉の動きと一緒に下を向く。地面には、箒で掃き寄せられたのだろう。乾燥した葉が山のようになっていた。
俺の中の男児が、この地面に落ちた秋の残滓につい惹かれてしまった。鳥居からまっすぐ伸びた道の横にこんもりと積もった葉の山は、見るだけでうずうずとして踏み荒らしたくなってしまう。
俺は欲望に負け、落ち葉の山に片足を突っ込む。ぐしゃりと小気味いい音がして、山の麓の辺りの葉が粉々になった。
しばらくの間、その山を夢中で踏んでいた。びっくりするほど楽しい、というわけでもないが、一度始めたらやめられない中毒性がある。
満足するまで踏んで、妙な達成感を得てから学校への道を歩く。靴や制服のズボンに着いた落ち葉の粉が歩く度落ちて、俺の歩いた道を赤や黄色、茶色で塗り替えていく。
朝から少しだけ爽快な気分になれた俺は、いつもより少しだけ軽快な足取りで校門をくぐった。
学校には、当然遅刻したし怒られた。
テーマ:落ち葉の道
「あれ?」
寝間着から服を着替え、上着を羽織って鞄の中を確認する。財布、定期、手袋、のど飴……靴を履いて爪先を地面に軽く叩きつけながら確認していた手が止まる。
鍵が無かった。今日は丸一日家を空ける予定なので、鍵をかけずに家を出るわけにもいかない。しかし、もう出発まで時間が無い。
仕方なしに俺が選んだ手段は、暇そうな友人に留守番を頼む、だった。恋人の一人でも居ればそっちに頼んだだろうし、実家住みならこんな心配はしなくてもいい。しかし生憎、俺は彼女いない歴=年齢の独居大学生である。
急いでポケットから携帯を取り出し、手当たり次第電話をかける。1人目、出ない。2人目、デート中。3人目、講義中。急いでいる時に限って、皆予定がある。
苛立ちを感じながらも次に電話をかけようとした、その時。なんとも都合のいいことに、暇だったらしい友人が電話をかけてきた。遊びに誘われたのを早口で断り、そのまま家の留守番を頼む。彼は突然の要求にも笑って、あっさり快諾してくれた。
電車に乗ってしばらくした頃、家に着いたと彼から連絡があった。勝手に入っていいと端的に返し、そのまま携帯をポケットに押し込む。今日は最近いい感じの、大学の先輩に遊ぼうと誘われたのだ。先輩は綺麗な黒髪ストレートの清純派美人で、料理が上手い上に優しい。男なら全員好きになってしまいそうな顔だ。そんな先輩に声を掛けられたら、期待してしまうものだろう。
が、期待は裏切られた。昨日のメールでは、自惚れでなこれば好意が透けて見えるほどだったのに、今日はなぜか怯えられている。一応一日中遊びはしたが、ずっと一定の距離を開けられた。
がっくりと落ち込んだまま家に帰ると、留守番を頼んだ友人があたかも自宅かのように寛いでいた。デートの失敗で悄気ていた俺は、そのまま彼にふざけて泣き付く。同性の友達特有の距離感で、腹に顔を埋めて戯れ合った。
ふと顔を上げると、机の上に鍵がある。
「あれ、こんなとこにあんじゃん。」
「ああ、それ棚の裏に落ちてたよ。拾ってそこ置いといた。」
どこまでも優しく頼りになる友人に感謝しつつ、失恋記念に酒を開けた。
*
目の前の君はちょっとだけお馬鹿さんだから、結局最後まで気付かなかった。
机の上なんて今朝何回だって見たことも、微妙に変わった家具の配置も、カーテンレールやソファの下から光るカメラの赤外線も。今日のデートの時、先輩の携帯に何件も来ていた通知の送り主も、内容も。普通、友達の家で留守番するのに棚の裏なんて見るわけないのに。
酔い潰れて横で眠る彼の頭をそっと撫でながら、僕は小さく微笑む。彼に付く悪い虫も、全部僕が追い払ってあげる。携帯に送られてくるカメラのデータを確認して、彼の生活の動線に合わせて少しだけ位置を調整する。ついでに、床に落ちていた彼の髪を拾う。
また、僕の部屋のコレクションが増えてしまいそうだ。
テーマ:君が隠した鍵
ガコガコと乱雑に、部屋を満たしていた雑貨をゴミ袋に押し込んでいく。かつて思い出だったプラ片が、あっという間にゴミの山に姿。変えてしまった。
2年4カ月。それが、彼と過ごした時間。それだけの時間一緒に暮らして、いつの間にか俺の部屋は彼の色を
色濃く残すようになっていった。
無感動に彼の痕跡を消していく。好きだと言っていたから常備してあった、俺のよりずっと重たい煙草。2人で揃いにしたロケットのペンダントに、シンプルなシルバーの指輪。何もかもが大切で、何もかもが憎かった。
彼は、俺を捨てたんだ。俺は本気だったのに、彼は遊びだった。男同士なのも忘れるくらい、好きだったのに。彼は、ゼミで出会ったぽっと出の女の子にあっさりなびいてしまった。
ぽろぽろと止まらない涙はそのままにして、部屋の中をどんどん空にしていく。彼のことを思い出すようなものを全部捨てたら、俺の部屋からは何も無くなってしまった。
片付けと失恋の痛みで疲れた俺は、殺風景な部屋の中で小さく丸くなって、気絶に近い眠りに身を任せて意識を手放した。
どれくらい眠っていたかわからない。外はもう暗くなっていて、夜の帳はとうに降りきっている。
俺は、インターホンを乱打する音と喧しいノック音で目が覚めた。
「開けろ、おい。勝手に鍵変えただろ。」
何度もドアノブが乱雑に回され、古いマンションの扉はミシミシと悲鳴を上げている。俺は枕で耳を覆って、都合の悪いものは何も聞こえないようにした。
本当は分かっていたのだ。彼は浮気なんてしていないと。これは、ただの俺の癇癪なのだと。
ドアの外が静かになって、俺は泣きながらようやく解放された感覚にふわふわとした心地を覚えた。
心変わりしないうちに、この癇癪が冷めきってしまう前にこの思い出の断片を処理してしまおうと、ゴミ袋に手をかけたその時。
ベランダの窓が開いて、見慣れた彼が戻ってきた。
「あークッソ……マジで締め出しやがって……でも、ココの鍵閉めねぇのは相変わらずなのな。」
彼が勝ち誇ったように笑うから、俺はもう癇癪を起こす気にもなれなくなってしまった。
そっと背中に触れる手を感じながら、俺が壊して手放してしまった、これまで積み上げてきた時間の破片をぎゅっと抱きしめた。
テーマ:手放した時間
僕には、忘れられない紅色が2つある。薄く小さな唇に映える紅と、形の整って筋の通った鼻から滴る深紅。この2色である。
彼とは、田舎の下町の中でも治安の悪い、貧民街に片足を突っ込んだような小さな町で出会った。
文明開化を終えてすぐ、まだまだ江戸の文化が根強く息づいていた時代だ。子供たちの立場は弱く、口減らしに売られることも多かった。彼も、その一人。
街の端、闇を孕んでひっそりと建つ安酒場が彼の職場だった。口減らしで売られた彼は、幇間として雇われている。しかし、治安の悪い地域の安酒場の幇間に、マトモな人権が認められるはずがない。まして、口減らしで親から売られたような子供だ。彼は余計に軽んじられて、時として男の身でありながら遊女の真似事さえさせられていた。
僕はそれなりにいいところの出で、その頃は貧乏ながら作家を目指して書生をしていた。しかし、学校には上手く馴染めず、友人もできず、売れる作家になると大口を叩いた手前親には頼れず借金塗れ。毎晩毎晩希死念慮で枕を濡らし、敷きっぱなしの万年床の上で執筆をするような毎日だった。
ある時、唯一自分を気にかけてくれていた先輩に連れられて、例の安酒場へ足を踏み入れた。そこは酒の匂いと男の欲望が渦巻く、酷く醜く汚い場所だった。
幇間も芸子もあどけなさを残した子供ばかりで、誰も彼もが絶望したような、光を失って死んだ目で緩く笑んでいる。僕は酷く居心地が悪くて、厠に行くと言ってその場を抜け出した。
ふと吹き出した秋風と、それに吹かれた落ち葉の乾いた音で庭に目を向けると、丁度月にかかっていた雲が晴れてきていた。光の差した、すぐ真下。雲の合間から立った光の柱に照らされるように、彼が居た。ここに居る男である以上、きっと彼も幇間なのだろうと思った。しかし、幇間に留めておくにはあまりにも彼は美しくて、その薄い唇に引かれた紅がやけに艶めかしく見えた。これが、一つ目の紅色。
僕はすっかり彼の虜になって、行きたくもない安酒場に入り浸るようになった。借金の額はますます増え、そろそろ桁が一つ上がるかと言う頃。それなりに彼と親密になってきて有頂天だった僕は、いつも通りに安酒場の暖簾を潜り、彼を目線で探していた。しかしその日は彼が居なくて、溜息を吐きながら厠を借りて帰ろうとした。
彼と初めて出会ったあの庭に、彼はいた。横には、この酒場の店主と思しき大柄な男がいる。
その男の無骨な拳が、彼の華奢な頬を打った。何度も何度も、執拗に。折檻である。彼が何をしたかは知らないが、僕はなぜか、得も言えぬような興奮を覚えていた。
彼の鼻から滴る深紅の液体が、わざとらしい色味の紅を流して、彼に一番似合う紅を唇に差していく。それが堪らなくて、罪悪感に苛まれて、僕はそれ以来その店に足を踏み入れることは無くなった。これが2つ目の紅である。
彼は昨日、誰かの元に引き取られたらしい。僕よりずっと背が高く、体格も容姿も整っていて、いかにも裕福そうな男。僕といた時よりずっと綺麗に光を反射する目で男に笑む彼を、下町の裏路地から、彼の姿が胡麻粒程になるまで見つめていた。
僕はあの日から、本格的に文壇入りを果たした。あの紅を描いた小説が、認められたのである。
彼の紅が認められたのが嬉しいような、けれどあの紅は自分の文章なんかでは表現しきれない悔しさのような、そんな感情を抱えたまま、今日も僕は記憶の上を何度も万年筆で擦っていた。
テーマ:紅の記憶
ケバいネオンと汚い喧噪に塗れたスラム街。そこが俺達のアジトだ。一本路地裏に入ればお楽しみ中のおっさんと少女に出会い、もう一本入れば死体が転がっている。そんな地域である。
そんな所に住んでいる俺達も、当然普通ではいられない。ここでは、常識とは枷であり、正義はゴミも同然である。何をしようと、やられた奴が悪い。強さは絶対的正義で、弱さは悪。踏み躙られ、好き勝手されたって仕方ない。だから、俺達は強くなった。俺とアイツの名を知らない奴は、このスラム内にはいない。そのくらい強くなったのだ。
元々俺は、ここの出じゃない。元は、スラムより上の地域、普通の世界で暮らしていた。警察雇いのホワイトハッカーとして、難事件をいくつも解決した。
しかし、奴らは俺をいとも容易く切り捨てた。あるサイバー犯罪が起きた時、真っ先に疑われたのは俺達ホワイトハッカーだった。ありとあらゆるシステムの管理状況、パスワード、侵入路からセキュリティまで全て知り尽くしていたことが仇となって、俺は正義から一転、使い捨てられた悪となった。
そのままスラムに流れ着いて出会ったのが、彼だ。彼は元々このスラムで生まれ育ったらしく、言葉も粗雑で知識もない。しかし、馬鹿ではなかった。彼は生きるために、外から流れ着きいかにも怪しかった俺の頭脳を見抜いて近付き、今では相棒の座に登りつめた。このスラムで生き延びていけるような喧嘩の強さは、頭脳戦を得意とする俺と相性がよかった。
今日も2人、格安の狭いボロアパートに身を寄せ合う。ここにある一番高いものは、きっと俺が唯一外から持ち込んだパソコンだろう。このアパートより、俺達の人権や体より、パソコンの方が高いのだ。
少し身動ぎをするだけで軋んで嫌な音を立てるソファの上、2人ぎゅうぎゅう詰めになって座る。俺達はもう大の大人、それもそれなりに身長も高く体格もいい男なので、狭くて仕方ない。
横で煙草を吹かす彼を横目に、ブラックハッカーへと堕ちた俺は、かつての同僚と電子上で対峙している。しかし、誰より長くホワイトハッカーとして勤め、誰よりそのシステムを理解している俺に勝てる者はいなかった。
外では、銃声やら悲鳴やら罵声やら、物騒な音が絶え間なく聞こえている。ぼすりとソファに沈み込んだ俺は、なんとなくで隣に座る彼の肩に頭を預け、2人で元の世界で、普通の世界で暮らせたら、なんて夢を見る。
随分古びて脚の欠けた机の上には、元の世界をなぞるように、せめてこの部屋の中だけでもこの夢を見続けられるように、俺の知っている普通をなぞったような小物の数々が並んでいた。
テーマ:夢の断片