「ねぇ、一緒にコレの制作手伝って。」
「は?」
俺しか部員のいないはずの美術部の扉が開いて、突拍子もないお願いをされる。目の前の小柄な男が突き出してきた紙を受け取ると、どうやら近頃行われるイラストコンテストの応募用紙らしい。このコンテストに応募したくて、美術部の俺にわざわざ声をかけに来たようだ。
「……お前、美術得意だっけ?」
彼と俺は同じクラスではあるものの、特に美術が得意だという印象はない。それなのにこのコンテストに応募したいというのは、些か不自然だ。
「いや、美術は全く。からっきしダメ。」
「…………は?」
余計意味が分からない。それならなぜ、と続けようとしたのを遮るように、彼が紙の一部を指差した。
「……文学……」
このコンテストのテーマは、文学。文学を絵で表現するのは少し楽しそうで惹かれたので、話くらいは聞いてみることにした。
「僕、趣味で小説書いてるんだけど。」
「趣味で小説。」
中々変わった男だとは思っていたが、小説を書くのが趣味だとは。何の接点も無かった彼の、新たな一面を見られた気がした。
「僕の書いた小説を、どうにか絵に落とし込んで欲しい。」
彼のお願いを要約するとこうである。彼は絵画も小説も好きで、このコンテストを見たときに応募したい、と思ったらしい。しかし、彼は絵は全く描けない。そこで、合作という形を取りたいようだ。
「……まぁ、いいよ。」
小さく頷くと、無愛想だった彼の顔に若干の喜色が浮かんだ。
いざ制作、となった時、彼からはこれを使ってくれと分厚い原稿用紙の束を渡された。作品の構図を決め、どこに原稿を落とし込むかを決める。そうして、小説のどの部分を切り抜くか決めるために小説を読み始めた。
気が付けば、夜中になっていた。彼はあの無愛想な表情と小柄な体躯からは想像もできないほど、艶めかしく瑞々しい、どこか気怠げな空気を纏った文章を書くようだ。文字の一つ一つに魂が込められているようで、俺は彼の世界に取り込まれてしまった。
今日は、コンテストの結果が発表される。元より入賞はそこまで狙っていないが、どうせやるからには何かしら賞が欲しい。そう思ってサイトを開く。結果は、佳作だった。
それでも彼と作ったものが認められたのが嬉しくて、すぐに彼に電話をかけた。
俺達は夜通し通話を続けながら、インク瓶の向こうのような、或いは筆洗の水の底のような、不透明で先の見えない未来を、2人で歩む同じ夢を見ていた。
テーマ:見えない未来へ
何も無くなった、いつかは街だった焼け野原。人類が引き起こした史上最悪で最凶の厄災が滅ぼしたその場所で、今はもう見られない、海の青と砂浜の金を宿した男が一人佇んでいた。
元は港町だったそこは、今はもう見る影もない。あるのは獄炎で焼かれて涸れた海と、澱んだ鈍色の空、赤黒い染みが取れない地面。人類が作り出した地獄に立つ男は、天使にも似た光を放つようだった。
「……なぁ、まだか。もうずっと待っているんだ。」
虫の一匹さえ見当たらない中、男の低く掠れた声がぽつりと零れる。その視線はどこか虚ろで、目の前にある岩の塊だけを見つめている。
「……こんなのお前じゃない……」
かつては苦楽を共にして、温もりを分かち合った戦友。だった岩の塊、もとい墓標に縋るように崩れ落ちる。海と同じ青色の瞳は、海と同じように涙も涸らしてしまった。
ふと、男の無骨な軍用コートを捲り上げるような突風が吹き抜ける。その風は空の分厚い煙の雲を裂き、鮮やかな空の色を描き出す。
「……あ……」
男の脳裏を、いつかどこかで見た彼の目が見つめている。自分のと対を成すような、鮮烈で燃え上がる緋色。そこに少しだけ混じった、高貴で冷静な菫色。戦友の瞳が、確かにそこにはあった。
「……おか、えり……」
泣くことを思い出した涙腺が、涸れた大地に小さな海を作っていく。自分が海ならば、彼はそれを包み込み見守るような空だった。落ちていく日をその目に宿した、温かく優しい彼。あれだけ耳に入れたのに、いつの間にか色褪せてしまっていた声が蘇る。
『泣きすぎだ、バカ。』
焼け野原になった街には、確実に人の気配は無い。けれど、確実に、背後から彼の声がした。
男は振り向くことができなかった。振り向けば、自分の見ている都合の良い幻覚が消えてしまうと分かっていたから。
都合の良い幻覚でもいいから、冷たい石塊でないお前に縋っていたい。
男がそう望んでしまった瞬間、また風が吹き抜ける。それは男の魂さえ喰らい尽くすほど強く、しかし温かかった。
風が吹き去った焼け野原。そこには、墓標を抱いて眠る男の体と、雲の晴れた夕暮れ空だけが静寂の間に生きていた。
テーマ:吹き抜ける風
「ようこそお越しくださいました。」
気が付いたら、見知らぬ屋敷の門に立っていた。正確な時刻は分からないが、空の暗さを見るに深夜帯であろう。前方から聞こえた声にぼんやりとそちらを見やれば、執事のような服装の恐らく男が佇んでいる。恐らくと言うのは、声や服装、口調や背格好から推測した結果だからだ。彼の顔は黒い羊のような、山羊のような動物の頭部を象っている。人の体に不気味な動物の頭がくっついているのだ。
「お屋敷の中に入られますか。」
そう言う彼の手には、火の宿っていない、空っぽのランタンが下げられていた。
「屋敷の中は暗いですから。危ないですよ、こちらをどうぞ。」
「いや……あの……火、点いてない……」
「危ないですよ、こちらをどうぞ。」
出来の悪いRPGのNPCのように、同じことを繰り返す。意味の分からないことを何度も聞かされて辟易し、そしてこれ以上この不気味な男と関わりたくなくて、さっさと空のランタンを受け取って門をくぐる。古びた外見と点かない灯りの割に、丁寧に手入れがされた屋敷だった。
入ってみると、外見から一変、中はひたすらに奥まで続く長い長い廊下があるだけだった。廊下だというのが入り口から差す僅かな光で分かるだけで、他に何かあるのかもしれないが。
他にできることも無いので手探りに廊下を進んでいく。視覚を奪われているのと本当に何も無いのとで、永遠にも感じられるほど長かった。壁伝いに歩いていくうちに、いくつか分かった。どうやら、ここは画廊か何からしい。壁に触れる右手に、定期的に額縁のような何かが触れる。
ひたすら進んでいると、それなりに強く頭をぶつけで蹲った。どうやら最奥に着いたらしい。せめて何かあってくれ、と願いながら壁を探ると、何か出っ張ったものが指先に当たった。感触からすると金属製の箱のようなもの、中央にはさらに謎の丸い出っ張り。直感的に、ボタンだと思った。普段なら警戒して絶対に押したりしないのに、俺はなぜかその時、深く考えずボタンを押した。
途端、空っぽだったランタンにぼんやりと光が灯る。どういう仕組みかは分からないが、一先ず光源を入手した俺は安堵感に包まれながら、それ以上見るものも無いので来た道を戻ることにした。
カツカツと硬質な足音が響く。画廊だと思っていたこの廊下に飾られていたのは、絵ではなく鏡だったらしい。思考にノイズが混じっていく。鏡に映る自分の顔には、赤黒い液体が点々とこびり付いていた。
そうだ、殺したんだった。
ふわふわとして夢見心地だった足取りが、急に現実に引き戻される。幾重にも反射する鏡の中の自分が、責めるような目つきで俺を見る。
少しずつ、記憶が戻っていく。動機、手段、凶器、場所、時間。そして、相手の顔。記憶が一つずつ戻る度、ランタンの火は赤みを増していく。
出口のドアに着く頃には、手元のランタンはあの日の部屋の中のような鮮烈な赤を灯していた。頭は警鐘を鳴らして止めようとするのに、体は操り人形にでもなったかのように勝手に扉を開く。
「おかえり。」
目の前に、あの羊頭の男が立っている。顔を上げたくなかったのに、顎を掬われて目を合わせられてしまった。
「痛かったよ。すごくね。痛かった。痛かったんだ。」
目の前にいるのは、羊の頭をした悪魔なんかじゃない。あの日俺が殺した、彼。
がばりと身を起こして、冷や汗で湿った布団を握り締める。あれは夢だ。俺のせいじゃない。そう、事故。不運な事故、だったんだ。
夢の中の彼の目が網膜に焼き付いて離れない。夢だ夢だと譫言のように繰り返す俺の背後には、空になって煤けたランタンが一つ、転がっていた。
テーマ:記憶のランタン
凍てつくような白い息を吐き出しながら、ひたすらに北へ進んでいく。かつての彼の姿を追うように、残影に縋るように、ひたすら。
人形と見紛い、いっそ不気味なほど整った容貌。他の誰より高い身長に、靭やかで細身だがしっかりと引き締まった筋肉質な体躯。かつての友であろうと敵になったら容赦しない冷徹さに白銀の髪にアイスブルーの瞳も相まって、軍学校時代、彼の渾名は人呼んで「冬将軍」だった。
その名を冠するだけあって、彼は冷たい人間だった。他人に興味など無く、関心を向けるのは自国の勝利と栄光のみ。多くの者が街へ出かけるような、軍学校の数少ない休日さえも訓練に明け暮れるような人だ。冬将軍の名は伊達ではない。
そんな彼と俺が出会ったのは、彼の名によく似合う冬の日だった。俺は人と話すことが好きだったし、軍学校に入ったのだって体を動かすのが好きで、たまたまそれが優れていたからだ。彼のような大層な理由も、大義も無い。南方の出自であった俺は、持ち前の多弁に黄金色の髪、褐色の肌、そして橙色の瞳。俺は、彼と対を成すように「太陽」と呼ばれた。何もかもが対局的で、実力による2人ペアの実戦訓練で彼と組むことになった時は本当に嫌で嫌で仕方なかった。
けれど、話すうちに彼が冬将軍なんかじゃなく、普通の、俺と同じように生きる人間なのだと分かっていった。北国の将軍家で生まれたらしい彼は、母親の作る芋のスープが好きらしい。いつの間にか俺達は惹かれ合い、高め合い、やがては月と太陽に例えられるほど強い、最高のバディににった。
なのに。皮肉にも彼は、真夏の日差しの中で散っていった。冷酷な冬将軍だった彼は、いつか俺に似ていると言った太陽の真下で死んだ。あれだけ冷たかった彼は、俺と交流するうちにその氷を溶かしていったらしい。同期の仲間を庇って死んだと、出撃直前の俺に伝えられた。
そこからは、よく覚えていない。気が付けば玉座の間で英雄として勲章を与えられ、冬将軍の友として名誉の二階級昇進を遂げた軍服を代わりに受け取った。
太陽だった俺はその日、間違いなく死んだ。あの剣技への燃え上がるような情熱も、彼を溶かした温もりも、きっと今の俺にはもう無い。
動かなくなっていく手足を見下ろして、その場に座り込む。かつての彼を、冬将軍を追いかけて北へ逃げ続けた俺は、かつての彼と同じような顔をしているのだろう。
ひたすらに、ただひたすらに冬へ進み続ける。どんな剣技も、どんな勲章も、彼が居なければ価値がない。
彼が守った自国は真夏。冬将軍は、もういない。
テーマ:冬へ
「ねぇ、君こないだからずっとそこいるよね?」
突然、大通りの方から来た綺麗な身なりの子供が声をかけてきた。年は俺と同じくらい、身分はきっと天地の差。大方、ずっとこの薄汚くてじめじめした路地裏に、死んだように転がっている俺に好奇心が湧いたとかそんなんだろう。こういうのは大抵、無視していればすぐに飽きて元の場所へ、光の下へ戻っていく。
「ねぇってば。聞いてる?おーい。」
目の前でブンブン手を振られたり、あるいは跳ね回られたりするが、全て無視する。挙動があまりに幼くて、本当に俺と同い年くらいなのか自信がなくなってきた。食べ物やらの違いで発育が違うのかもしれない。本当はずっと年下なのか?
「もー……無視しないでよ。」
急に手に温もりが伝わってきて、俺は無視を突き通せなくなった。路地裏で生活しているような孤児は、風呂にも入れない上ゴミを漁って生きているのがほとんどだ。そんな臭くて汚いような存在に、好んで触れたがる者なんて見たことがなかった。
顔を上げると、目を焼くほどの、眩く瞬く白い光の下で屈託なく笑う男がいた。
「あ、やっと目ぇ合った!」
何が楽しいのか、ケラケラ笑いながらさらに距離を詰めてくる。路地裏では嗅いだことのないような、清潔で清廉な石鹸の匂いがした。
「君、ずっとここにいるの?」
諦めて小さく頷くと、彼は少しだけ目を見開いてまた笑った。
「こんなとこで過ごしてたら病気なっちゃうよ。……ね、僕んちおいでよ。ね?」
いつか見た子犬のように、こてりと首を傾げて言う彼の顔は純粋そのものだった。汚れも、身分も、見た目さえ厭わない。もしも神か、あるいは天使がいるのなら、それはきっと彼の形をしている。そう思うほどの純粋だった。
俺達には縁のない、高い高層建築に切り取られた長方形の夜空の下。路地裏の空気は相変わらず澱んで、死んだ仲間の死臭と鼠の駆ける音に支配されている。しかし、そこに彼がいる。全てを照らし出しているのに、なぜかその全てを綺麗に見せてしまうような純白の月光を背負って、そこに立っている。
月の光に縁取られた彼の姿を腐った網膜に焼き付けながら、俺は初めて、煌びやかで絢爛で、暗所に慣れ堕落した目には眩しすぎるほどの光を讃えた街を見た。
テーマ:君を照らす月