「ね、ね、知ってる?」
「何を?」
戦闘糧食のカビ臭いようなペーストのパウチを咥えながら、グダグダと駄弁っている。ここ最近は忙しくて、浴びた化け物の血も多い。体中がベタベタするし、生臭いような匂いは不快感を刺激して止まないので早い所風呂に入りたい。そんな思いも若干乗せつつ返事をする。
「なんかさ、人類がここに引っ越す前の星あんじゃん?」
「あね。なんだっけ、地球?天の川銀河太陽系の第三惑星っしょ?」
「そーそー、それ。」
彼はパウチを早々に吸い尽くしたらしく、ゴミをそこらに放り捨ててクラッカーの封を開けている。軍に入る前ならポイ捨てを注意したかもしれないが、軍に所属した今、もう俺にはそんな気力は無い。どうせどこもかしこもゴミ捨て場と変わらない、廃れた文明の掃き溜めだ。
「地球ってさぁ、『昼』があったんだって。」
「なんそれ。」
聞き慣れない単語に首を傾げる。俺は彼よりは頭がいいと自負してはいるが、そこまで賢いわけでもない。当然だが、学校なんて金のかかる所、通ったこともない。
「恒星の太陽が、地上を照らす時間があったんだって。今俺らが使ってる時間もその頃の名残りらしいよ。ちょうど半日くらいが『昼』だったんだって。」
ここでは想像もできない話だ。人類が地球を捨ててから、もう気が遠くなるほどの時が経っている。恒星の恩恵を知る人類はもういない。ここにあるのは、各コロニーに設置された、小さな機械仕掛けの疑似太陽だけだ。化け物共の生み出す闇に呑まれたこの星では、電気が無ければ明かりなんて得られない。
「……ちょっと気になるな。」
「でしょー?」
ペーストを吸い終わった俺は、彼と同じようにそこらにゴミを投げ捨てて立ち上がる。クラッカーは昨日彼とした賭けに負けて全て没収されたので今日は抜きだ。
「……ん、出動だって。第5-F地区で水母型だとよ。」
「げ、アレめっちゃ体液多いじゃん……あ゙ー!早くお風呂〜……」
「本部戻るまでお預けだ。」
恨めしさを孕んだ彼の呻き声が響く中、2人並んでダラダラと歩いていく。俺達が立った後には、かつての栄光を、恒星の温もりを忘れられない人類が造った、疑似太陽と化け物共を撃ち殺すための迎撃塔の群れが織り成す、乾いた木漏れ日の跡だけが残っていた。
テーマ:木漏れ日の跡
「じゃあ、また明日な。」
「……うん。また明日。」
今日もそう言って、三叉路を二手に別れて歩く。彼が視界から消えたら、カーブミラーを覗き込んでギリギリまで見送って。彼の姿が完全に追えなくなってから、家に帰る。もう何年も続けているルーティンだった。
中学生のとき、彼は一度、自らの手でこの世を去ろうとした。虐めがあったわけでも、家庭環境が悪かったわけでもない。ただ、彼は少しだけ人よりも繊細で、自分のことが分からなくて、夜空に浸したように不透明な未来が怖くなってしまったんだと思っている。勿論俺の勝手な妄想だから、合っているかは分からないが。
その日から、俺のこのルーティンは始まった。また彼がいなくなろうとしたら、本当に俺の元から消えてしまったらと考えると、どうしようもなく不安になる。だからこうして、毎日毎日小さな約束で彼をこの世に縛り付ける。彼はなんだかんだ言って優しいし、俺に甘い。俺との約束を彼が破れる訳が無いという絶対的な信頼と、過大なまでの自信を持っていた。
今日のように、単純に明日も会う約束の時が多いが、ずっとそれではいつか破られそうで不安になる。だから、たまに買い物に行こうだとか、家に行っていいかだとか、そういう少しだけ大きい約束もする。
こんなささやかな約束すら破れない彼だから、あの日ふっと彼の中の何かが溢れてしまったんだろう。人から鈍いとよく言われる俺では、その溢れそうな何かを減らすことも、一緒にそれを背負うこともできない。
下らない、どうでもいい、ささやかな願いを込めた小さな約束が、俺の限界だった。この細くて頼りない糸でしか、彼をこの世に縛ることはできない。
こんなことを考えていたら、また不安が頭を支配しそうになってきた。回らなくなってきた頭で携帯を取り出して、そのまま何も考えず彼に電話を掛ける。コール音が増えていく度、不安はかさを増していく。
『……もしもし?どうしたの?』
いつも通り優しい彼の声がして、俺はようやく息を吐けた。何でもないと誤魔化して、少しだけ明日の話をして電話を切る。
膨らんできた希死念慮を彼との約束で押し込めながら、自嘲気味な笑みが零れてきた。
あの約束でこの世に縛っているのは、本当は彼の存在ではない。俺が俺自身を殺さないために、俺ごと彼をこの依存の沼に縫い付けているに過ぎない。
2人でだめになっていく感覚に怯えながらも、俺はどうしようもない安堵感に絡め取られていた。
テーマ:ささやかな約束
澄み切った空気、純白の礼拝堂。祭壇も、彫像も、なにもかもが雪を被ったように輝く白色で統一されている。そんな空間に色を齎すのは、天井高くに嵌め込まれた青色を主軸としたステンドグラスのみ。
そんな教会によく似合う人を、僕は知っている。幼馴染であり、兄のような存在であり、親代わり。僕がこの世の中のありとあらゆる愛を注ぐべき存在。
「おかえり。」
そう柔和に緩く笑む姿は、聖書のどの一節より美しく、神聖さを纏った光が差して見える。
瑞々しい艶を放つ白磁の肌に、天使と見紛うような美貌。世界一の絹糸だって比にならない程繊細で柔らかな白銀の髪。白い服に身を包み、緩やかに、緩慢に動く様は人形劇の一幕にすら見える。髪の毛と揃いの真っ白で長い睫毛に縁取られた瞳は、海よりも、空よりも澄んで美しい青色をしていた。
僕は心底、彼に心酔している。僕が信じるのは、聖書に出てくるカミサマでもなく、教会に置かれた紛い物の彫像でもなく、間違いなくこの世に存在し、生きている彼ただ一人だった。
僕の信仰心は、いっそ狂信と言っても過言ではないと自負している。僕は彼が望むのなら喜んでこの身を差し出すし、国の一つや二つ、笑顔で返り血を浴びながら滅ぼしてみせる。そのくらい、彼が好きだった。
酷く虐げられていた僕を救った彼は、僕の、僕だけの神様。僕だけが彼を知っていればいいし、彼だけが僕を知っていればいい。僕達の間には、誰もいらない。
でも、そう思っていたのは僕だけだった。彼は、別に僕だけを望んではいなかった。あの真っ白で神聖な空間に、異物を入れた。他でもない、僕の愛する彼が。
僕にはそれが許せなかった。少しだけ、ほんの少しだけ。彼に似た柔らかなホワイトブロンドの髪が、空を溶かし込んだように清らかな水色の瞳が、羨ましかったのかもしれない。
僕の狂信に届くほどの信仰心は、彼が奴を拾ってきたあの日から一変、激しく燃え上がる嫉妬と憎悪の念に変わった。今思えば、この真っ白な教会で一番の異物は、夜空の闇をを煮詰めて固めたような黒髪に鮮血の瞳を持つ、忌み子と呼ばれた僕だったのかもしれない。
この白に終焉を齎したのは、僕だった。あの美しい白を赤に染め、澄んでいた青を濁らせたのも。そんな色によく似た模造品をぐちゃぐちゃになるまで壊したのも、全部僕。
夜の帳に浸り、黒に染まり、月明かりが鮮烈な深紅を映し出す礼拝堂。僕は、かつて神聖だった肉の塊に向かって跪き、彼と、彼の愛し子と同じになりたくて、この喉笛を捌いて汚れた血を吐き出した。
テーマ:祈りの果て
「数学暇すぎて迷路作った!!」
「小学生かよ。」
どん、と効果音がつきそうなほど自慢げに、彼が眼前に紙を突き出してくる。裏を見れば、今日配られたばかりの数学のプリントだった。問題は全然解かれていなくて9割が空欄だ。
「……以外とよくできてんな。」
定規か何かできちんと引かれた直線は、落書きにしては高クオリティの迷路を構成している。彼とは長い付き合いだが、昔からこういった余計な所には過度なほどの集中を見せた。
「でしょー?ね、やってみてよ!」
「おー……」
かなり入り組んでいて複雑な迷路だったので、適当に筆箱からマーカーを取り出して道をなぞりながら進んでいく。ペンを持ったとき、目の前に立つ彼が一瞬ぎくりとした気がした。
そこそこ時間が経って、迷路を解き終えゴールする。何とも言えない達成感に満たされながら、してやったりといった心持ちで彼の顔を見上げた。
「どーだ、解いてやったぞ。」
「……ん……うん……そうね……うん……」
なぜか噛み合わない視線に違和感を覚えた。彼はファイルを顔の前に立て、わざわざ俺から顔を遮っている。あまりにも露骨に俺の視線を避けるので、つい悪戯心が湧いた。
ファイルを奪い取り、頭を掴んで強引に視線を合わせた。彼の顔はなぜか真っ赤で、呆然と開かれた口が忙しなく、はくはくと開閉している。
「……なんだその顔。」
照れたような彼の顔のせいで、俺達の間に微妙な空気が流れる。気恥ずかしくなってきて視線を落とすと、さっき解いたばかりの迷路が目に入った。
白い紙に書かれた迷路。ゴールへと続く道は、マーカーで綺麗に塗り潰されている。
「…………えっ、」
『スキ』。確かに、そう浮かび上がっていた。ガバリと彼の顔を見直せば、尚更真っ赤になってうっすら汗ばんでいる彼の姿が飛び込んでくる。
「……お、まえ、なぁ……!」
俺の頬まで熱くなってくるのを感じる。目の前にいる幼馴染は、この複雑に絡み合った迷路に本心を託したらしい。俺がペンを持ったときぎくりとしていたのは、色をつけてしまえばその本心がいとも容易く暴かれてしまうからだろう。
「こういうのは直接言えって……」
天邪鬼な俺達の真ん中に置かれたのはもう、ただの迷路じゃない。変に几帳面で、複雑で、入り組んだ、俺達の心を代弁したようなものだ。
彼の、そして俺の、心の迷路のゴールまで、あと数秒。
テーマ:心の迷路
「あ。」
ある日の暖かな昼下がり。ガシャンと大きな音を立てて、2脚セットのティーカップの片割れを落としてしまった。美しい細工がされたティーカップだったものは、割れた綺麗な陶器片へと成り下がる。そこそこ長い期間使っていた物なので、落ちた破片に妙な哀愁を感じた。
愛惜の念が強かったので、ティーカップは手放さないことにした。それに、恋人と揃いの茶器の片割れを捨てることは些か憚られた。
調べる方法を色々と調べて、近くの工房に金継ぎを依頼した。それなりに値段はしたが、仕上がったものを見れば懐が空くのも惜しくはなかった。
破片の縁は金色の線で縁取られ、元のそれには無かった美しさを醸し出していた。とはいえ落としたのは自分なので、恋人には綺麗な方を使わせ続けたが。
そんな日が、ふと過った。病院のベッドの上、等間隔に響く電子音が自分の鼓動と重なる。静かに聞こえる幽かな呼吸音とその電子音だけが、恋人の生を感じる唯一の手段だった。
腰の辺りから下の布団は、ぺたんとしていて厚みがない。つまりは、そこに本来あるべきものが無い。俺の恋人は、事故で足を失った。
突然のことだった。手を繋いで、寒空の下を2人で歩いていた。そして、その手に振り回され、直後車が突っ込んできた。
俺は背中をぶつけただけの軽傷だったが、アイツは違う。下半身が轢かれてぐちゃぐちゃだった。骨の砕ける音と、空回りするタイヤに人の肉が焼かれる嫌な匂いが今もこびり付いて離れない。
「お前の脚も金継ぎできれば綺麗だったのかな。」
きっと、あの白くて長い脚に金色の線はよく映える。
白磁の陶器に細く繋がった線をぼんやり見つめながら、2脚のティーカップに紅茶を注ぐ。真っ白で無垢な片方には砂糖をたっぷり入れて、俺はストレートで。
金継ぎされた方がすっかり軽くなっても、片割れは温度を失うばかりで減りやしない。
冷え切った紅茶は渋味を増しているのに、それに尚打ち勝つほどの甘みと、それから塩味。冷たくて甘ったるい紅茶を口に流し込んで、下らない幻想ごと一滴残らず飲み下した。
テーマ:ティーカップ